2.暑気払い

 この島ーー幸尽(こうじん)島というーーにある幸尽高校は一学年が40人の小規模な学校だ。

 本州からは30分程かけてフェリーで通学しなければいけない。たまにのことなら楽しめもするだろうが、それが週5日ともなると楽しいわけがない。だから幸尽高校へ進学希望する学生はだいたいが島内の子の為、いつも定員割れしていた。

 勿論島外から進学してくる子もいるが、それはほんの僅か。幸尽高校は島の特色を活かし、海洋スポーツや海の生物の生態を学ぶ授業や、小型船舶操縦士免許の取得を目指す授業があるので、島外からの進学者の大体はそれが目当てのようだった。


「小夜、制服似合ってる」

「……ありがと。悠も似合ってるよ」


 悠らしからぬ直接的な褒め言葉は、遠回しに私のことを励ましているのだろう。ある程度の時間をかけて覚悟していたのに、いざ隣に倫太郎がいないとなるとやっぱり寂しい。


「倫太郎、6時過ぎに家出るって言ってた」

「ふぅん」

「小夜……、倫太郎お前のこと気にしてたぞ」


 そんなこと今さら言われなくても分かっている。口をへの字に曲げて不貞腐れてはいるが、これが子供じみた我儘だということは嫌と言うほど理解しているのだ。分かってはいるけれど、やっぱりまだ受け入れられない。


「倫太郎の制服……見た?」

「ん?あぁ、学ランだった」

「そっか……ブレザーより似合いそうだね」


 中学校は深緑のブレザータイプの制服だった。それも勿論似合っていたが、体型も割とガッチリしており、爽やかな倫太郎には学ランの方がしっくりきそうだ。


「見たかったな、倫太郎の学ラン」

「見せてもらえよ。倫太郎が島外に進学したからって、住んでるのはここなんだし」


 会おうと思えばいつでも会えるだろ、と言った悠は、私を元気付けるように頭を一度、ポンと軽く叩いた。


「そうだよね……でも、悠が幸尽に進学してくれて良かったよ」


 先に歩き出した悠に追いつこうと小走りで駆け寄れば、悠は私にニッコリと美しい笑みを向けた。


「昔から言ってたけど、俺の使命は小夜を守ることだから」


 そう言った悠はまた前を向いて歩き出す。「ほら、遅刻するぞ」と私を手招きした悠の指は、節がなくスラリと細長い。その指を見つめて思い返したのは、去年の夏前のことだった。






 インターホンを鳴らさずに玄関を開けた私を見た倫太郎は、ギョッと目を見開いた。


「さ、小夜……何があったん?」


 拭っても拭っても頬を濡らす涙は一向に止まる気配がない。ヒックヒックと肩を揺らしながら、私は「りんたろー」と彼の名前を呼んだ。


「ん?あらー、小夜ちゃん、どうしたん?倫太郎、うち上がってもらえ」


 一体何事かと、リビングからひょっこりと顔を出した倫太郎のおじいちゃんも心配げな声を出した。


「小夜、俺の部屋おいで」

「……うん……突然ごめんね」

「いーっていーって!あったかいお茶も淹れてやるからな」


 泣きたいだけ泣けばいいよ、と、倫太郎が私の手を取った。ゴツゴツで節が太い男の子の手。私はこの手にいつも救われている。


 倫太郎の部屋は心が穏やかになる。ここには私を"上月小夜"として接してくれる味方だけしかいない。

 畳に座った私の横に「よいしょ」って腰を下ろした倫太郎は、親指の腹で私の手の甲を優しく撫でた。親指が往復する度に、私の心の底に溜まった膿が少しずつ溶けていく。倫太郎、好き。ずっと一緒にいたい。友達としてでいいから、同じ時間を共有したい。だけど、だけど。


「ダメって言われた……私、倫太郎と同じ高校に行けない……!」


 頭の隅では充分なほど理解していた。家族が島外への進学を許してくれないこと。だけどもしかしたらって、わずかな期待を捨てられずにいた。まぁ、「島外の高校に行きたい」と言った私に返されたのは「許せるわけがないだろう」という予想通りの言葉だったけれど。


「……そっか。そっか……」


 私の悲しみがそっくりそのまま移ったみたいに、倫太郎も肩を落とした。だけど、倫太郎は「俺も小夜と一緒にこの島に残るよ」とは言ってくれなかった。

 当たり前だ。倫太郎はこの島を窮屈に感じていて、将来は絶対島外へ出たいと言っていたのだ。だから、そう言ってはくれないことなど百も承知だった。ただ、もしかしたら、って、私が自分勝手に一縷の望みを抱いていただけ。倫太郎は何も悪くない。


「おい、開けるぞ」


 3回ノックの後、こちらの返事を待たずに部屋の扉が開いた。そこにはやっぱり悠が立っていて、その顔は険しく眉根が寄っている。


「悠、なんで?」

「お前んち行ったら、飛び出て行ったって聞いたから……ここかなって」

「おー!大正解!ハルカもお茶飲む?俺淹れてくるわ」


 そう言って立ち上がった倫太郎の手が私から離れた。寂しい。もっと手を握っていてほしかった。部屋から出て行く倫太郎の背中を名残惜しそうに見つめている私の横へ、今度は悠が腰を下ろす。


「進学先、島外ダメだって?」

「……お父さんに聞いたの?」

「いや……まぁ、なんとなく」

「すごいね。悠はなんでもお見通しだ」


 へへ、と暗い空気を紛らわすように笑って、垂れてきそうな鼻水をスンとすすった。


「倫太郎はなんて?アイツは島外に行くだろ?」

「……うん、たぶんね。倫太郎、ずっと楽しみにしてるもんね」


 悠は「だな」と鼻で笑った。大方、「俺は絶対島外の高校!」と声高に宣言した倫太郎を思い出しているのだろう。


「私は結局、この島から出られないんだよ」


 そう言って自嘲した私を、悠の感情の読めない黒い瞳が見つめる。やっぱり哀れんでいるのだろうか、微かにゆらゆらと揺れる瞳に惨めな私が映っている。


「俺が残るよ、この島に」

「……え?」

「俺も小夜と一緒に幸尽に進学する」


 ふっと悠の眦が下がった。「どんだけ泣いたんだよ」とヒリヒリと痛む赤くなっているであろう私の目尻を、悠の指先が優しく触れた。


「お待たせー!めっちゃ上手に淹れられたわ!」


 あったかいお茶を3つ、お盆に乗せた倫太郎がバランスをとりながら器用に扉を開けた。倫太郎の「おっとっと」って言葉が不安を煽る。「おい、こぼすなよ」って言って、悠がお盆を受け取ろうと私から指先を離した。無意識に視線が追いかけた悠の指はスラリと細長い。倫太郎と全く違う手だ。





 悠と別れた後、「まだ帰りたくない」と我儘を言った私に、倫太郎は「しょーがねーなぁ」と眉尻を下げた。


「海見に行こーぜ」

「やった!」

「あ、一応家には連絡入れとけよ?」

「……うん、分かってる」


 そう言いながら全く納得のいっていないだろう私の声音に、倫太郎が吹き出すように笑う。子供みたいにケラケラと笑う倫太郎は、私の頭をポンポンと叩き、本当の子供みたいに扱った。失礼な話だ。勉強は私が教えてあげてるのに。


「もぉ〜、倫太郎、私のこと子供かなんかだと思ってるでしょ?」

「ん〜?子供だなんて思ってねーよ!どっちかっつーと、手のかかる妹、みたいなね?」

「……え〜?妹?ふふっ、ひっどーい」


 本当に鈍感で酷い男だ。私はこんなにも倫太郎のことを好きだというのに。妹って、それ、恋愛対象じゃない人に使う言葉じゃん。


「妹なら、離れてもまた会えるよね?」


 家族なら、進学先の高校が違ったぐらいで疎遠になったりしないよね。そうでなければ、倫太郎に妹扱いされるメリットなどないじゃないか。


「高校離れるの不安?」

「……だし、寂しい」


 だよな、って言いながら、「ここ座ろうぜ」って、倫太郎は防波堤に腰をかけた。


「夏の匂いがするな」

「……うん、分かる。もう夏だね」

「今年も泳ぐだろ?」

「あれ?受験生は夏休み返上で受験勉強じゃないの〜?」

「……っうっ、息抜きだよ、息抜き」


 少し遠くで波の音が聞こえる。それにこのまま身を任せていれば、私の恋心も連れ去ってくれるだろうか。


「俺らは、離れても変わらねーよ」

「……そうなの?」

「うん。俺はずっと、小夜とハルカが一番大事」


 あと、じいちゃんも、と倫太郎は慌てたように付け足した。


「変わらない、か……」

「ん?なんて?」

「ん?なにも?」


 変わらないことが、嬉しいようで悲しい。私はいつまで倫太郎の手のかかる妹なんだろう。結局、結ばれはしないのだから、妹だと思ってもらえるだけで幸せなんだよね?

 じゃあ、いったいいつまで妹として扱ってもらえるのだろう。倫太郎は来年の春、島外の高校で新しい友達を作るのだ。倫太郎のことだから、きっとすぐにたくさんの素敵な友達ができるだろう。その中には、倫太郎のことを好きになる子だって現れるかもしれない。なんのしがらみもない、好きな人に好きだと言える女の子。


「そ?空耳か」

「うん、空耳。あ、そうだ。悠も幸尽に進学するって」

「え?まじで?良かったじゃん!ハルカがいれば、小夜も寂しくねーな」


 倫太郎は心底安心したようだった。私からすれば、倫太郎と悠に対する想いは違うのだ。悠のことも大切で大好きだが、倫太郎へのそれとは全く違う。だから、悠がいればそれで大丈夫だとは思わない。

 しかし倫太郎はそうではない。だって彼の中での悠と私は同じ立ち位置なのだ。だからこそ、自分の穴を悠が埋められると思っている。


「ハルカは小夜のナイトだもんな?」

「え……ナイト?ナイトって騎士ってこと?」


 ざわりと胸が騒いだ。


「そそ。ハルカ、昔はよく言ってたじゃん?『俺が小夜を守る』って。俺、子供ながらに『かっこい〜』って思ってたよ」


 倫太郎は純粋な気持ちで悠を褒めている。そこに昔からの言い伝えに囚われた妄執はない。しかし、悠のその言葉は確実に彼の親から刷り込まれた言葉なのだ。


 悠の父親は、上月神社の巫女を教祖とした幸尽教の熱心な信者である。だからこそ直系血族の女児である私のことを崇めている。悠はそんな父親から「お前の使命は巫女様を守ることだ」と言い聞かせられて育ってきたのだ。悠もまた、この島に蔓延る異常な宗教観の被害者であった。


「やめてよ……。やっぱり倫太郎は私たちとは違うよね」

「え?急にどうした?俺、なんかまずいこと言った?」


 突如として機嫌を悪くした私に、倫太郎は戸惑っている。その無垢で純粋な反応が、また私の神経を逆撫でした。


「小夜?ごめん……俺、知らずに傷つけたかな?ハッキリ言ってくれよ。そしたら直すから」

「いいの。倫太郎が悪いわけじゃないから。それに島外に行く倫太郎には、もう関係のないことだから」


 じゃあね、と私はその場から逃げた。「小夜、待てって」と私を引き止める倫太郎からも逃げた。

 倫太郎はちっとも悪くない。悪いのは間違いなく私なのだ。倫太郎と私と悠、その未来の広がりの違いをまざまざと見せつけられて、変えることの出来ない出自や過去を恨み、決まりきったこれからに自分勝手に絶望した私。

 変えることのできないものを受け入れられる強さが私にあれば、こんなに苦しまなくてもよかったのかな。

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