第36話

 きしむ音が聞こえてきそうなほど強く噛みしめられた歯は、どんな言葉よりも雄弁に、今の彼の感情を表していた。


 まさしく、憤怒の形相。


 癇癪持ちのヘイデールは不愉快なことがあると、せっかくの美しい鼻梁を歪め、しばしばこういう顔をすることがあった。そして今、彼の激しい怒りは、私へと一直線に向けられている。


 恐怖と緊張で、かすかに足が震えた。


 なんとなくだが、彼がここにやって来た理由は、想像がつく。

 恐らく、ジェランドさんと私の関係を、問いただしに来たのだろう。


 やっぱり、秘密にしたまま旅立つというわけにはいかないか。


 ……いいわ。心のどこかで、故郷を離れる前に、ヘイデールとの関係にも、決着をつけておきたいとは思っていたもの。ヘイデール。あなた、もの凄く怒っているみたいだけど、私だって、あなたに言いたいことがあるのよ。


 真正面からヘイデールの鋭い瞳を見据え、対話の覚悟を決めると、足の震えは自然と収まり、気持ちも落ち着いてくる。……ふと、ヘイデールの後ろにある小窓から夕日が差し込んできて、軽い既視感が胸に去来する。


 そういえば、ヘイデールと初めて会ったのも、私が一人で店番をしていた、夕暮れ時のことだったわね――


 もっとも、あの時のヘイデールは、優しくて、穏やかで、今とはまるで別人だが。……彼との関係が始まった場所で、私は今、彼との関係を終わらせようとしている。なんだか、不思議な運命だ。


 そんな想いに浸る私に、ヘイデールは怒鳴った。


「レオノーラ! 父上から聞いたぞ! どういうことだ! 僕という婚約者がいるというのに、あのジェランドと……ジェランドと……!」


 なるほど。

 ヘイデールのお父様が、口を滑らせたのか。


 ……『僕という婚約者がいるというのに』か。

 確かに、婚約を解消する前に、他の男性に想いを寄せたことを責められては、道義上、反論のしようもない。私は素直に頭を下げる。


「ごめんなさい、ヘイデール。それについては謝るわ。……でも意外ね。アリエットに夢中なあなたが、今さら私のことで、こんなに怒るなんて。もう私には、とっくに関心を失ったと思ってたわ。最近は、ほとんど会うこともなかったし」


 思いがけないほど強気な声が出て、自分で、自分の言ったことに驚いてしまう。……そうだ。私は、アリエットに篭絡され、私をないがしろにしてきたヘイデールに対し、ずっとずっと、直接文句を言ってやりたいと思っていたのだ。


 じわじわと溜まっていた憤りや不満が、まるで燃料のように燃え、それが今、強いエネルギーとなって、私に力を与えているらしい。

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