猫と美女と、カフェラテの香り

和辻義一

猫と美女と、カフェラテの香り

 俺が親父達から頼み込まれて、喫茶店の経営を任されるようになってから三年がたった。


 何とか二流どころの大学を卒業して就職したものの、その就職先がいわゆるブラック企業という奴で、身も心もボロボロになり過労死寸前にまで追い詰められたのだが、ぎりぎりのところで踏みとどまって何とか会社を辞めたのが、今から四年前のこと。


 それから一年ほどの間は、実家へと転がり込んで心身を療養する日々を送っていたのだが、そんな時に親父が軽い脳溢血のういっけつで倒れた。幸い命は取り留めたものの、下半身が麻痺してしまい、親父自身は喫茶店の店先に立てなくなり、おふくろも親父の介護をしなければならなくなった。


 ただ、喫茶店経営は親父達の昔からの夢で、親父の退職金を当て込んで自宅を改装し立ち上げた店だった。親父もおふくろも、働かなくてもただ食っていく分には支障がなかったが、自分達の夢の成果を手放すのは忍びないからと、新しい店の経営者として俺に白羽の矢を立てた。


 今まで育ててもらった恩もあるし、会社を辞めてからもしばらく食わせてもらっていた義理があったこと、次の就職先もこれといって決まっていなかったことなどから、話はトントン拍子で進み、俺が喫茶店の新たなマスターになった。


 マスターになってみて、まず最初に分かったことは、親父達は店を構えたところまでで満足してしまって、店を立ち上げてからの経営のことをほとんど何も考えていなかったということだ。


 より具体的にいえば、集客とか客席の回転率とか、この店から収益を生むことについて、てんで無頓着だったという話で、丸一日店を開けていても、来てくれる客は近所の顔見知りが数人だけ、それも一週間に一回ぐらいの頻度だった。こんな調子では、親父達が自分達の趣味の範囲内で経営している分にはともかく、俺の食い扶持などは到底稼げそうにない。


 そこで俺は親父達を説得し、最初の二年間だけはいったん店を閉め、家から少し離れた場所にある昔ながらの喫茶店のマスターに頼み込んで、喫茶店経営の修行をさせてもらうことにした。


 バリスタになるための専門学校へ通うことも考えたが、それだけでは技術は身についても経営のことは分からないだろうし、何より俺にそれだけの金がなかった。だから、会社勤めの時に貯めたなけなしの金はその二年間の生活費に充てることにし、無給で良いから技術と経験を教えて欲しいと、その店のマスターに頭を下げた。


 幸いにしてそのマスターがとても良い人で、「そこまで真剣に勉強する気があるのなら」と、俺をアルバイト従業員として雇った上で、喫茶店経営にまつわる様々なことを教えてくれた。俺自身も、最初は親から頼まれて引き受けた喫茶店のマスターだったが、その店で働かせてもらううちにだんだんと、その楽しさが分かるようになってきた。


 それから二年後、俺は再び親父達が立ち上げた店の看板を掲げ直した。マスターとしての技術と経営ノウハウの最低限は何とか教わったが、ここから先は再び手探りでの店舗経営になった。


 まずはTwitterやInstagramのアカウントを作り、定期的に情報発信をするようにしてみた。店専用のホームページを立ち上げることも考えたが、ワンオペ状態の現状ではきちんとしたサイト管理を行っていける自信もなく、広告への支出も極力減らしたかった。


 店を引き継いだ直後に比べれば、コーヒーや紅茶を淹れる技術もある程度様になっていたし、それに比例してコーヒーや紅茶の味もちゃんと引き出せるようになっていた。幸いにして店の立地も、一等地とまでは言えないが、その気になればそこそこ客足は見込めそうな場所にあった。


 だが、客足は二年前とそれほど大きくは変わらなかった。今の時代、ただ美味いコーヒーや紅茶を出すだけ(と言っても、俺の腕はまだまだだったが)ではお客様は来てくれないらしい。


 悩みに悩んだ末、俺は店の従業員を増やすことにした。接客担当専門で、名前はフク。ある日、信号待ちをしていたうちの車のボンネットの中に車の下から飛び込んできた子猫で、キジトラのオス猫だ。


 おふくろが「このまま放り出しておくのも可哀想だから」と言ったことから、一年ぐらい前から我が家の一員となっていた。去勢済で比較的のんびりとした性格の、良くも悪くも猫らしい猫だった。


 このフクを、店の看板猫に仕立て上げた。それまではTwitterやInstagramに掲載する情報にも色々と頭を悩ませていたのだが、フクを看板猫にしてからは、だんだんと発信した情報への反響が大きくなっていった。


 もちろん、「店の衛生面で問題があるだろう」などといった苦情なども定期的に寄せられたが、その都度「うちはいわゆる『ねこカフェ』みたいなものですので」とうそぶき、丁重にお断りを入れた。今のところは苦情の数よりも、反響の数の方が大きいので、これといって大した問題にはなっていない。


 フクを店の看板猫に据えたことで、客足も客層もがらりと変わった。今までは近所に顔見知りの人達が時々やってくるぐらいだったのが、猫好きの客を中心に、様々な客層のお客様が増えた。


 もちろん、コーヒーや紅茶を淹れるためのテクニックの修行も忘れず、フクの写真を交えてTwitterやInstagramで情報発信をしていたので、純粋にコーヒーや紅茶を楽しみたいお客様の数も増えた。この辺りは正直あまり深く考えてはいなかったのだが、フクとセットでの情報発信だったからこそ、多くの人達の目に触れる機会が増えたのだと思う。これはこれで嬉しい誤算だった。


 そして、今日もアンティーク調の店内に、入口のドアに取り付けられたベルの音がからんころん、と鳴り響いて――


「こんにちは、和弘かずひろくん。今日もいつものやつ、お願いね」


 そう広くはない店のカウンター席に腰かけた女性が、俺の方を見てにっこりと笑った。彼女は錦織にしごり亜弥あやさん、ここ最近足繫く店に通ってくれる常連客の一人だ。


 亜弥さんはこの店の近くに住んでいるOLで、年齢は確か俺よりも一つ上。たまたまInstagramで見かけたフクの写真に興味を持って来店してくれたのだが、どうやら俺の出すコーヒーの味も気に入ってくれたようで、最低でも週に一度はこうして店に来てくれる。茶色に染めたショートボブが良く似合う、すらりとした美人だ。


 フクも亜弥さんのことを気に入っているらしく、それまでは他のお客様に顎の下を撫でられてゴロゴロいっていたくせに、亜弥さんの姿を見た途端にカウンターまでいそいそと駆け寄ってきて、亜弥さんの隣に座って一つニャア、と鳴いた。


「フクちゃんもこんにちは、今日も元気かな?」


 亜弥さんに頭を撫でられ、フクはうっとりとした表情で目を細めている。猫のくせに、随分と現金なものだ。それまでフクの相手をしてくれていたお客様が苦笑して、思わず俺も苦笑いでこたえる。


 亜弥さんはさっき「いつもの」と言ったが、彼女の好みはカフェラテ一択だ。今日みたいな休みの日には、カフェラテを飲みながらゆっくりと小説を読んだり、フクと遊んだり、俺と軽い世間話などをしたり。亜弥さん曰く「うちのアパートではペットを飼えないから、このお店での時間が、今の私にとっての貴重な癒しなの」だそうだ。


 そして実のところ、亜弥さんを目当てに結構な数の男性客が店へと通ってくれていたりもするのだが、彼女にはが全くなさそうだったので、店内での声掛け行為などについては常連客さん同士の世間話を除いて、丁重にお断りしている。


 それにしても、会社勤めの頃には仕事に明け暮れて、女性との接点なんてものは考える暇すらなかったのだが、こうして喫茶店の仕事を引き継いで、猫の手を借りた結果、こんなにも素敵な女性と名前で呼び合える程度の仲になることが出来た。


 福を招く猫っていうことで「フク」という名前にしたが、フクは大勢のお客様だけでなく、思ってもいなかった福まで招いてくれたようだ。


 今日も彼女に、できる限り最上のリラックスタイムを提供してあげたい――俺はカウンター越しに亜弥さんへと笑い返して言った。


「はい。かしこまりました、亜弥さん」

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猫と美女と、カフェラテの香り 和辻義一 @super_zero

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