画用紙の上を走る君

幽八花あかね

画用紙の上を走る君

 僕が初めてミャーの手を借りたのは、小学二年生の夏休みのときのことだった。


 ミャーというのは、僕の家で飼っていた三毛猫の名前である。まだ恋人だった頃のパパとママが、同棲していたときに飼いはじめた猫だ。ミャーは、僕にとってはお兄さんのような存在でもあった。


 小学二年生のあの夏。僕は夏休みの自由研究に困っていた。最も簡単そうな絵のコンクールに応募しようと決めたところまでは良いものの、何を描くかがまったく思い浮かばなかったのである。


 去年のママに言われた通り、七月中に宿題は全部終わらせよう! なんて目標はどこへいったのやら、八月のお盆を過ぎても、僕は自由研究にはまったく手をつけていなかった。


 さすがにそろそろやらないとまずい。ふむ、どうしたものか。


 まずは形からということで、縁側に新聞紙を敷き、その上に画用紙を置いた。絵の具セットとバケツを持ってきた。何を描くかはまだ決まらんが、とりあえず絵の具を全色だしてみる。


 うむ、何もイメージが湧いてこない。


 絵の具がカピカピに乾いてしまっては困るので、筆でちょっと濡らしておく。まだまだ何も思い浮かばない。


「うーーーん……」


 声を出して唸ってみても、一向に進む気配がない。横のほうに置いていた、夏休みのしおりをチラリと見やる。


「テーマ:家族の思い出」なんて書いてあるコンクールの説明には、吐き気を覚えた。僕は防災ポスターか、地球を守ろうポスターか、未来の世界ポスターにしよう。家族の思い出なんて絶対に描けない。


『みゃ〜お、にゃぁ〜〜ん?』

「あ、ミャー」 


 僕が思い悩んでいると、ミャーがトコトコと歩いてきた。僕のかわいいミャー。僕の大事な家族。


「ミャー、どうしたらいいと思う?」


 なんて聞いたところで、猫であるミャーが解決してくれるとは思っていない――いや、思っていなかったのだ、が。


『みゃ〜っ!!』

「えっ、ちょっと!」


 ミャーはバケツをひっくり返して、画用紙をびしょ濡れにしてしまった。おまけに絵の具パレットも踏んづけて、それで画用紙の上をトコトコと歩いていく。


「もう! 何やってんだよミャー。汚れちゃっただろ……って、あれ?」


 絵の具のついた肉球で歩かれた画用紙は、表面が濡れていたこともあって、いろんな色がじんわりと優しい感じで滲んでいた。


 そのふにゃふにゃした模様を眺めているうち、僕はハッとひらめく。「テーマ:ぼく/わたしの考える未来の世界」に相応しいイメージが、脳に鮮明に映し出された。


「よし、これだ!」


 さっきまでの停滞っぷりが嘘だったかのように、僕は絵筆を走らせる。出来上がった絵は、自分でも素晴らしいものに思えた。


「ありがとな、ミャー。お前のおかげで、いい絵が描けたよ」

『にゃ〜〜ん、にゃん、にゃあ〜♪』


 うんうん、ミャーも嬉しそうだ。僕はしばらくミャーと戯れたあと、ばあちゃんのところに絵を自慢しにいった。ばあちゃんは、すごく褒めてくれた。




 その夏休みの自由研究で描いた僕の絵は、全国のなかで数名しか選ばれない、優秀賞に選ばれた。全校生徒の前で表彰されて、校長先生から賞状を受け取って、僕は得意になった。


 帰宅後。ばあちゃんに自慢したあと、僕は仏壇にまで自慢しにいった。


「パパ! ママ! 見て、優秀賞! 僕、将来は絵描きになっちゃうかもしれない!」


 畳の上でぴょんぴょんと、僕は飛び跳ねる。


 この一件を機に、ミャーの手を借りてイメージを膨らませて絵を描くことに味をしめた僕は、夏休みの自由研究コンクールでは、ミャーの手を借りた絵画で毎年賞を取るようになった。


 ミャーのおかげで絵が大好きになり、図工は得意科目になった。中学では美術部に入って、先輩が引退したあとは部長にまでなった。


 高校生になってからは、美大に行くため、絵の予備校に通うようになった。パパやママの遺産はあるけれど、早く自立してばあちゃんを安心させたいという思いから、バイトにも励むようになった。


 ミャーは、僕がスランプ気味なときも、疲れているときも、落ち込んでいるときも、そばに来て慰めてくれた。たまに画用紙やキャンバスに肉球で何かを描いて、僕の素晴らしい助っ人になってくれた。


 でも……僕は、薄々気づきつつあった。ミャーの手を借りて描いた絵なら、全国レベルのすごい評価をもらえるけれど、自分だけで描いた絵では、良くても地区大会で佳作程度。すごいのは僕じゃなくて、ミャーなのかもしれない。


 ミャーがいなければ、僕は、ちょっと絵がうまい程度の凡人だ。「天才」という評価は、ミャー無しではもらえない。


 僕よりも早く生まれた猫のミャーは、僕が高校生になった頃には、もうおじいちゃんだった。


 だんだん元気がなくなって、しょんぼりとして、でも、ずっと僕の支えでいてくれて。


 大学受験の日。僕は東京の美術大学を受けるため、ホテルに泊まっていた。一日目は学力試験で、二日目は実技試験。


 それは、一日目の試験が終わって、ホテルに戻ったときだった。


 [みやあが死にました。]


 ばあちゃんから届いたメール。数秒間、意味がわからなかった。「みやあ」って何だよ……と脳内で突っ込んだあとに、慌てて、ばあちゃんに電話を掛ける。


 ばあちゃんのこんなに気弱な声を聞いたのは、僕の両親が交通事故で死んだとき以来だった。


 ミャーが死んだ。パパとママが恋人時代から大切にしていたミャーが、死んじゃった。僕の家族が死んじゃった。もういなくなっちゃった。


 ショックで夕飯も食べられなくて、夜もまったく眠れなかった。フラフラした状態で、二日目の試験が始まる。実技試験はデッサンだ。鉛筆を走らせないと。しっかりしないと。なのに。なのに。


 手が震えて、線が思うように引けない。うまく描けない。描けない。描けない。


 試験会場にミャーが来られないことは、前からわかりきっていた。美術の授業でだって、予備校でだって、ミャー無しでも絵は描けた。


 でも、僕が「天才」と評されるためには、ミャーが必要だ。こうして、ミャーを喪った僕が美大になんて入ったところで、絵でごはんを食べていくことなどできるのだろうか。この世界で生きていくことなどできるのだろうか。


 もう……絵なんてやめて、今の学力で入れる地元の大学の後期日程に出願しようか。


 そんな思いが芽生えて、鉛筆を、置きそうに、なった。


 ――にゃあ〜、にゃ〜〜ん、みゃお〜?


 どこかから……いや、頭の中から、ミャーの声がした。ミャーの声をもっと聞きたい。ミャーに助けてほしい。僕はミャーの声に耳を澄ませようと、目を瞑る。


 頭の中に浮かぶイメージ。試験会場。僕。鉛筆。消しゴム。画用紙。課題。そして――ミャー。


 トコトコとミャーが僕の画用紙の上を歩き、おぼろげな「何か」がそこに現れる。


 もう僕にミャーはいない。パパもママもとっくにいない。――僕が本当に描きたかった絵はなんだ? あの日に諦めたものはなんだ?


 ――そうだ。僕は……家族の絵が、描きたかったんだ。パパとママとミャーと、みんなで一緒に楽しくしていた頃の思い出を、本当は絵にしたかったんだ。


 僕は、絵を仕事にしたい。あたたかい絵を描きたい。


 鉛筆を握りしめ、覚悟を決める。





 あれから、一年と数ヶ月。僕は東京に住んでいる。毎日大変だけれど、絵について学ぶのも、描くのも、とても楽しい。


 大学生になってからSNSに上げはじめたイラストは、けっこう好評で、仕事もいくつかもらえるようになった。最近は、ネコのイラストのグッズなんかを出してもらえている。


 あと、楽しみなのは……本の挿絵の仕事をもらったことだ。僕の作風が気に入ったとのことで、編集者さんが声を掛けてくれた。

 家族愛を描いたライト文芸もので、先日原稿を読ませてもらったときは、思わずほろりと泣いてしまった。あの作品の雰囲気を表せるよう、頑張って描きたいと思う。


 ――天国にいるパパ、ママ、そしてミャー。僕は美大生になり、絵で仕事をもらうようになり、けっこう頑張っています。


 これからもたくさん絵を描くので、どうか見守っていてくださいね。


 みんなは、僕の大好きな家族です。ミャーのおかげで、僕は家族の絵を鮮やかに描くことができるようになりました。


 パパ、ママ。幼い僕に、素敵な思い出をくれてありがとう。ミャー、何年も支えてくれてありがとう。……あっ、あと。ばあちゃんは、できるかぎり長生きしてね。

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画用紙の上を走る君 幽八花あかね @yuyake-akane

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