第75話スエズ運河計画
パリを出てセーヌ川沿いを遡上、ディジョンの手前で分水嶺を越える。
ディジョンを抜けるとリヨンに至り、ソーヌ川はローヌ川へと名前を変えた。
そのまま南へ川沿いを二百キロほど行くと目的地のマルセイユだ。
マルセイユは後にフランスのジブラルタルと呼ばれることになる。
ここで俺たち三人はジェノバの商人が動かす船に乗った。
大航海時代の訪れとともに重要度の低下した地中海航路を船は進む。
地中海という海は海洋生物学的には枯れた海だという。
ジブラルタルを埋め立ててしまえばただの大きな湖でしかない。
イタリア半島に沿って南下した帆船はシチリアとブーツの爪先の間をくぐって東地中海に進むとエーゲ海に進路を向けた。
「イスタンブールに一泊します」
船長は俺達にそう告げた。
一大消費地であるオスマン帝国の首都に寄らないと商売にはならないとのことである。
「すごい……」
素の表情でお市がつぶやく。
イスタンブールの金角湾は船でごった返していた。
「まるで地中海航路の船がすべて集まっているみたいでしょう?」
船長が俺に話しかけてくる。
「……ああ」
まさしくその通りの光景だ。
今、オスマン帝国は最盛期の真っ只中に居る。
壮麗帝スレイマンの統治下とはこれほどのものだったのか……
さすがにアラビア語で「ソロモン大帝」と呼ばれるだけのことはある。
が、その統治には陰りが見え始めてもいた。帝室内における帝位を巡る内訌である。
「バザールが見たいわ」
ルイーズの言葉に誘われて俺達は船を下りた。
接岸した船から荷が下ろされていくのを見ながらバザールへと向かう。
船の船長は、明日の昼に出航するからそれまでに戻ってくれと言った。
その言葉に頷きながら港湾地区を後にする。
「おや……」
バザールで露天商を冷やかしていると、背後から声をかけられた。
振り向くとそこにはサダム・ハッサンが立っている。
「安倍どの、お元気そうでなりより」
「ハッサンどのこそ」
しばし世間話に付き合っていると、サダムは屋敷に来ないかと問う。
「明日出航でっしゃろ。ほなら、うちに泊まっていきなはれ」
そう言われて俺達三人は顔を見合わせる。
特に宿は決めていないし、船に戻って夜を明かそうかとも思っていたのだ。
「では、遠慮なく客に成らせて頂こう」
俺の答えに満面の笑みを浮かべたハッサンは前に立って歩きだす。
「おもてなし、しまっせ」と言いながら。
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サダムの家人が帝宮へと入っていく。
家人は昨年に第二宰相となったばかりのソコルル・メフメト・パシャへの取次ぎを求めた。
「宰相閣下。主人、サダム・ハッサンよりの伝言にございます。運河の発案者が我が屋敷に泊まるとお伝えせよと」
「わかった。今夜伺うとしよう」
懇意の商人、サダム・ハッサンの家人を執務室に迎え入れたソコルルは伝言を聞いて即答した。
サダムの使いが慌ただしく出ていくのを見送りながら、ソコルルは考える。
これは帝国の行く末を変える大事業だ。是が非でも実現せねば……と。
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ハッサンの歓待を受けた俺達三人は宴が終わるとともに、応接室に呼ばれた。
「いやぁ、久しぶりに楽しい宴でした」
満足顔でサダムが話していると、家人が寄ってきて、何かを耳打ちした。
サダムはそれに頷くと、俺達に向き直る。
「安倍殿、レグノウ殿、お引き合わせしたいお方がいるのですが……」
申し訳なそうに申し出るサダムに俺は構わないと告げる。
案内されて入ってきたのは、能吏という雰囲気を漂わせた五十代後半の男だった。
「お二方、こちらは先ごろ第二宰相になられたソコルル閣下にございます」
慌てて頭を下げる俺達三人に第二宰相が言葉をかける。
「私はソコルル・メフメト・パシャと申す者。礼はよい。そのまま。そのまま」
時代劇の黄門様のような物腰で宰相閣下は俺達を止める。
「今宵は運河の案を思いついたそなたらの話が聞きたくて参った次第。急な来訪につき申し訳ない」
「先日、安倍殿が話されたスエズ地峡開削による運河建設の案を閣下にお伝えしましたところ大変乗り気になられました。
そこで是非とも安倍殿と会っていただきたい思いましたのです」
その言に俺は軽く感慨を覚えた。
スエズ運河の開通は世界史に大きな風穴を開けるだろう。
俺にはこの案件が、歴史の修正力の流れる向きを変えるとしか思えない。
そういう意味で言えばこれは好都合。俺は内心で快哉を叫んだ。
「構いませんハッサン殿。私の思い付きが実現するのであれば、それこそが私にとっての大なる報酬。歓迎すべきことです」
「そう言っていただけるのであれば助かります……」
サダム・ハッサンは心底ほっとした表情を作る。
そして話し合いは遅くまで続いた。
「……問題は開通までの費用だと思うのだが」
コスト面の問題を宰相閣下が指摘する。
「それは間違いなくそうでしょう。運河事業は運河が開通するまでは利益を生まない金喰い虫です」
「その通り。地中海から紅海へ抜けるまでの間にある湖などを利用するとしても、長大な距離を開削しなければならない」
「費用の面に関してはこうしたらどうでしょう?
外国からの出資を募るのです。そして出資金額に応じた貨物重量の永年無料通行権を出資国に与えます」
「それでは運河開通後の利益回収がうまくいかないのでは?」
サダム・ハッサンが疑問を口にする。
「いや、先々を見通せば投資金額の回収はできると思います。
一度運河が開通してしまえば、船の通行量は年々増えていくでしょう。
そうなれば、出資国は無料通行権からの超過分を通行料として支払うことになります。
その上で非出資国の船舶からは正規の通行料を徴収すればいい」
「ううむ」
先々の見通しを計算してサダムが唸る。
「そして東西貿易の支配権はスペインポルトガルのカトリック勢力から、オスマン帝国と運河出資国の連合に移ることになります。
この外交的利益は計り知れません。ヨーロッパ方面の国境の安定にも寄与するので戦争に金を注ぎ込まずにすみます」
「そうなると問題は出資国か……」
顎に手を宛てながら宰相閣下は思案する。
それを見て俺は言葉を継いだ。
「駿河の今川家はスエズの運河事業に出資いたします」
一応、氏真からは好きにやっていいと言われているのでこの程度は裁量権の範囲内だろう。
予算規模となると当主氏真と応相談だが。
「我がフランスも話に乗るわ!!」
右手を挙げてルイーズが立ち上がり宣誓する。
それに釣られたのがお市だ。
「わ、我がお、オダ……アルフヘイムも一口噛ませてもらおう。
……な、なんだっ! どうしたというのだっ!」
口ごもりながらお市が俺を睨む。
こいつ……場の雰囲気に呑まれたな。
これで出資者が三者となったが、まだまだ足りない。
俺はルイーズを見て言った。
「選帝侯とプロイセンにも声を掛けるべきだ。ユグノー単独では手には余る」
ルイーズは俺の指摘に同意する。
アイルランドのオブライエン家は現段階では無理だろう。スコットランドは現状では去就不明。
イングランドはちょっと入れたくない。となると後はハンザ同盟を介してスウェーデンだが、ここも微妙。
オランダは独立前だしイタリアはぐちゃぐちゃ。
うん、これは中々に難しい……
そんなことを考えているとルイーズがコリニー提督を呼び出して念話を始めたようだ。
念話のネットワークにはすぐにシャルル九世に選帝侯、プロイセン公のアイコンが追加されていく。
俺はコリニー提督を通じてシャルル九世に許可を取ると、スコットランドの陽子、ヘクター・マクドナルドを招待した。
「こんな夜中にどうしたでござる?」
問いかける陽子に俺は経緯を説明した。
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