第32話知識チートだ 山国甲斐で塩作り(下)
その後、噴出した温泉水を土鍋で煮詰めると赤茶色をした塩が採れた。
これを金堀衆の鍛冶師に嘗めさせる。
恐る恐る人差し指と中指を塩の中に突っ込み、口の中へと運んでいく。
その仕草は映画の中の麻薬取引のよう。
口の中に塩が入った瞬間、男は目を丸くして叫んだ。
「う、美味いっ!!」
「なんだと! どれ、儂にも嘗めさせろ!」
わらわらと今出来たばかりの塩に群がる武田家の面々。
その中でも特に驚いていたのは武田義信だった。
……お市は悔しそうな顔をしている。
「残念だったな。アンジェリカ」
「……くっ」
悔し気にお市がうめく。
と、まぁ、こんな感じで出来上がった塩を甕に詰めて甲府へ運び、信玄坊主に献上して味合わせることにしたわけだけど、
帰りの道々、義信がしきりに「何故だ?」と問い詰めてくるのには正直辟易した。
お市も無関心を装ってはいても、その内心では聞き耳を立てて聞き逃すまいとしていたわけだが。
当然のことながら、噴き出した温泉には金堀衆が弁を付けて警備の者が厳重に管理している。
「ようやってくれた!!」
嫡男の義信から詳細な報告を受けていた信玄は上機嫌だった。
献上した塩もしっかりと味わったらしい。
信玄の背後に控えている義信も微笑を隠さなかった。
「此度の年賀、いや、神仏からの御年玉というべきか……
どちらにせよ、此度の働きは真に見事なものであるが、海の無い山国甲斐で塩が採れるとはいかなるこであろう。
教えてはくれぬか?」
信玄が身を乗り出してずいっと俺に迫る。
俺はこの問いに溜めを作って答えた。
「されば……」
「されば?」
広間に集まった一同が俺の声に耳を傾けようとして静まり返る。
俺の斜め後ろに控えているお市も全神経を耳に集中しているようだ。
「古事記は御存じで御座いましょう」
「うむ。存じておる。存じてはおるが……塩とどういった関わりがあるのだ?」
今一つ合点がいかないという表情で信玄が俺に訊いてくる。
他の一同もどうやらピンと来ていない模様。
それを見て俺は多少、声を張り上げた。
「古事記、神代の巻に、初めのころは陸地など無く、ただ広漠たる海がすべてを覆っていたとあります。
やがて伊邪那岐、伊邪那美の国生みによってこの日ノ本の島々が生まれますが、この時に、神代の頃の海の水が日ノ本たる大八洲(おおやしま)の陸地の下に呑み込まれました。
此度の塩はこの神代の昔の海水を鍋で煮詰めたものにございます」
「……なんと!?」
俺の解説に誰もが息をのむ。
「古事記に書かれていることは真であったか……」
信玄が深い、実に深い溜息を吐いて言った。
だがこれは神話の中だけの話ではない。
日本列島が過去においては海の底であったのは地質学的事実で、太古の海水が日本列島の地下に眠っているのもこれまた現実。
俺はその現実を突きつけただけだ。
しかも、今回俺が掘り出させたのはただの温泉じゃない。
地下にある太古の海水がマグマによって温められた、有馬温泉と同タイプの、稀有な温泉というだけではなかったりする。
含有される微量元素がものすごく濃い。特にストロンチウムが。
ストロンチウムというと危険だと誤解する向きもあるにはある。
が、この温泉に含まれる高濃度のストロンチウムは安定核種で、核分裂する放射性のストロンチウムじゃない。
放射性同位体(アイソトープ)のストロンチウムが人体に有害なのは、骨形成において安定核種のストロンチウムが必須の微量元素であるため。
つまり安定したストロンチウムは頑丈な骨格、身体、ひいては精強な兵を育てる上で必要な栄養素ということになる。
信玄が俺に褒美をやると言った時に、穴を掘らせてくれと答えたのはこの塩が欲しかったからだ。それほどまでにこの塩は希少、貴重となる。
俺は言葉を続けた。
「それゆえにこの塩は貴重です。
この塩一匁は海から採れる塩百匁以上の値打ちがあるでしょう。
まずは帝と将軍家に献上してお墨付きを貰うべきかと……」
「……うむむむ。……そうであるな。
箔をつけていくばくかの量を諸国に持って行って売るか……」
「それとも百倍の海水塩と物々交換するかです」
「それもよかろう」
深くうなづいた信玄が再び問う。
「改めて尋ねる。此度の褒美には何を望むか」
「ならば、できましたらこの塩の献上は今川家にお任せいただきたく」
「ふむ。そうきたか。そこから先の話にも一口噛ませろということか」
「左様にございます。
それとこれは老婆心ではありますが、あの温泉の管理は厳正に行い浪費して枯れることのなきように……」
「それは当然のことである。承知した」
こうして信玄との交渉は終わり、塩の献上準備のため俺とお市は静岡に戻ることになった。
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南大西洋の孤島、セントヘレナに寄港したラ・ドーフィネ号は港で補給を受ける。
島はこの当時は無人島だったが、世界航路を走る帆船の中継地として賑わっていた。
港湾を整備したポルトガル人達は、この島が絶海の孤島であるためか、島を領有することはまったく考えていなかったらしい。
島民のいない島で船乗りたちが飲料水などを積み込んでは出港していく。
ルイーズの乗るドーフィネ号もそんな中の一隻だった。
島を出た船は帆に風を受けて進む。
晴れた空の下、甲板上で水平線を眺めていたルイーズは些細な変化に気づいて声を上げた。
こちらに向かって突き進んでくる船団がいるのだ。
ルイーズは緊張で強張るのを感じた。戦闘準備をしないと……!
彼女が仲間に声をかけるとすぐに反応があった。
すぐさま弾と火薬が弾薬庫から引き出されて艦載砲の装填作業が行われる。
「アントワーヌ!」
船長がルイーズを呼んだ。
駆け付けたルイーズに船長は告げた。向こうの方が足が速いと。
「……戦うしかないようだな」
そう独り言ちでルイーズは決断する。
数隻の敵船に対してこちらは一隻。
船足の問題があるから振り切れない。
洋上に官憲は存在しない。自力救済がすべて。
息を殺して船団を睨む。
ルイーズの目にスペイン王国旗が見えた。
「奴隷商人か……っ」
嫌悪とともにルイーズが吐き捨てる。
ユグノーである彼女は奴隷貿易を心底嫌っていた。
虫唾が走る。
ドーフィネ号に迫るのは新大陸とアフリカを往復するスペインの奴隷船団で、アフリカへ新たな奴隷を仕入れに向かう途上だった。
その行きがけの駄賃としてルイーズ達は狙われている。
「船長!」
「わかっている!」
ルイーズの声に応える船長の表情が変わっていくと、それにつれて舵輪を動かす手に力が籠り始めた。逃げられないのならば戦うしかない。
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