【KAC20228】私だけのヒーロー

いとうみこと

人生万事塞翁が馬

 英語の追試が終わった時にはもう四時半になっていた。部活は休みだし、本当なら今日は友人たちとゲーセンに行くはずだった。ところが、五時間目の英語の時間に中間テストで十五点以下だった生徒は残るようにと突然言われたのだ。十六点だった木田と十八点だった山崎は十五点だった俺に「わりぃな、ヘロ」と言いつつニヤニヤしながら帰っていった。


 というのは僕のあだ名だ。中一の時、英語の授業でHEROをと読む痛恨のミスをしてからそうなった。俺の名前が文寛フミヒロで、と変化させやすかったことも災いした。尤も、それまでのあだ名がだったから、かっこ悪いという点では大差ない気もする。


 追試が終わった後も、その日がたまたま英語の教科当番だったというだけの理由で片付けを手伝わされた。楽しみにしていたゲーセンを棒に振り、やりたくもない勉強をさせられ、みんな帰った教室で片付けをする俺は、今日イチ不幸な中二だと思えた。


「太田、ご苦労だったな。これやるよ。みんなには内緒な」


 そう言って先生がくれたのはビニール袋に入った人気のチョコバー二本だった。「こんなもんじゃ俺の心は癒やされないぜ!」と叫びたいところだったが、礼を言って受け取った。どこまでも気弱な中二だ。


 校舎には先生以外もう誰も残っていないようだった。俺は悪態をつきながら閑散とした通学路を歩き出した。


 橋を渡れば間もなく家に着くというところで、俺は意外な人物を見つけた。葉月未央はづきみお、今年から同じクラスになった女子だ。小学校が一緒だったから名前は知っているがほとんど話したことはない。そもそも未央が誰かとわいわい騒いでいるところを見た覚えがない。そんな目立たない女子だから、当然俺との接点もあるはずがなかった。


 その未央が欄干から身を乗り出して下を流れる川を覗き込んでいた。川は昨日までの雨で少し水かさが増しているからちょっと危なっかしい。


 見て見ぬふりをして通り過ぎようかとも思ったが、全く知らぬ相手でもないので思い切って声を掛けた。


「どうかした?」


 肩をビクッとさせて未央は振り返った。ツインテールの髪が揺れてセーラー服を叩く。まん丸の目、ふっくらとした頬、ぽかんと開けた口、こんな近くで未央の顔を見たのは初めてかもしれない。決して美人とは言えないが憎めない顔立ちだと一瞬のうちに評価した。てか、そんな能力が俺にあったんだと少し驚いた。


「文寛くん」


 名前で呼ぶんだ? ああ、そうか、小学校ではみんな名前で呼び合っていたからだ。そう納得したものの、久しぶりにまともに呼ばれて、しかも女子から至近距離で、俺はうっかりドギマギした。


「あの、えっと、ちょっと落とし物しちゃって」


 未央もまた少しばかり挙動不審だ。俺の目を見ぬままそう言うと、再び川を覗き込んだ。釣られて俺も欄干に手を掛けた。


「何を?」


 未央がおずおずと手を伸ばす。その先の水草と岩の間にマスコットのようなものが見えた。文寛がいるところからだと七〜八メートルはあるだろうか。


「あれ? あの青いやつ?」


「そう」


「ぬいぐるみか何か?」


「イルカのペンケース」


「ペンケース?」


「誕生日にお父さんにもらった横浜のお土産なの」


「って、何でこんなとこで筆箱出してんの?」


「それは……」


 未央が俯いて黙ってしまったので、俺は少しバツが悪かった。


「まあいいや、大事なものなんだろ? ちょっと待ってて」


 俺は走り出した。家に帰れば釣り竿がある。針で引っ掛けて取れるかもしれないと思ったからだ。


 五分程で戻ると、未央はまだ川面を見つめていた。


「よっぽど大事なんだな」


 俺は針を付けながら聞いた。いい竿を使うと父親に叱られるので、お古でもらった竿にした。距離も強度もこれで十分だ。


「危ないから離れてて」


 俺は竿を振った。やるからには一発で決めたかったが、実際は十投目でやっと針が引っかかった。しかし、ほんの数センチ動いただけで針が外れてしまった。


「ごめん、取れないかも」


「ううん、いいの」


 口ではそう言いつつ、未央は指を組み、祈るようにペンケースを見つめていた。


 更に竿を振ること数十回、やっとペンケースを引き上げることができたが、針を抜いたところには穴が開いてしまった。それでも未央は嬉しそうにペンケースを受け取った。そして初めて目を合わせ、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


「全然いいけど、こんなになっちゃって却ってごめん」


 未央はブンブンと頭を振った。


「洗って縫えばまた使えるからいいの。半分諦めてたからほんとに嬉しい。やっぱり文寛くんはヒーローだね」


「はは、俺はヒーローじゃなくてだよ」


 俺は自嘲を込めて笑った。その俺を未央は軽く睨みつけた。


「違う! 文寛くんは覚えてないかもしれないけど、七年前も五年前も私を助けてくれたんだよ。だから文寛くんは私だけのヒーローなの!」


「え、そうなの?」


 俺には全く思い当たるフシがなかった。


「小学校一年の時は授業で使うおたまじゃくしを分けてくれたし、三年生の時はランドセルに入った虫をつまみ出してくれたんだよ。覚えてない?」


「う〜ん……そんなことあったかなあ。にしても、そんな単純なことでヒーローって大袈裟」


 俺は苦笑いしながらも悪い気はしなかった。目の前の未央は頬を少し膨らませ不満顔をしていてちょっと可愛い。未央には悪いがもうちょっとその顔を見ていたいと思った。


「あ、そうだ」


 未央の手から滴る水を見ていて、俺は先生にもらったチョコを思い出した。中身じゃなくて袋の方だ。チョコをとりあえず胸ポケットに入れ、未央の手からペンケースをもぎ取ると二三度振って水を切り、袋に入れ未央に突っ返した。それを受け取りもせず俺を見る潤んだ瞳は、まるでヒーローを見るヒロインじゃないか! 俺は急に照れくさくなって胸ポケットからチョコをひとつ取り出すと、ビニール袋と一緒に未央の手に握らせ、竿を掴んで歩き出した。図らずも触れた未央の手は冷たくて、でも柔らかくて、なかなか消えないその感触が俺の胸をざわつかせた。


「ありがとうっ」


 背中越しに聞こえた未央の声に片手を上げて応えながら、今日はそんなに悪い日でもなかったと俺は思った。

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