3-9 祖父のヤキモチ

 そしてその週のうちに平太郎は無事に退院した。

 前のように普通に歩くことは出来たが、心配なこともあるので店を開けるときは必ず誰かと一緒にいるようにした。

 普段から手伝いをしている麻奈美と常連客の芝原はもちろん、光恵も家の用事が片付き次第、店に足を運んだ。平太郎と同年代の三郎とチヨも、客としてやってきては、平太郎の心配をしてくれていた。

「本当に、みなさんに心配おかけして、申し訳ないです」

 カウンターの奥で調理をしながら、平太郎は頭を下げた。

「良かったねぇ、無事に退院できて。またここで集まれるよ」

「コーヒーも美味いが、ミックスジュースも美味いんだ」

 チヨと三郎はカウンターに腰掛けて、いつものように世間話をしていた。麻奈美が図書館へ芝原を迎えに行くこともなくなり、いつしか本も読まなくなった。

「あの学生さんはどこで勉強してたんだろうねぇ」

「そうだなぁ、わしもそれが気になってなぁ」

「ねぇ、平ちゃん。どうなんだい?」

「──大学とか、図書館じゃないですか?」

 入院している間に麻奈美が店にいたことを、平太郎は家族以外の誰にも話していなかった。話していたとしても、麻奈美と芝原の関係を疑う人が増えるだけで、二人にとって、それは都合が良いとは思えなかった。

「麻奈美ちゃんの彼氏だったら、家に呼んであげられたのにねぇ」

 そんなことを言うチヨは、年齢以上に若いのかもしれない。

 平太郎の退院祝いを兼ねた四人での食事は、大夢を再開させる前日に開催されていた。芝原がいつものように勉強している間に光恵が料理を作り、麻奈美も三人分のコーヒーを淹れた。

「自分は飲まないのに、たいしたもんね」

「麻奈美は覚えが早かったよ」

 そんな義父娘おやこの会話を聞きながら、芝原はちらっと麻奈美を見た。自分が飲むミックスジュースの材料を切っていて、気配を感じて顔をあげた。

『こないだ言ったこと、秘密だよ』

『はーい』

 おそらくそんな表情で、二人は笑い、すぐに自分の作業に戻った。

「なあに、麻奈美、にやにやして」

「ううん。何でもないよ。お母さん、これ、どうやって使うの?」

 麻奈美は光恵にミキサーの使い方を聞き、光恵は「変な子ね」と言った。

 芝原には数年前から気になる人がいると知っている以上、麻奈美は彼との関係を縮めることは出来なかった。けれど麻奈美は、友人たちの言う通り、確かに彼に恋をしていた。

「麻奈美にはまだ男は必要ないな」

 洗った食器を拭きながら、平太郎はチヨに言った。

「それは平ちゃん、かわいそうだよ。あんただって麻奈美ちゃんくらいの歳の頃には結婚してたじゃないか」

「チヨさん、それは昔の話ですよ。昔は何でも早かったから……」

「平ちゃんはヤキモチ妬きだからねぇ」

 グラスに残っているジュースと溶けた氷をかき混ぜながら、三郎が呟いた。

「麻奈美ちゃん、平ちゃんの言うことは気にしなくていいよ」

「はい……」

「こら。麻奈美は勉強が最優先だろう」

「平ちゃん、それだよ。それがヤキモチって言うんだよ」

 カランコロン……カラン……

 ドアに付けた鐘が来客を告げ、カウンターは一時的に静かになった。

「おや、噂をすれば。いらっしゃい」

 やってきたのは芝原で、けれどいつもの席は先客があったので珍しくカウンターに腰掛けた。見ていた麻奈美は、とりあえずおしぼりと水を運んだ。

「噂って、何ですか? またマスターが変なこと言ってたんですか?」

 暖かいおしぼりで手を温めながら芝原が聞いた。

 チヨや三郎が先ほどのことを話す横で、麻奈美は芝原にいつもので良いかと確認をとった。

 カウンターの奥に戻って平太郎に注文を伝え、麻奈美は教科書を広げた。

「麻奈美、今日は淹れないのか?」

「え? あ、でも、あれはお店で出す分じゃなかったから……」

「ははは。まぁそうだな。いつものだからな」

 笑いながら平太郎は芝原のコーヒーを淹れ始めた。芝原の位置からそれは見ることが出来たが、あいにく今はチヨと三郎の会話の最中なので淹れるところを見ていなかった。

(でも、きっと、味でわかるかな)

 芝原はいつものように勉強道具を持ってきていたが、資料を広げるテーブルはなく、カウンターに座ったせいで完全にチヨと三郎の会話に引き込まれていた。彼とあまり話せないのが寂しかったが、大夢の再開を待ちわびていた常連客が詰めかけていたのでちょうど良かった。

「ありがとうございましたー」

 テーブル席についていた客が帰ったので麻奈美は片付けに行き、拭きながら、そこが芝原の指定席だったことに気がついた。

「芝原さーん、ここ空きましたけど、どうしますか?」

 麻奈美の声に振りかえり、芝原は時計を見た。

「うーん……もう四時か……ありがとう、今日はやめとくよ。ごめんね」

 そして芝原は元に向き直り、途中だった話を続けた。麻奈美も特にすることがなかったので、その輪の中に入った。平太郎は退院はしてもまだ本調子ではないので、大夢の営業時間は一時間ほど短縮されていた。

 芝原は麻奈美に話があるらしく、店の片づけを手伝った。そして、鍵をかけて平太郎が住居の方へ入ったのを確認して、二人は外に出た。

「今日のは、マスターが淹れた?」

「──やっぱり、わかったんですね」

「うん。……僕のこと、本当に気にしてない?」

「え? 何を、ですか?」

「前に言った、過去のこと。麻奈美ちゃんには言うべきだと思ってはいるんだけど」

「私は……。前に浅岡先生が言ってました。芝原さんのことは、一年以内に私が気付くか、本人が話してくれるって」

 芝原は何も言わなかった。

「私の気持ちは変わってないです。怖くもないです」

「ごめんね、隠してるみたいで……僕も、そう思うよ。一年以内に、絶対わかる。でも、今は──。今日マスターが淹れたのは、僕のことに関係ない?」

「コーヒーですか? あ、関係ないですよ! もしかして、それ気にしてたんですか?」

 照れながら肯定する芝原が可愛く見えた。

 こんな人が怖いなんて、絶対にあり得ない。

 麻奈美の家の前で二人は分かれ、芝原は来た道を引き返した。彼が過去のほかにもう一つ言おうとしていることがあることを、麻奈美はまだ知らなかった。

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