2-2 一匹のハエ

 カランコロン……カラン……コロン……

 ドアの鐘を二回鳴らし、浅岡と麻奈美は大夢にやってきた。麻奈美の手伝いまではまだ時間がじゅうぶんある。

 真夏の昼下がり、三郎とチヨは珍しく不在だ。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から顔を覗かせる平太郎は、その状況には全く驚かなかった。

「こんにちは。昨日は呼んでいただいてありがとうございました」

「いやいや。パーティーは大人数のほうが楽しいからね」

 そう言いながら、平太郎は自慢のコーヒーを淹れていた。食器棚からコーヒーカップを出してから、浅岡に席を勧めた。

「麻奈美はどうする? コーヒーか? ジュースか?」

 麻奈美はいつもオレンジジュースを飲んでいるけれど、

「えーっと……ミックスジュース!」

 試験で良い成績を残した自分へのご褒美だ。

 それからしばらくして、果物をカットする音と、それと牛乳を混ぜるミキサーのモーター音が聞こえていた。

「先生、芝原さんって、どういう人なんですか?」

 飲み物を待ちながら、麻奈美は聞いてみた。

 今日ここに客として来たのは、浅岡の「芝原と三人でお茶しよう」という提案からだった。その芝原は、指定席にはまだいない。

「それは本人に聞いてみたら?」

「えーっ……普通の大学生……ですよね……?」

「今は、ね」

 やはり、浅岡は芝原のことを詳しくは教えてくれなかった。ちょうどそのときに平太郎が飲み物を運んできた。二人の会話は聞こえていたらしく、「またその話か?」と笑っていた。

「先生と芝原さんって、中学が一緒なんですよね」

「そうね。三年間、同じクラスだったわ。高校からは別々になったから、どうしてるのかなぁー、とは思ってたけど、まさかここで再会するとはね」

 そう笑いながら浅岡はコーヒーを飲んでいた。

 麻奈美もストローを袋から出して、ジュースの中に入れる。そして少し吸ってみるけれど、果物の粒が多く含まれているのでなかなか上がってこない。

「んー……えっ、それって」

 突然、思い出したことがあって麻奈美はストローから口を離した。

 ゆっくりコーヒーを飲んでいた浅岡も、動きを止めた。

「もしかして芝原さんって──」

「僕がどうしたの?」

 麻奈美が浅岡に質問しようとしたとき、芝原が遅れてやって来た。それからいつもの指定席に座ってから、麻奈美のほうを見る。麻奈美と浅岡が座っていたのは、芝原の指定席の向かい側だ。

「先生と同じ中学ってことは、……星城、ですよね」

「浅岡……麻奈美ちゃんにどこまで話したんだよ」

「ただ中学が一緒だったっていうだけよ。中学が星城だったことは、出会ったときに言ってたの。まさかあんたと再会すると思ってなかったし」

 そうか、と短く呟きながら、芝原は水を飲んだ。

 もちろんカウンターの奥では、平太郎がコーヒーを淹れている。

「じゃあ、芝原さんて、頭良いんですね」

「どうかな。勉強は嫌いだったんだけど。ものすごい嫌になって、どこまでもグレたよ。マスターに出会ってなかったら、今もグレてたと思う」

 前にもそんな事を聞いた気もするけれど、芝原がグレていた姿を想像するのは難しかった。

 優しい。頼りになる。

 そういう肯定的なイメージしか麻奈美は持っていない。

「本当に手がかかったよ」

 芝原にコーヒーを運びながら、平太郎が言った。

「それが今は立派な大人になりおって。就職できたら、お世話になった先生方に挨拶に行くこと。いいね。まだみんないると思うよ」

 平太郎がカウンターに戻ってから、少し沈黙が流れた。

 麻奈美は、一つの疑問がわいて。

 浅岡は、平太郎の意見に同意して。

 芝原は、二人の沈黙の意味を理解して。

「あの、もしかして芝原さん……ものすごくお金持ちですか」

 麻奈美の質問に、芝原は少し笑った。

 隣で浅岡も、肯定も否定もせずに微笑んだ。

「幼稚園から小学校、中学、高校、ずっと星城だよ。今もね」

「えーっ! すごい……」

「大学だけは違う敷地だから、会わないけどね」

「だからかぁ。学園ですれ違ったら絶対気付くのに」

 かっこ良くて頭が良くて、頼れるような大人。

 幼稚園から今現在まで星城学園、大学では世界史を学んでいる。

「それ、褒め言葉?」

「え? あ、は、はい」

「ちょっと芝原、麻奈美ちゃん困ってるじゃない」

 浅岡が芝原に注意した。

「ごめんね麻奈美ちゃん、芝原がこんな奴で」

「浅岡……こんな奴って……」

「本当に厄介だったんだからね。反省してるの?」

「してるから今、真面目にやってるんだよ」

 そんな二人の会話を聞きながら、麻奈美はミックスジュースを飲んでいた。

 芝原が、こんな奴? 厄介だった?

 麻奈美が知っているのは、何なんだろう。

 平太郎に聞いても、浅岡に聞いても、いつもはぐらかされた芝原のこと。

「麻奈美ちゃんは本当に大切にされてるよ」

 いつの間にか、話題が麻奈美のことになっていた。

 浅岡と芝原に注目され、少し照れた。

「たまにマスターと麻奈美ちゃんの話してても、厳しいんだよ。悪い虫がつかないようにっていうか、悪いことは知らせたくないっていうか」

「最近、ハエが飛んでるからね」

 平太郎だった。

 他の客に注文を運んだあとのお盆を持って、三人のテーブルの横に立っていた。

「──えっ? 僕ですか?」

 そうだ、とも言いたげに、平太郎は芝原を見つめていた。

「ちょっと、待ってくださいよ。僕、ただの客ですよ」

「ほんとかぁ?」

 そして「コーヒーお代りは?」と聞きながら、誰も希望しないのを確認して平太郎はカウンターへ戻っていった。

 ふぅん、という顔で芝原を見ているのは、浅岡だった。

「麻奈美ちゃん、さっきの話でもわかると思うけど、芝原……あんまり近付かないほうが良いかもしれない」

「え? どうしてですか」

 芝原も、驚きと悲しみの混じった顔をした。

「なんとなく。芝原には詳しくないからわからないけど、女の勘」

「勘で話をするのは良くないな」

「麻奈美ちゃんはどう思う? 麻奈美ちゃんには芝原はどう見える?」

 その質問の答えは、肯定的なものしか浮かばない。

 麻奈美が知っている芝原の情報は、良いものしかない。

 確かに芝原とはよく会うけれど、特に迷惑ではない。

 それを素直に言うと、

「ほら、マスター、僕、ハエじゃないですよ」

「良いとこしか見せてないからよ」

 浅岡と芝原は、また少し言い争いをしていた。

 実際、麻奈美は、芝原のことを悪くは思っていないし、悪いところは知らない。二人の会話を聞きながら、グラスに残っていた氷をストローで吹きながら、麻奈美は夏休みの予定を考えていた。

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