1-3 雨上がりの傘

 芳恵や千秋はクラブ活動を始めたけれど、麻奈美は帰宅部で大夢の手伝い。行く時間は決まっていないけれど、大抵は帰宅後すぐに行っている。住宅街でひっそりと営業している喫茶店なので、だいたい十八時には閉店する。

「やっぱ無理ー!」

 大夢のカウンターの中で、麻奈美は数学の教科書を広げていた。

 顔馴染みの常連客が数人いるだけの店内。特に忙しい時間ではない限り、平太郎は店内での麻奈美の宿題を許可している。もちろん、平太郎が宿題を手伝うことはない。

「大変だなぁ。わしも昔はこんな時期があったかのう」

 麻奈美の宿題を見ながら、三郎は宙を見た。

「私は、さぶちゃん、遊んでた記憶しかないけどね」

 コーヒーカップを磨きながら、平太郎はニヤッとした。

「そうだよ、いつも田んぼで泥んこになって遊んでたじゃないか」

 チヨは今日は買い物帰りらしく、食料品等が入った袋を二つ、カウンターに並べている。

 いつもだいたい、この二人は店にいる。コーヒーを飲んでいる時もあれば、そうでない時もある。平太郎を交えて、三人で昔話をするのが日課のようだ。

 チヨと三郎が昔話に花を咲かせているとき、

 カランカラン……コロン……

 という鐘の音が鳴り、一人の男性客がやってきた。

 麻奈美はまだ、大夢を手伝い始めてから数日しか来ていないけれど、客の顔はだいたい覚えたし、挨拶くらいは交わしている。けれど、彼の顔は記憶にない。

「いらっしゃい……ませ……」

 男性客は何も言わず、そのまま店の一番奥のテーブル席についた。

(初めてのお客さん、かな。この店、年配の人が多いけど、あの人は若い……かな? 顔見えないけど……)

 麻奈美は宿題をするのをやめ、仕事に戻った。

 先ほどの男性客に水とおしぼりを運ぼうとしていると、

「これも一緒に」

 平太郎がお盆の上にコーヒーを乗せた。

 もちろん、小さい容器でミルクも付いている。砂糖は各テーブルに、大きいガラス容器に角砂糖を入れて置いてある。

 コーヒーを溢さないように慎重に運ぶ麻奈美を、チヨと三郎が見守っている。自分たちの昔話は終了したらしい。

 麻奈美がコーヒーを持っていくと、男性客は「どうも」と言った。その一瞬だけ、彼の顔を見ることができた。割ときれいな顔をしていた。

「……何か?」

「あっ、いえ、──ごゆっくり」

 無意識に客を見つめてしまっていた。頭を下げてからあわててカウンターに戻るけれど、紅くなっているのは鏡を見なくてもわかる。

(やっちゃったー……。でも、ほんとに綺麗な人だなぁ)

 大夢に来る客のほとんどは高齢で、わりと愛想が良かった。けれど彼は、せっかく綺麗な顔をしているのに、なぜだか少し愛想が悪い。大夢の雰囲気には合わない気さえする。

 けれど、次の日も、その次の日も。

 いつも同じような時刻に、彼はやって来た。

 テーブルの上に何かを広げ──勉強しているのだろうか。

「これ、運んで」

 彼が来ると決まって、平太郎は同じセットを麻奈美に持たせた。けれど、男性客が注文するのを麻奈美は一度も聞いたことがない。なのに男性客は、毎日同じものを出されても文句を言ってこない。

 ただ麻奈美に礼を言い、あとは自分が持ってきた書類に目を通しながら、片手でコーヒーカップを持っている。書類にはマーカーで線を引いてあったり、赤ペンで丸をつけたりしている。大学生だろうか。それとも、社会人だろうか。最初はあまり良い印象を受けなかったけれど、最近は簡単な挨拶くらいはしてくれている。

「ねぇ、おじいちゃん」

 男性客が帰ったあと、麻奈美は平太郎に聞いた。

「あのお客さん、いつも同じの出してるけど、注文聞いてるの?」

 けれど、

「ん? ああ、……あいつとは、長い付き合いでな」

 という言葉しか返ってこなかった。

(何か隠してるのかな)

 来ない日のほうが珍しい、というくらい、男性客はいつしか常連になっていた。と思っているのは麻奈美だけで、実は彼は、大夢がオープンした時からの常連らしい。

 けれど、同じ頃から麻奈美も大夢に通っている。

 今年で三年目になるけれど、彼を見たのは今回が初めてだ。

「あの人いたっけなぁ?」

「あいつは平日に来ることが多いからな」

「──そっか!」

 店がオープンした頃は麻奈美はまだ中学生。平日の夕方は家で宿題をしていて、大夢に来ていたのは週末だったのを思い出した。それなら、彼に会ったことがなかったのも納得がいく。

 それにしても、店がオープンした二年前、平太郎に若い知人がいるという話は聞いたことがない。もちろん、川瀬家の他の誰の知り合いでもない。チヨや三郎の知り合いでもない。彼は、確かに平太郎の知人のようだけれど、いったいどういう関係なのだろうか。

 雨の日も、風の日も。

 大夢が開いている日は、天気にかかわらず、彼はやって来た。

 平太郎と何か話すでもなく、ただ勉強をしているようにしか見えない。

 最初はおかしな客だと思っていた麻奈美も、いつか彼の来店を待つようになっていた。別に特別な感情があったわけではなく、大切なお客様として。大夢の夕方の風景の一部として。

 平日のいつもの時間にやってきて、いつもの奥のテーブル席へ。閉店ギリギリまで彼はいるけれど、他の客はほとんどいないので誰も何も言わなかった。むしろ平太郎は、彼が書類を広げていると、店のBGMの音量をいくらか下げている。

 入口の『営業中』という札を『本日は終了しました』に変えてから、麻奈美はテーブルを拭く。

「あっ、あのお客さん、傘忘れてる!」

 一番奥のテーブル席にあったので、きっと彼の傘だ。

 この日、午前中は雨が降っていたけれど、午後から止んだ。

「麻奈美、届けてあげてくれんか。まだ近くにいると思うよ」


 店のエプロンをつけたまま麻奈美は店を出て、左右の道を確認してから、右側の少し向こうに男性の姿を見つけた。陽は沈み暗くなっているけれど、なんとか見える距離だ。

「お客さまー! 傘、忘れてます!」

 男性は立ち止り、振り返った。

「えっ? あっ、ほんとだ。ありがとう──麻奈美ちゃん?」

「えっ?」

 今度は麻奈美が驚く番だった。

 身分証明になるようなものは身につけていないし、彼の前で名前を呼ばれたこともない。なのに、どうして知っているのだろうか。

「やっぱり、麻奈美ちゃんか」

 男性客はにっこり笑って、

「早く帰らないと、マスターが心配するよ。じゃ、またね」

 開いた口がふさがらない麻奈美をおいて、男性客は歩き続けた。

 彼の謎が、またひとつ増えてしまった。

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