馴れ初め

鈴木怜

馴れ初め

 僕がどれだけ通っても開かなかったその扉は、今日に限ってするりと開いた。


「……っ」


 明かりもない屋内から、光溢れる外へ出る。その眩しさに立ちくらみしそうになる。

 一桁台の気温と、正午の太陽、雲ひとつない空。進むにつれて、それらが僕を包み込んでいく。他には何もない。大学のことも、就職のことも、社会のこともない。ただただ、それだけがこの屋上にあった。


 ああ、と息が漏れた。美しい世界だ。

 全て投げ出して楽になるなら、こういう日がいい。

 そう思えた。からっぽの僕を壊すなら、これくらい何もない日の方がいい。

 そうやって、自分の世界しか見えていなかったからかもしれない。

 扉が空いていた理由を考えなかったのは。


「ヘイ、ユー。そこで何してくれちゃってんのよ」

「っ!?」


 どこか冷ややかな声に、とっさに振り返る。

 不機嫌そうな顔をした女子が、そこに立っていた。


「……ん、めっちゃ顔色悪いじゃん」

「あん、たには関係ないだろ」


 一歩ずつ詰め寄る彼女に息が詰まる。逃げたくなる。でも足は動いてくれなくて。体だけが後ろに動こうとして。

 僕はしりもちをついてしまった。


「関係大ありじゃんね」


 そう言って、彼女はどこからかカフェオレを取り出した。

 どうするのかと見ていると、それを僕の方へとそのまま突きだす。


「あげるよ。コーヒーブレイクといこう」


 悪友を見つけたような、そんな笑顔が、逆光のなかでもはっきりとわかった。



 ☆★☆★☆



「……そもそも、大学の屋上なんてものは基本的に解放されないんだよ。当然ながら貸し出されることもないの。今日だって、私が掛けあって掛けあって掛けあった結果なんだ」


 コーヒーブレイクってこんなんだったっけ、と僕は思った。これは愚痴に付き合っているだけなんじゃないのか。そんな気になってしまう。


「もっとも、大学側としても貸し出したくない理由はあったみたいなんだけど」

「理由?」

「そ。それが、君の存在ってわけ」

「……へ?」

「いるらしいんだよね、毎日鍵が開いてないか確認しにくる学生が。君でしょ、それ」


 答えることなんて、できなかった。その通りなのだから。

 それに、大学側から目をつけられていることも知らなかった。

 茨でできた縄で締め付けられるような感覚がして、僕はその場で背中を丸める。楽にさせてくれない、傷をつけられていくような、そんな感覚がした。


「その様子だと、重症っぽいね」


 すべてを見透かすような声がする。きっと、僕がやろうとしていたこともわかるのだろう。


「……っ、仕方ないんだ」

「ま、その通りなんだろうけどさ。言うほど仕方なくないかもよ」


 何を言っているのか、まったくわからなかった。


「私はこの屋上を大学側から貸し出される際に条件を出されていてね。それには君のことも含まれている。釘を刺すように言われてんの」

「……それじゃあ、僕はどこにも行けないじゃないか」


 楽にもなれない。逃げたいことだけが僕を追い続けて。


「……生きる理由すらないのに」

「そんなの作ればいいじゃん」

「できたらとっくにそうしてる……」

「……ま、正直そう言うとは思ってたよ。だから、しばらくは、私がそれになるよ」

「……へ?」


 まるで既定路線に乗っているかのように、彼女は僕に向かって手を出した。


「死ねない理由? なってやんよ。丁度いい。私がここにいる理由も話さなきゃいけないね。映画はどれだけ観る?」

「……最後に見たのも思い出せない」

「そっか。ま、構わないけど。実はね、私は映画を作っているんだ。でも、人が足りない。困ったことにね。だから、手伝ってもらうよ」


 僕が返事をするよりも先に、彼女は僕の手を取って歩き出した。



 ☆★☆★☆



「……それが、私と監督との出会いです。3月の終わりごろの出来事でした。まさか、会社まで立ち上げて映画を作るとは思いませんでしたが」

「なるほど……。いやはや、なんと言いますか、ドラマティックですね」

「はは……」


 目の前に座るのは記者だ。映画雑誌の記事を作るためにやってきている。


「でも、懐かしいですね。こうして話しているだけで、15年は前の出来事なのに、鮮明に思い出せます。きっと、それだけ監督と一緒にやってきたからなんでしょう。死ねない理由を作って、私を救ってくれましたし。そういった意味で、監督は私のヒーローなんです」


 ピロロロロ、と携帯電話が鳴った。

 僕は記者に一言告げて、それに出る。


「もしもし」

「さっき送ってくれた企画書だが、3ページ目が抜けてんの。すぐに送ってくれない?」

「分かりましたよ、監督」

「頼んだ。……あと夕飯は何だ?」

「ポトフにしようかと思ってる」

「カレーがいい」

「分かった」

「期待してるよ、旦那様」


 一瞬で顔が熱くなった。


「やめてよそういうの。僕がそういうのに弱いの知ってるくせに。てか今記者さんが来てるんだけど」

「そっか。またあとで」


 そうして電話は切れた。『あとで』なのは家で会おうということなのか、はたまた旦那様呼ばわりして僕をおちょくることなのか。


「私のヒーローよりも、私“だけ”のヒーローって感じですね。ひゅー」


 記者がそんなことを言うものだから、僕は顔がなおのこと熱くなった。


「お願いですから今のは記事にしないでください……」

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馴れ初め 鈴木怜 @Day_of_Pleasure

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