路地裏の恩人

@BD_0504

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 夜寝る前、このまま明日が来なければいいのに。そう明日を呪いながら寝るようになったのは、仕事を辞めたあの日からだ。夜のうちに世界が終わってしまえばいいのに。毎晩そう呪いながら寝る。そして変わらずやってくる朝日に舌打ちして、この無職ニートの僕の新しい一日が始まる。ここ一ヶ月程、そんな日々が続いていた。

 前のブラック職場で上司のパワハラに遭い、体調を崩して会社を休み続け、それでも一向に体調は回復せず、ようやく元気を出して辞めた途端体調は回復した。だがいざ回復しても次の職がなかなか見つからず、面接を受けては落ちる日々。

 家の布団で一日の大半を過ごす僕は、空虚な天井を見ながらふと思う。今の俺ほど存在価値の無い人間もいないのではないか。とはいえ自力で這い上がる方法もよくわからない。一寸先は闇。いっそのこと、闇が晴れぬまま世界が終わってしまえば、果たしてどんなに楽だろうか。

 窓を開けると、外から美味しそうなカスタードの匂いが風に乗ってやってくる。僕の実家は下町の商店街に隣接している。おかげで朝になると商店街の様々な店が慌ただしく開店準備をする雰囲気が、例えば食材を運ぶ音や、食材の匂いやら、行き来する人々の声などあらゆる形で伝わってくる。昔はそんな匂いや人々の様子を見ながら楽しく学校に通っていたが、もはやそんな歳でもなし。特に最近は朝ごはんを食べると、なんとなく人目を避けるようにマンションを裏口から出て、路地裏を通り商店街を通り抜けて近所を散歩したり、面接を受けに行く毎日だ。

 その日も偶然、僕は散歩のつもりで裏口を出て路地裏を通り、商店街に顔を出すつもりだった。そんなとき、目の前に小さい少女が立っていた。クリームパンを持った少女が、店の裏手の細道を見て立ち尽くしていた。確かあそこの店は一家で営んでいる昔ながらのパン屋だ。クリームパンが名物で、毎朝大量に仕込んでいるため朝になるとカスタードの匂いが風に乗ってやってくるのだ。

 というか、あの少女は確かパン屋のご主人が遅くになって生まれたと言っていた娘ではなかったか。うろ覚えだが小学二年生くらいだったはずだ。そんな少女があんな怖い顔で何を見ているのだろうか。

 気になる。気にはなるが、僕はつとめて冷静に考える。この無職アラサーの男がこんな小さい女の子に声をかけようものなら、それはただの不審者でしかない。この状況では声をかけずに素通りするのが正解である。僕はつとめて他人のふりをして――もちろん他人だが――通り過ぎようとしたが、気になるあまりちらっと路地裏を見てしまった。そして、足を止めた。

 路地裏には、一人の老女が倒れていた。あのお婆さんにも見覚えがあった。あれはパン屋の先代の婆さんだった。僕が子供の頃は店を開いたご主人と一緒にパン屋をやっていて、よくパンの耳で作った揚げ菓子を僕のような近所の小中学生に食べさせてくれていた。ところが僕が高校に入った頃、店を回していたご主人が亡くなり、以降は息子夫婦が継ぎつつ、時たま元気な姿で店に顔を出していたはずだ。僕も未だに路地裏を通りつつ、「あんちゃん、よくここ通るよね。パン食べてかないかい?」と毎日のように声をかけられていた。特に退職して両親とすら気まずい雰囲気の僕が、その日唯一声をかけられたのがこの婆さんだけだった、なんて日もざらではなかった。

「あんちゃん、今日も暗い顔してるね。パン食べて元気つけないかい」

 そう声をかけられると、不思議と朝が来たことへの不満が薄れていた。

 地面にうつ伏せに倒れた婆さんは、胸を押さえて苦しそうに呻いていた。しかしその声は商店街の喧騒に遮られ、気づいている人間は僕とこの少女くらいしかいないようだった。そして気づくと僕は、店の裏に飛び込みお婆さんに声をかけつつ、スマホを出して救急車を呼んでいた。


 マキは本当はこんな街来たくなかった。東京という街は初めて来た日からずっと車のガスが臭くて、嫌な臭いばかりだった。戻れるなら私が生まれたときから住んでいた北海道の札幌の外れに帰りたかった。それでも、おばあちゃんが作るパンの匂いだけは好きだった。私が父さんと母さんと一緒に帰った日、最初に食べさせてくれたクリームパンはふかふかで、あつあつで、甘々だった。札幌のコンビニで買っていたパンとは全然違った。婆ちゃんに感想を聞かれて「マキが食べたコンビニのパンより美味しい」と答えると、父さんと母さんになぜかすごい叱られたけど、婆ちゃんは笑いながら「そんなもんにゃ負けられんよ」と笑ってくれた。

 それ以来、婆ちゃんのクリームパンを食べるのが一日の始まりだった。だからあの日、婆ちゃんが苦しんで店の裏に倒れているのを見て、マキは怖かった。なぜかわからないけど急に足がガクガク震えて、母さんを呼びたかったのに声が出なかった。パンを持ったままマキは何もできなかった。

 その時横を通ったのが、近所のおじさんだった。よく婆ちゃんが朝に声をかけている、何をしているのかよくわからないおじさん。時たま前の日と同じ服で、同じ髭面で歩いているおじさん。なんで婆ちゃんがあの人に声をかけるのか聞いてみたら、「話し相手いなさそうじゃない。大人はみんな寂しいんだよ。だから婆ちゃんが声かけてあげてるのさ」と言われた。よく分からなかった。

 でも私が声を出せなかった横で、おじさんはすぐ婆ちゃんに駆け寄り、救急車を呼んでくれた。母さんと一緒に行った病院で、あと少しでも遅くなったら助からなかったかもしれないと聞いた。あのおじさんが声をかけてくれたおかげだと、マキは思った。今度は私が声をかけなくちゃ。


 その日、僕は珍しくスーツ姿で路地裏を通って外に出てきた。面接を受け続け、ようやく受かった会社の初出勤日なのだ。久々に通したスーツは若干腹回りがきつかった。自堕落な生活をしていた間に太ったらしい。ダイエットを考えないといけない。

 いつものようにパン屋の横を通ると、目の前に少女が飛び出してきて「おじさん」と言った。……あたりを見回すがどうやら俺のことを見ておじさんと呼んだようだ。まだ30にもなってないのにおじさん呼ばわりかと一瞬落胆したが、諦めた。この歳の子供から見たら十分おじさんだろう。

「これ、もらってください」

 少女は唐突に、僕にクリームパンを差し出してきた。この店の名物パン、のはずだったが随分不格好なパンだった。おかしいな、僕が見慣れたこの店のパンはもっと形もきれいだったはずだが。しかも個包装も口を留めるリボンもどこか不格好だ。

「それね、その子が初めて焼いたパンなのよ」

 ふと横から杖をついたこの店の婆さんが現れた。昔からよく見た婆さんだが、二ヶ月前に倒れて以来杖をつくようになっていた。しかしながら、二ヶ月が過ぎて退院すると毎日店頭に立ち僕にも声をかけてくれるまでに回復していた。最近の老人の体力は随分と恐ろしいものだ。

「その子がどうしてもあんたにお礼をしたいって言って聞かないの。もらってあげてくれないかね」

 真剣な顔でパンを差し出す少女に、僕は困惑してしまった。というのもすでにこの店からは大量のパンのお礼を頂いていたのだった。ただ通りすがっただけだし、救急車を呼んだだけだし、第一毎日声をかけられて元気を貰っていたのはこちらなのだ。僕は丁重に断ろうとしたが店のご夫婦は全く引いてくれず、バスケット一杯のパンを一人で食べることになり、ついでに少し腹が出てしまったのだった。それにこれから初出勤なのに出来たてのパンを持っていくのはどうなのだ。

 しかし、気づくと僕はしゃがんで少女に「じゃあ、いただくね。ありがとう」と自然と声が出ていた。僕が受け取ると少女と、それを見守る婆さんが笑顔になった。その笑顔が僕を笑顔にさせてくれた。

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