星屑の魔法

示紫元陽

星屑の魔法

 月の欠片の魔法。ヒトミの祖先が衝動で使ったそのまじないは、厄介な物を残していた。目的が夜宵やよい家の者一人を救うだけだったと考えると、余計割に合わない代償である。

 東雲しののめハルカは魑魅魍魎ちみもうりょうを見るようになり、日々気が休まらない生活を送っている。彼女はその原因がヒトミの家にあることを知らなかった。否、知らせてはならない掟となっていた。もしも知るとすれば、それは最後の時である。

「なに、それ……」

 だから、ヒトミの姿を見たハルカは愕然とした。身体が薄明に包まれ、差し出した掌には何かの欠片らしき物が宙に浮いている。ヒトミの掲げるそれは、きらきらと数多の色の輝きを放っていた。

「ご先祖様が創り出した魔法」

 ヒトミは滔々とうとうと言った。

 親しかった夜宵家の人間をヒトミの先祖が厄災から救ったという伝承が、彼女の家には残っている。その時に用いた『月の欠片の魔法』は、夜宵にかかった呪いを跡形もなく消し去った。その功績からか、後に神様と崇められるようにまでなったという。しかし、件の魔法は別の部分の均衡を乱してしまっていた。他でもない、東雲家に生じた波紋である。

「何をするの?」

「消すんだよ、呪いを」

 夜宵の呪いは、その後再び現れることはなかった。だがその代わりに、東雲家に不幸が舞い降りるようになった。奇妙な体質は子々孫々と受け継がれ、ある者は幻聴が聞こえ、ある者は霊が見えると言った。そして今、ハルカは妖に頭を悩ませている。

 一番の問題は、ハルカの見えるものが実存しているかのように彼女の精神を侵食し始めていたことだった。『月の欠片の魔法』によって生じた均衡の崩れは蓄積するのである。そのため数代に一度、その乱流を正さねばならない。さもなければ、彼女は得体の知れぬ何かに飲み込まれてしまうだろう。その対処法が、魔法がヒトミの手にある欠片だった。

「消すって、そんなことできるの?」

「うん、できる。簡単」

 ヒトミはハルカの問いに呟くように返した。

「でもじゃあ、どうして今になって? いつでもできたんじゃないの?」

「簡単だけど、それでも準備は必要だから」

 そうなの、とハルカは一度目を伏せた。どうにも腑に落ちないようである。一寸の間考えた後、ふぅと一息吐きだした。

「ねぇ、少し歩こうよ。そう、いつもの神社とかどう?」

「……いいよ」

 二人は斜陽の中を丘の方へと歩き出した。握ったヒトミの手の中からは淡く魔法の光が漏れ出ている。ハルカはそれを見ると、心に淀みができたように感じた。

 鳥居の先に続く石段を静かに登っていく。時折ハルカは怯えるような仕草をしたが、おそらく妖が見えているのだろう。ヒトミの腕にしがみついて一歩ずつ歩を進める。腕を介して震えが伝わってくる。ヒトミはいつもこうしてハルカの不安に寄り添ってきた。だから、今のハルカがいつも以上に怯えていることは手に取るように理解できた。

 何かを恐れている。でもそれから目を逸らさずに向き合おうとしている。ヒトミは、ハルカのそんな意志を見て強いと思った。また、己自身が発端ではないとはいえ、我が一族の過失を一身に背負っている彼女を見ると、ヒトミはこの上ない申し訳なさを感じた。

 ハルカは『月の欠片の魔法』についての事情を知らないはずである。しかし、彼女は幼い頃から勘が鋭いというか、どこか賢しい女性であった。もしかすると、ヒトミの突然の行動から何かを悟っているのかもしれない。少なくとも、何もなければこうしてしじまの中の散歩に自ら誘いはしないだろう。

 最上段まで辿り着いた。灯篭が薄気味悪く光っている中、そのまま近くの展望台まで歩いていく。掌の魔法は尚も七色の光を煌めかせている。

「今までありがとう。私、いつも貴方にしがみついてばかりで。みっともなかったね」

「そんなことない。私こそ今まで何もできなかったから」

「でも、消してくれるんでしょう?」

 ヒトミは無言でハルカを見つめて微笑んだ。ハルカはそれを見ると展望台の手すりを掴んで大きく息を吸い込んだ。暗に理解を示すように。黄昏の空気で胸の中が冷たくなる。陽は既に山に隠れ、鈍い褐色の空が夜を運んできていた。

「それで、貴方はどうなるの?」

 ハルカは遠くの稜線に視線を向けたまま言った。

「何もないなんてことはないんでしょう?」

 ヒトミは握っていた手を開いた。ちらちらと線香花火のように光を散らす欠片が露わになる。二人してその芯を見つめた。

「……消える」

 ヒトミは観念して白状した。

 かつて夜宵の者を救うために用いた魔法は、月の欠片の力を借りて陰陽を傾けるものであった。すなわち、ある所の不純を取り除くことで陽を与えるのである。しかし、天秤に乗ったある分銅を反対に移せば他方が地に付くのは自明の理で、代わりに別の所での陰は濃くなる。

 概説すれば、その陰の影響を受けたのが偶然にも東雲家だったというだけだ。ただ、それだけ。理不尽に降りかかった災い。だからヒトミは『呪い』と表現した。

 欠けた月は元には戻せない。どうあがいても不可能だった。だから先祖はその影響を取り除くすべを勘案した。結果、導き出された方法は単純で、器を移し替えればいいというものだった。

 根は断てなくても、彼らの世界から覆い隠すことはできる。天秤に乗った余分な重りの居所を別のどこかにげ替えればよい。そうすれば、少なくとも誤って与えてしまった枷を、たとえ有限であっても外すことができる。ヒトミの先祖は、その責を一族に残したのである。

「じゃあいらないわ、そんなもの」

「ダメ、これは私の義務だから」

「私は平気よ、だから――」

「嘘。震えてる」

 ヒトミの指摘に、ハルカは自分の左腕を抱いて俯いた。下唇を噛み、周囲に蔓延る恐怖に必死に耐えている。他の誰にも見えない。誰も理解してくれない。ヒトミでさえ、その目で確認することは出来ない。そんな不気味な化け物たちに独りで耐えている。

 一度深呼吸し、ハルカは東の空を仰いだ。大きな満月が昇り始めていた。木立を鳴らす風が天を泳ぐ。

「でも、それじゃあ貴方は――」

「私にはこれしかないの」

 先祖の編み出した術は、まとわりついた汚れを無理やり己に塗り替えるものだった。しかし、所詮は人ひとりの考えた魔法である。そんな強力な魔法が手放しで使えるわけもなく、摂理に反して剥がされる汚れは新たな宿主を急速に蝕むのだが、それへの適切な対処が講じられるほどの猶予はなかったらしい。放置すればいずれ術者の身体を飛び出し、取り返しのつかないことになりかねない。結果、術者が自ら世界に溶けることで、汚れを限りなく希釈するという手段しか残らなかった。

「この魔法は、準備さえ整えばとても簡単。汚れを剥がして移し替えるだけだから。ただ、使うには対象を知らないといけない」

「対象って、私のこと?」

 ヒトミはこくりと頷いた。

「私は、幼い頃からあなたに付き添うことを命じられた。魔法を使えるように教育された。『呪い』を確実に消すために。だから、他のことは知らない。なんにも」

 ハルカは息をのんだ。彼女は今まで、自分は他に類を見ない不条理な犠牲者だと思っていた。世界一不幸だと思ったことさえある。だが、眼前で光の粒を持つこの女性はどうだ。誰も顧みないような責務に縛られ、弱音一つ漏らさずそれを全うしようとしている。自分が消えると分かっているというのに、顔色一つ変えずに完遂しようとしている。

 そんな姿を目の当たりにして、誰が制止できようか。己の生を犠牲にして過去の過ちを背負う姿を、誰が否定できようか。ましてや、自分を救おうとしてくれているのである。ハルカに言い返す言葉などなかった。

「じゃあ、そろそろ」

 ヒトミが言うと、彼女の手に収まっていた光が無数の点となり放散し始めた。緩やかに四方に流れ、やがてハルカの身体を取り巻いていく。数多の色を纏って淡く明滅している。

「なんだか、星屑みたい」

 ハルカは涙を浮かべていた。と、そんな滲む視界の先で、ぽかんと驚いている顔が見えた。どうしたのだろうとハルカが怪訝な顔をすると、間抜けな表情の主はかぶりを振って微笑んだ。

「やっぱりハルカには敵わないね」

「え?」

「なんでもない」

 言うが早いか、ヒトミは掌を一度広げ、そのまま残った欠片ごと己の胸に押し当てた。それからは一瞬だった。ハルカを纏っていた光の粒が一斉に彼女の身体を渦巻き、通り抜けてはヒトミの方へと駆ける。ハルカは透明な風によって心中から何かを押し出されているような気分がしたが、不思議とそれは心地よく感じた。身体に刻まれた不可視の傷跡が癒えていくようでもあった。

 あぁそうか、これはきっとヒトミだからできるのだ。ハルカは思った。私のことを知り、ただ私を救おうとしてくれたヒトミだからこそできるのだ。それが一族に課せられた任で、ただそれを遂行しただけだったのだとしても、私を暗い淵から救い出してくれることに違いはない。最も長く傍で過ごし、最も私に寄り添い、最も私の言葉を聴き……。

「あ、そうそう忘れてた。このことは誰にも言っちゃだめだよ。魔法が解けちゃうから」

「言うわけないじゃない。頼まれたって、誰にも教えないわよ」

 気が付くと、展望台にはハルカが一人で立っていた。辺りには誰もいない。もちろん妖の類も。再度空を仰ぐと、青い月が幾分高い位置まで来ていた。


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