猫な俺とお姉さんと

麻倉 じゅんか

第1話

 吾輩は猫である。

 名前はまだ無い。


 ――うん、猫になったら一度言ってみたかった。

 いや、なりたくて猫になったんじゃ、ないんだけどね。


 朝、目が覚めると俺は猫だった。

 昨日、布団に潜って寝付くまでは確実に人間だったのに。


 夢かと思ってホッペタをつねろうとした。

 ……つねれなかった。

 猫だから。猫の手ではホッペタをつねれない。

 精々、クシクシと顔を撫でるくらいしか出来なかった。それでも周りに誰かいたら愛想でも振り撒けただろうに。悲しいかな、裏路地では誰もいない。


 しょうがないから、そこらのコンクリートの壁に顔を擦りつけて、ホッペタをつねる代わりにした。

 結論。

 痛かった。

 夢じゃなかった。

 現実だった。

 俺は、本当に猫になってしまった。どういう流れでこうなってしまったのかは全く分からないが。



 裏路地を出て状況確認をする。

 そこは異世界ではなかった。どこにでもあるような日常風景。


 ただし、それを猫の低い視線で見ている。

 だから、俺には巨人がそこらを行き交っているように見える。

 そしてその巨人達は知っている言葉で話している。異世界どころか外国でもなかった。


 ただ安心はした。外国でないなら、猫食の文化はこの国にはない……はずだ。あとは彼らに踏み潰されないよう気をつけるだけ。




 さて。

 猫になってしまって、この後どうするか。俺は考えた。


 …………。


 全く思いつかない。

 そもそもどうして猫になってしまったのかすら分からない。


 まあ考えすぎずに気楽にいこうか。

 どうせ猫には試験も学校もない。

 学校にいい思い出もなかった俺は自由だ!



 ――などとイキっていた3日前の俺をぶん殴ってやりたい。


 俺は“自由”という言葉の持つ意味を勘違いしていた。


 確かに俺を束縛する学校はなかったが、守ってくれる“家”も無いし、“飢え”はしっかりとある。


 季節はまだ寒い。

 毛皮を常時着用しているようなものとはいえ、これだけでは寒い。

 雨が降った日なんかは、軒先だけでは辛い。惨めだ。


 そして何よりこの3日、何も食べてない。


 よく考えたら俺は猫が何を食って生きているのかを知らない。

 人間が普通に食べているものでも、猫にとっては毒になるものもあったはずだ。


 こうなるんだったら、人間だった頃によく調べておくんだった!

 ……いや、まさかなるとは思わないよな、普通。


 一度など、偶然見かけた店の軒先の魚を盗んでやろうと思った。

 魚なら大丈夫だろうし、猫に法なんてないんだから!


 ――出来なかった。人間だった頃の安っぽい良心が邪魔をして。

 盗みはいけないことだと考えてしまって、出来なかった。




 そんなこんなでフラフラと本当に倒れそうになりながら夕方まで歩いていると、2人のスーツを着たお姉さん達に会った。


 そのうちの一人はしゃがんで、白いおにぎりを差し出してきた。


「ほらほら、こっちにおいで。これあげるよ〜」

「ちょっと、めなよ。その子、野良でしょ。無責任に餌をあげるのは良くないよ」


 ――もうひとりのお姉さんはそう言って止めたけれど。


 ありがたかった。久しぶりのご飯にありつけたんだから。


「ごめんねぇ猫ちゃん。これ、味をつけ忘れたヤツだから、美味しくないかもしれない」

「いいのよ、猫に塩味は良くないんだから。

 それよりも居酒屋に行くんでしょう。早く行かないとしまっちゃうわよ!」


 そう言って二人共、きっと居酒屋があるだろう場所へと去っていった。

 おにぎりをくれたお姉さんは去り際に手を振ってくれた。

 俺もそれに『ありがとう』と応えた。

 ――言葉は猫語に変換されて『ニャオ〜ん!』になってしまったが。




 親切なお姉さんに助けれれて、なんとか今日を生き延びられた。

 でもこのままじゃいけない。今は良くても、また今日のように助かるとは限らない。


 そう思って俺は色々と考え、試してみる。


 盗みは、やっぱり出来ない。


 虫……ダメだ、食えない。キモチ悪い。


 草……猫って草食うのか? 食っていいのか? 分からない。


 他の猫から情報を得ようと話しかけたが、猫になっても猫語は全く理解できなかった。

 ……もしかして元・人間だからだろうか。




 そうして夜も更けていった。


 ……近年はコロナのせいでこの時間になるとほとんど人が通らない。

 猫になって、ああいうのから逃れられて良かった……とは言えない状況がまだ続いている。

 けれど、もう今日は疲れた。明日からのことは明日、考えよう。


 そう考えて今日のねぐらを探している時だった。


「イヤっ、来ないで!」


 女の人の声が聞こえた。しかも聞いたことのある……夕方に会った、あのお姉さんか!?


 声は少し遠い。

 が、猫の足ならこの程度!

 声のした方に急ぎ駆けつけた!




「やめて! 離して!」

「おいおい、つれない事言うなよ」


 案の定、声の主はあのお姉さん!

 お姉さんは、ガラの悪い小男に捕まっていた!


「なあなあ、アンタ一人なんだろ?

 オレとイッパイヤろうぜ」


 ――何というか。襲っていたのは型通りの小悪党。

 ここまでさんざん苦労してきた俺へのボーナスだろうか。

 この状況、やることといったら1つしかない!


「ニ"ィ"ィ"ィ"ィ"!」


 俺は男に飛びかかった!


 突然の不意打ちに男は避けることができない!

 俺は首を引っ掻こうと飛びかかった!


「首ィ!?」


 男は驚きひるんだ。

 怯んだその隙にお姉さんは男を離れる。


「! あなた、ひょっとしてあの時の……」


 覚えてもらえてて、何より。

 けどそれより今は男の方だ。


「こんの、猫がア!」


 怒り狂った男はナイフを抜いて俺に切りかかってくる。

 が、小柄で身の軽い猫である俺にそんな雑な攻撃が当たるわけがない。

 逆に俺は男に再び爪の一撃を食らわせた!


 ――男のズボンのベルトに。


 ズボンがストン、と落ちた。

 ――ああコイツ、ブリーフ派か。

 や、そんな情報要らんけれど。


「ヒィぃ……!」


 男は猫1匹相手に情けない悲鳴をあげて逃げていった。




「ありがとう、猫さん。助けてくれて。ひょっとして、おにぎりのお礼?」


 お姉さんのその問いには答えることができなかった。


 俺は疲れて、どっ、と倒れたのだから。


「猫さん、猫さん!」


 俺を呼ぶ声にも答えられずに、俺の意識は闇の中へと消えていった……。




 次に気がつくと、そこは人間である俺の部屋……ではなく、お姉さんの腕の中だった。


 俺はまだ猫のままらしい。


「あ、良かった。起きてくれた!」


 俺の目が覚めたことにお姉さんが気づいたようだ。


 ――ってか、お姉さん、お酒臭い。

 ああ、居酒屋に行くって言ってたな。 


「ありがとう。君のおかげで助かったよ、律儀な猫くん!」


 お姉さんは俺の脇を持って空に掲げ、くるくると回った。

 ……これ、完全に酔ってるね。


「ね。君、ウチに来ない? そんでウチの子にならない?

 なっちゃいなよ!」


 お姉さんは強引に話を進める。

 ……まあ、お姉さんに飼われれば、今俺が抱える色んな問題が解決する。

 悪い話じゃあない。


「よし、そうと決まれば名前をつけてあげよう!

 ……えっと『太郎丸』?」


 ……それじゃあ犬の名前じゃあないか。

 お姉さん、完全に酔った勢いで考えてるだろう。

 俺ははっきりと首を振って断った。


「冗談、冗談。アハハハハ……!」


 そうでなくても、そうであって欲しいよ。本当……。


「じゃあさ、『ヒロ』でどう?

 君はさ、私だけのヒーローなんだからさ」


 今度はなんだか人間っぽいが、まあいいか。

 猫になってしまった人間としちゃあ、悪くない名前だと思う。


 今度は、俺は首を縦に振った。


「そっかそっかあ、気に入ってくれたか!」


 お姉さんは俺を、まるで大切なもののように優しくぎゅっと抱きしめた。


「これからよろしくね、ヒロ」


 穏やかな声で囁くお姉さん。


 俺は今、初めて猫になってよかったと思った。

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