弟にとって兄は。
霜弐谷鴇
兄を見つめる小さな自分
母さんに怒られたとき、決まって自分の分の飴玉を分けてくれた。
通り沿いの家の庭に繋がれている大型犬が怖いと涙を浮かべたとき、震える手を震えた手で強く握って引っ張っていってくれた。
水に顔をつけるのが怖くてプール授業が嫌いだったとき、「俺の渾身の変顔が見たかったら、水に顔をつけて目を開けろ!」と言ってしばらく水中で変顔をし続けてくれた。水中で揺らめく変な顔がずっと見えてたよ。
初めて小説みたいなものを書いて、勇気を出して読んでもらったとき、「面白いわ、才能あるよ」と言ってくれた。舞い上がって、クラスの友達にも見せてしまったことは忘れたい記憶。
全部全部、きっと覚えてないんだろうな。こんなに心に残っているのに。こんなに暖かな記憶として灯っているのに。きっと、兄さんにとっては当たり前なことだったんだろうな。だから。
「お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ」
突然、兄さんに投げつけられた言葉に固まってしまった。頭の上に疑問符が飛び交い、ぶつかり合っていた。
兄さんは大学受験で希望の大学に受からず、浪人した。浪人時代、兄さんは根を詰めすぎていたように思う。背中が丸く猫背になり、外に出ることが減って表情も暗くなった。
兄さんの二度目の受験、兄さんは第一志望の大学には受からず、滑り止めに受かった。かくいう自分は希望の大学になんとか受かることができた。母さんが「2人も浪人はさせられないよ」と言っていたから、兄さんの負担にならないように必死に勉強した。そうして合格することができた。
兄さんに褒めてほしかった。よく頑張ったなって。苦手な数学もよく引き上げたなって、言ってほしかった。けれど投げかけられた言葉は、刺々しいものだった。その言葉を残して、兄さんは家を出た。
兄さん覚えてる? 中学生のとき、数学の授業についていけなくなった僕に、何時間でも何回でも教えてくれたことを。公式の覚え方も、勉強のやり方も、兄さんから教えてもらったことばかりが僕の中に残ってる。
母さんの機嫌の取り方も、学校の先生との接し方も、パソコンの使い方も、ゲームの楽しさも、勉強の奥深さも、全部兄さんを見て、兄さんから学んだんだ。けれど、兄さんにとってそれはきっと当たり前で、記憶にも残ってないんだろうな。
兄さんから冷たく突き放されたときに考えた。僕は。僕は兄さんの気持ちを考えたことがあっただろうか。
兄さんの表情を、兄さんがどんな顔をしていたかを思い出すことがどれだけできるだろうか。
あの頃はそんな自問をするしかなかった。
仕事漬けの毎日に心がすり減っていくのを感じる。大人らしい仕草。大人らしい言葉遣い。大人としての気遣い、礼儀。そんなカタログに載っていそうな人間になっていく。
世界的な感染症の蔓延で、現実世界での交流が減ったことも大いに心を蝕んでくる。
そんな折に、久々に兄さんが実家に帰ると母さんから連絡があった。何年ぶりだろうか。俺も帰るよ、と連絡をして数年ぶりに実家に帰ることにした。
数年ぶりに会った兄さんは、記憶にあるよりも小さく見えた。
『お前、俺のこと馬鹿にしてるだろ』
あの言葉が頭の中で鳴る。様々な記憶が蘇る。だけど。
「兄さん、今どんな仕事してるの?」
「ん? 最近は役職ついたから管理側の仕事が増えたかなぁ」
「兄さん、俺さ、最近競馬にハマりそうで」
「やぁめとけって。そんなんに金使うなら株の勉強でもして株買え」
「兄さん、なんか最近足の裏が痛くて」
「うお、お前それ魚の目じゃん。薬塗ってふやかして取ろうぜ」
兄さん、兄さん、兄さん。兄さんの前だと、子供の僕が顔を出す。大人の仮面を被っていた自分が顔を晒す。
どんなに冷たいことを言われても、その背中がどんなに小さくなっても、たとえどれだけ格好悪くなったって、僕はそんな兄さんの弟で。
兄さんは、あの日僕の震える手を強く握ってくれた、僕だけの
弟にとって兄は。 霜弐谷鴇 @toki_shimoniya
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