風にこの由を聞きて 3
――これは「夢」だ。
けれど、夢ではない。
からりと開け放たれた蔀戸、妻戸。文箱をのせた漆塗りの文机。吹く風に柔らかく揺れる几帳の絹。
よく見知った調度。だが、自分には関係の無いものであったそれら。
周囲を確認すればするだけ増してくる恐慌感を、唇を強く噛んで抑えた。
「姫様、これをお飲み下さいませ。気分がすっきりいたしますから。」
朝、起こしに来た同じ年頃の娘が、心配そうに言いながら、白く濁った湯の入った椀を差し出す。
言われるままに口に運んだそれは、つんと鼻に通る香りがして舌にぴりりと苦かった。。
匂いがして味がして、お腹も空いて、抓れば痛くて……トイレにも行きたくなる。
総てが現実の質量で迫るが、でもこれは自分の「現実」ではない。
早桜はまた確かめるように胸内で自分の名前を呟く。
「姫様……横になられますか?」
「――平気よ。」
いつもの「夢」のように、「早桜」は迷い込んだ者ではなく、「ここ」に在る者になっている。
そんな記憶など、自分には欠片もないというのに。
自分は、あくまで早桜でしかないのに。
「でも、姫様、お顔の色が……、」
「っ 平気だから!」
棘だった口調で言葉を返し、はっとする。
「……ごめんなさい。……少し一人で考えたいの。」
視線を落とした膝に置いた掌の、指も爪のかたちも、なにも違和感を覚えない。映りは悪かったが、鏡に映した顔も確かに自分だった。腰まで届く、髪の長さだけが、「現実」の、覚えている自分とは違う。
不安をいっぱいに湛えた目を伏せた娘が、心配しているのは「自分」ではない……はずなのだ。
では昨日までここにいた「ひと」は何処へいってしまったのだろうか。
――それとも。
それとも、おかしいのは自分なのか?
――でも、覚えていない。
「自分」がいるこの「ひと」のことをなにひとつ。
――でも覚えている。
「早桜」を。
これが、夢なら早く醒めて欲しい。こんな極めつけの悪夢!
「――姫様、」
随分早く戻ってくる、と目を上げると、困ったような顔で娘が縁に座っていた。
「ご出立は、どうしましょう? どうしてもご気分が優れないのなら、本日は取りやめということで、手配して参りますが?」
「……出立……? ああ、出掛けるってことね……」
「は? どうされます? 多賀城の方にも使いを立てねばならなくなりますし。」
できるなら予定を変えて欲しくない、という顔である。
「多賀城……。」
話に聞く敵の前線基地か。
「国司様やご子息の義家様も、姫様をご覧になったら驚かれますわ。都にも姫様みたいに綺麗な方はおいでじゃないですよ。」
熱心に崇拝を込めて言う娘の様からは、彼女と「このひと」がとても良い関係なのだととうことが伝わってくる。
少し唇を綻ばした早桜の思考は、けれど一瞬で娘から離れて、めまぐるしく回転していた。
よしいえ。
聞いたことがある。源義家――新陸奥国司、源頼義の息子の名。
ならば――ならば、かの国には彼も……彼らも存在しているか。
そして「早桜」を覚えているだろうか?
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