第十一話 可哀想な子

「遅くなってすまない。助かったよ」

「いいよ、気にしないで」


 その日のウィリアムは、常より三十分ほど遅れてローズを迎えにきた。泣き疲れて眠ってしまった子どもを、父親の腕へと引き渡す。その際、ウィリアムはローズの指に巻かれた包帯を発見し、どうしたんだ?と聞いてきた。


「ちょっと紙で指を切ってね。傷としては大した事ないよ」

「そうか、良かった。今日ははしゃいだのかな? 大変だったろう?」

「泣いたり笑ったり怒ったり、本当にころころと表情が変わるね」

「ははは、見てて飽きないだろう?」


 ウィリアムは抱えた我が子の頭を、大事そうに撫でる。


「ローズは元気があり余ってるからなぁ。大人一人で相手するのは大変だったろう。あ、ギルのお香かな? ここに来るといつもこの匂いがする」

「気に入った? あれにはリラックス効果があるからね」

「そうなのか? 有難いな」


 一度大きく息を吸いこむと、ウィリアムは途端にとろんとした目になった。こうなれば、彼の思考と舌はゆるゆるだ。準備は整った。


「ローズの事、大切に想ってる?」

「そりゃあ、もちろんさ。大事な一人娘だぞ?」

「どのくらい思ってる?」

「どのくらいったって……」


 ぼんやりとした頭でどれだけの思考が働くのか、うーんとウィリアムが唸っている。


「……全部だよ。俺の全部。今生きてる意味。この子がいなきゃ、ぜーんぶ駄目だ。死んでるのと一緒」

「本当に?」

「だって、他に俺に何があるって言うんだ? 毎日会社行って金を稼いで、休日潰して公園でアイス食って、一体何のためにやってるっていうんだ? この子がいるからだ。こんな毎日がとんでもなく楽しいのは!」

「でも、一人で育児はつらいだろう? やめてしまいたいと思った事はない?」

「……つらいよ。本当につらい。どれだけ疲れててもゆっくり眠れないし、誰も変わってくれない。ローズは問題事ばっかり起こすしな」


 つらい、つらい、と弱音を零しながら、ウィリアムは寝ている娘に頬ずりをする。


「でも、俺の全部だよ」


 イーサンはそれを、ただ黙って見ていた。片手を上げ、ウィリアムの頭の横に手を添えると、かちり、とボタンを押した。情留器をポケットに突っ込みもう一度手を掲げると、まだぼんやりとしているウィリアムの顔の前でパチンと指を鳴らす。途端、はっとした顔でウィリアムが顔を上げた。


「悪い、長話だったか?」

「いいや、全然」


 イーサンはにっこりと笑い、玄関の取っ手に手をかける。


「それじゃ、また。おやすみ」


 ガチャンと玄関を閉じると、イーサンは少しの間その場で立ち尽くしていた。ウィリアムが階段を下りていく音を聞いて、ガチャンと扉の閉まる音がして、そうしてようやく、その場を離れる。

 深紅の廊下を進んでいる時、イーサンは違和感に気づかないふりをした。でもだんだんと無視できなくなって、ふいと意識をそちらに向けると、彼の耳はほんの微かな声を聞き取った。イーサンは廊下の途中で立ち止まり、そしてまた歩きだす。

 階段下の廊下に続く扉を開いた時、わずかに赤い染みが床に落ちているのに気付いた。点、点、と右手の扉へと続いている。

 扉を開き、細い廊下を進んで書斎の前を通りすぎた頃には、聞こえていたのが子どもの泣き声だというのにはっきりと気付いていた。ローズの大泣きに比べたら、掻き消えそうなほど小さな、息を殺したすすり泣きだ。廊下の突きあたりにある倉庫で一人、小さな子どもが隠れて泣いている。

 古い木でできた倉庫の扉を開けると、部屋の隅に座りこんでいる子どもがいた。腕や足、体のいたるところに痣や切り傷があり、一人その痛みに耐えて、泣いている少年。イーサンは黙ったまま、じっとその子どもを見下ろしていた。


『もう昔の事だ』


 倉庫の扉の前に立った黒い男は、にべもなく言った。泣き腫らした顔を上げ、少年が恨めしげな顔で見上げてくる。


『あんなおまじない、利いたわけない』


 少年の目には憎しみの色が籠っていた。黒い男は、扉の前に立ち、ただ黙ってそれを見下ろしている。

 ふいに足音がして、イーサンは後ろを振り返った。廊下の先に、紫のフレアドレスを着たマーリンが立っている。


「さっき、大泣きしてたみたいだけど」

「……埃渡りに噛みつかれたんだ」

「あら、そんな事。大げさね」

「……先生はもっと大怪我してたってそう言うだろ」


 責める調子を滲ませて、そう突っかかった。マーリンはゆるく巻かれた金髪に指を通すと、さらりとそれを払いのけ、まっすぐに廊下を進んでくる。イーサンの前まで来て足を止めると、後ろで手を組み、幼い少女の仕草で顔を覗きこんできた。


「どうしたの、イーサン? 自分もあの子みたいに慰めてほしかった?」


 少女がくる。悪い魔女の顔をして。イーサンの顔に手を伸ばし、にっこりと醜悪で、純粋な笑顔を浮かべた。


「可哀想なイーサン」


 イーサンはただ、黙ってその魔女を見つめていた。少女の細い指が何度か頬を撫でると、するりと顎を伝って離れていく。マーリンはまた廊下を戻り、曲がり角のところで振り返った。


「手のかかる子が帰ったなら、次は私の夕食を用意して頂戴」


 あとは目もくれず、マーリンは行ってしまった。

 イーサンは倉庫の方を振り返る。部屋の隅に座りこんだ少年に見てみぬふりをすると、扉を閉め、少女の後についていった。

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