第十話 愛について教えて
イーサンが二階から下りてきた時には、リビングにローズの姿はなかった。キッチンや食糧庫の方も覗いてみたが見あたらないのでイーサンは踵を返し、深紅の廊下の方へと向かった。
「ローズ?」
返事はない。トイレや各人の部屋の扉も開けてみるが、中に人がいる気配はなかった。
ローズには自分達の部屋に勝手に入らないよう言い聞かせている。しかしあの子はほったらかしにされるのを嫌うので、前のキッチンの時のように、自分の部屋を荒らされてやしないだろうかと心配だったのだ。とりあえず中にはいないようで安堵する。
イーサンは廊下を引き返し、今度はリビング向かって右手の扉の方へと歩いていった。扉を開けた先には細い廊下があって、ちょっと行った所で左に折れ、そしてその廊下にもいくつか扉が並んでいる。順に、書斎、魔法薬の素材保管庫兼培養室、風呂場、それから突きあたりに小さな倉庫の部屋となっている。書斎の方から物音がして、イーサンは左に折れる手前にある扉を開く。はたしてローズはそこにいた。書斎の中央に立ち、天井を見上げている。
書斎は壁三面が本棚で埋め尽くされていた。その本棚は壁を這って天井まで続き、逆さまになった本はぴたりと天井に張りついている。行儀よく、すべての本が背表紙をこちらに向け、そこで静止していた。天井を見上げたローズは、ぽかんと口を開けている。
「なんで本がおちてこないの?」
「落ちてきたら危ないだろう?」
何を言ってるんだ?とイーサンは首を傾げた。
「ところで、その手に持っているのはどうしたのかな?」
イーサンが尋ねると、ローズは握りしめていた手を開く。その手には、ガラスの器の付いたカウンターのような物が乗っていた。
「僕らの部屋に入るのは禁止だって言ったはずだ」
「入ってないわ! これはここで見つけたの!」
あそこにあったわ!とローズは隅のデスクを指さす。ギルのしまい忘れだな、とイーサンは溜息をついた。
「これはなぁに?」
「ローズ、それを返しなさい」
「どうやってつかうもの?」
「玩具じゃないんだ、ほら」
取り返そうとするも、小さな子どもは腕の間をすり抜け、腰を屈めたイーサンの頭に向かって腕を突き出してきた。咄嗟、イーサンはその手をすばやく握って制止する。二人の手の中で、かちり、と音がした。それだけだった。
「……これって、パパの頭から想い玉をとったやつ?」
「そうだよ。情留器っていうんだ」
ローズは今度は自分の頭の横に手を添えた。ボタンを押す前に、イーサンを見つめる。
「痛くない?」
「まぁ、別にどうもしないよ」
聞いてから、かちり、ローズはボタンを押した。するとローズの想いがするりと頭から抜け出して、蒸留器の中へと吸い込まれていく。ローズが蒸留器を目の前へと掲げると、とろりと光るものがガラスの器の中に入っていた。それを、ずいとイーサンの方に突き出してくる。
「イーサン、これでまたコーヒーをいれて!」
「さっきも飲んだじゃないか」
「あんなの飲めたもんじゃないわ!」
ローズはウエー!と舌を出した。
「コーヒーをいれてくれたら、わたしをほったらかしにしてた事もゆるしてあげる!」
イーサンはやれやれと肩をすくめると、ローズの手から想い玉を受け取った。
キッチンへ行き、昼間に入れた残りのコーヒーポットを手に取るとそれをカップへと注ぐ。そこへ想い玉を入れて混ぜ、ローズに渡してやった。ローズは一口それを口にしたかと思うと、またすぐイーサンの手へとカップを戻してきた。
「飲んでみて!」
言われるまま、しずしずとイーサンは口を付ける。足元で、どう?どう?としきりにローズが尋ねてきた。
「……甘い」
そのままもう口を付けそうにないイーサンからカップを取り戻し、ローズはもう一口、コーヒーを飲んだ。口内いっぱいに甘い味が広がって、思わず満面の笑みが零れる。
「あまーい!」
しばらく様子を見守っていたイーサンだったが、ローズがあまりにちびちびと飲むのに痺れを切らし、飲んだらカップはシンクに置いといてねと言い残してリビングの方へ行ってしまった。ローズは置いていかれた事に焦り、そこから一気に中身を飲み干した。お腹がちゃぽちゃぽになってしまった。
シンクにカップを置いて自分もリビングに行こうとするが、視界の隅に黒い影を見た気がして足を止める。振り返ると、食器棚の隙間に何かが逃げていくのが見えた。虫にしては大きい。影が逃げこんだ隙間を覗くと、もさもさと毛の生えた丸い生き物が見えた。やはり虫ではない。
ローズは好奇心のままに隙間に手を差し込む。逃げた生き物を捕まえようと指を動かした。瞬間、指に激痛が走り、ローズは悲鳴をあげる。慌てて腕を引き抜いて手のひらを見ると、指先が裂けてぷっくりと血が溢れていた。それがあまりにショックで、ローズは大声で泣き叫び始めた。
「どうした?」
泣き声を聞きつけ、イーサンが戻ってくる。ローズはただ泣き喚き、自分の手のひらを広げてみせる。小さな指から血が出ているのに気づくと、イーサンは膝を付いてローズの手を取った。視線を食器棚の方へとやると、ローズの指を噛んだ毛の生えた生き物が、食器棚のさらに奥へと逃げていくのが見えた。
「見せて」
「指……! とれちゃった……!!」
「取れてないよ、ちょっと噛みつかれただけだ。ただの埃渡りだよ。君がこないだキッチンを滅茶苦茶にしたから、自業自得だ」
イーサンはローズの手をタオルで包むと、上からぎゅっと握りこんだ。ローズがまた悲鳴を上げ、わんわんと泣き始める。
「大げさだよ、ちょっと噛まれただけだ。すぐ止まる」
「いたい……! いたいぃ……!!」
ローズの緑の目から、次々と涙が溢れてくる。耳元できゃんきゃんと泣かれる事にイーサンが頭痛を覚え始めた頃、泣き声の合間にローズが要求を差し挟んできた。
「おまじない、かけて……!」
「え、何?」
しゃくりあげながら、涙の合間に懸命に訴えてくる。
「いたみが、とんでっちゃう、おまじない……!」
「そんなのないよ」
「パパはいつも、やってくれるわ……!」
「……ごめん、僕は知らないんだ」
落胆されたのが、その表情から手に取るように分かった。みるみる内に、またローズの目に涙が溜まっていく。
「パパはいつも……やってくれるわ……」
絶望した顔でローズが俯くので、さすがのイーサンも参ってしまった。また一粒、二粒、小さな頬に涙が伝っていく。それを見て、小さく溜息を零した。
「……どうやるの?」
尋ねると、ローズは弱々しい手振りで自分の手を撫で始める。そして空へと放るような仕草をした。
「いたいのいたいの、とんでけ~」
そんなばかな……とイーサンは愕然とするが、泣く子どもを放っておくこともできない。見よう見まねでやってみる。
「痛いの痛いの、とんでけ。どう?」
「……ちょっときいたわ」
イーサンは小さな顔に伝った涙の跡を拭いてやる。握っていた手を離すと、血はもう止まっていた。
「おいで、薬を塗ろう」
リビングへ行ってローズを座らせると、救急箱を持ってきて薬を塗り、包帯を巻いてやる。傷口の割に随分と仰々しい見た目になったな、とイーサンは呆れたが、それが少しだけお気に召したのか、ローズの涙は先ほどよりいくらか引いたようだった。が、まだぐずぐずと鼻を啜っている。仕方なく、イーサンは彼女を膝に乗せてやった。
「痛いの痛いの、とんでけ」
そうしてローズの気が済むまで、包帯の巻かれた小さな手を擦ってやる。
そうしてしばらくすると、泣き声はやがて小さな寝息へと変わっていった。
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