第一章 ご近所さんは魔法使い

第一話 招待

 ロンドンの一角にある古いアパート。車の通る大通りからは外れた静かな通りだ。駅やショッピングモールへの抜け道としても使えない、ただ近所の人が犬の散歩なんかに使うような静かな通りに、そのアパートはあった。茶色のレンガ造りの細長い四階建ての建物で、三階までは左右二つずつ、四階だけは中央に一つの窓がある。左右に建った少しだけ背の高い同じようなアパートに、押し潰されるようにして建っている。

 そのアパートへと続く短いステップの上で、幼女が一人、絵本を読んでいた。本の表面を撫でる指は短く華奢で、まだ文字もろくに読めない。体を折りまげ、ダークブラウンの丸い頭を本にひっつけ挿絵を眺めている。黒い服を着た鉤鼻の魔女が、少年の手をひいて森に入っていく場面だ。森の先にはぐつぐつと煮えたぎった鍋が置かれ、悪臭ただよいそうな湯気を立てている。次のページを捲ろうと幼女が指をかけた時、本の上に影がかかった。シルクハットを被った男の影だった。


「こんばんは、お嬢さん」


 幼女が顔を上げると、すらりとした長身で甘いマスクの男が立っていた。口元にわずかな微笑を浮かべ、ハーフアップにまとめた長い黒髪が肩から真っすぐに垂れている。とろりとした漆の黒だ。それに喪服ではない黒地のスーツ。男のいで立ちは、まるで夕暮れの影からそのまま夜の帳が立ち上がったようだった。

 幼女は眉を寄せる。男はシルクハットを被っていなかった。視線を下げ、本の上に落ちた男の影を見る。影もシルクハットを被っていなかった。でも確かにさっきは……。


「お嬢さん、お名前は?」


 男は幼女にそう尋ねた。幼女はむっつりと口を閉じたまま。


「誰かを待っているのかな? ママは? パパは?」

「……」


 幼女は決して無口な子という訳ではない。むしろ普段は口を塞いでもしゃべり続けるような子だったが、その男の質問には答えなかった。それは、一人でいる時に知らない大人に声をかけられても返事をするなと、父親に口すっぱく言われていたからである。

 黒髪の男は眉尻を下げ、高い背を屈めて幼女の顔を覗きこむ。


「困ったな……。迷子さんかな? お家はどこ?」


 その言葉に、幼女は背後の建物を指さす。


「あぁ、ここのアパートの子だったのか」


 男はほっとしたように表情を緩めた。


「君は口がきけないの?」

「……ちがう」


 投げかけられる怒涛の質問に、とうとう幼女は黙っていられなくなり口を開く。すると男が嬉しそうに目を細めた。


「良かった。僕とはおしゃべりしてくれないのかと思った。君の名前は?」


 幼女は少しだけ迷ったが、結局この男に自分の名前を教える事にした。


「……ローズ」


 名前を名乗るくらいならどうって事ないように思えたし、幼女の目からすれば、男は気さくで優しそうに見えたからだ。

 それに、格好も良かった。これには二つの意味が含まれている。黒地に青の刺繍が入ったスーツは男の体にフィットしており、合わせた細身のナロータイも黒で統一されている。立ち姿は屹立として優美で、男には自信と礼節が窺えた。もちろん、もう一つの意味は顔が良いという意味だ。幼い子どもは往々にして、美女とイケメンが好きなものである。


「はじめまして、ローズ。僕はイーサンだ」


 そう言って、男は紳士然とした態度で胸に手を当て頭を下げた。さらりと伸ばされた黒髪が肩を流れて、また元の位置へと戻っていく。イーサンが顔を上げたので、彼の複雑な色の瞳がよく見えた。瞳孔を中心に、周りを茶と緑の虹彩が放射状に囲っている。黒々とした核を抱いた太陽のようだった。


「もうじき日が暮れる。こんな所で本を読んでいたら、悪い魔女にさらわれてしまうよ?」

「……」

「家の人も心配しているだろう? ママが夕飯の準備をしている頃じゃないか?」


 ローズは目を逸らし、また本へと視線を落とす。


「ママはいないわ。わたしが赤ちゃんのころに死んじゃったの。だから家に帰ったってだれもいないわ」

「本当に? 君みたいな小さな子が、一人で留守番させられているの?」

「ベビーシッターなら来てたわ。さっき帰ったけど」

「君を置いて?」

「パパにでんわしてたから、すぐにパパが帰ってくる」

「なんでベビーシッターは出ていったの?」


 ローズは無言のまま、ページを捲る。二人の間に流れる静寂の空間に、パラパラと乾いた音が鳴った。


「……とにかく家の中に入ったらどうかな? ここはひとけが少ないから小さな子が一人なのは危険だし、だいぶ冷えこんできたよ」

「じゃあ、あなたも家に帰ったら?」

「あぁ、そのつもりだよ」


 言って、イーサンはローズの座っている階段のステップの一段目に足をかけた。それを見て、ローズは男の顔を見上げる。


「あなたもこのアパートにすんでるの?」

「昨日、四階に越してきたんだ。つまり、僕は君のご近所さんだ。どうぞよろしく」


 ローズはその言葉に、ぎゅっと眉間の皺を寄せた。


「四階に部屋なんてないわ」


 言うが、イーサンはにっこり笑うだけだった。ローズをよけて残りのステップも上がっていく。


「うちの上は物置のはずだもの」


 イーサンはアパートのエントランス扉の前で振り返った。


「じゃあ、確かめてみる?」


 そして身を翻して行ってしまう。ローズは少しだけ男の後ろ姿を見つめ、そうして少しした後、本を抱えて立ち上がった。

 エントランス扉を抜けると、一階住居の扉と四階まで続く螺旋階段がある。イーサンが上階へと上っていく姿を見つけ、その後を追った。

 四階へは一度だけ上がった事があった。ローズがここへ越してきた当日に、探検と称して父親と一緒に一階から四階までご近所への挨拶回りをしたのだ。その時に上がった四階は、少し錆びついた鍵なしの古い木の扉と、その先には埃っぽいがらんどうの物置があるだけだった。しかし今日、四階まで上りきったローズの目にしたものは、その時とはまったく違うものだった。


「さぁ、どうぞ」


 そう言って、イーサンが鍵付きの鉄製扉を開ける。中に見えたのは細長い深紅の廊下だ。知らない人に付いていっては駄目。そう言われていたローズは、開け放たれた扉の前で躊躇する。


「君は中がどうなっているのか気にならないのかい?」


 聞かれても、ローズは答えない。


「……そうか、じゃあ家に帰るといい」


 言って、イーサンが扉を閉めようとする。ローズは慌てて一歩を踏み出し、それを押し留めた。男はにっこり笑い、また扉を開けてくれる。


「……しらない人についていっちゃダメなのよ」

「でも僕らはご近所さんだ。もう名前も知ってるし、知らない人じゃない」


 ちらちらと視線を泳がせて迷っているローズに対し、イーサンはさらに誘惑をかけてきた。


「パパが帰ってくるまでのほんのひと時だ。退屈しのぎに、君に面白いものを見せよう」


 さぁ、とイーサンの長い腕に促され、ローズは扉の内側へと踏み出していく。扉を開けてくれている背の高いイーサンの横を通り過ぎる時、まるでトンネルの中を通るように彼の影をくぐり抜けた。

 頭の上から、男の嬉しそうな声が降ってくる。


「わが家へようこそ」

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