Egoist
ぽち
序話 魔女の誘い
氷の混じった重い雨が、ぼとぼとと空から降ってくる。寂れた村の道は舗装などされておらず、むき出しの土の地面は雨と混ざってぬかるんでいる。そんな悪路をわざわざ行きたがる者などいない。誰も彼もが家へと戻り、店の看板をしまって、温かい暖炉の前へと向かっていく。
そんな日に、もう灯りも消えたパン屋の軒下に、一人の少年がうずくまっていた。伸び放題の髪は雨露を吸って黒く湿っていて、薄い肌着を一枚はおっただけの寒々しい格好だ。服も靴も拾って繕った物なので、所々にほつれや穴があり、左右もばらばらだった。頼りなくわずかな軒下は小さな少年が身を縮めても、地面に吸いこんだ雨までは防いでくれない。じわじわと靴に、尻に、冷たい水が滲みこんでいく。水は徐々に体の下から這いあがってきて、不快感を押しあげ、熱を奪っていった。
どれだけ待ったことだろう。もうすでに、指先の感覚もない。冷たくなった指をしゃぶってみると、微かに小麦粉の味がした。あぁ、もったいない。そう思ってまたしゃぶるが、もう何の味もしない。
『あーしの白パン、もっとゆっくり味わうんだった……』
もうずいぶん前に食べ終わってしまった。滅多にないご馳走だったのに。あまりにやわらかく美味しかったからというのもあるが、それよりも迎えにこられた時、まだ食べていたのかと叱られる事の方が嫌だった。だから急いで食べたのに。
『……まだかな』
あとどれだけ待てばいいだろう。パン屋の店主が出てきて軒下から追いだされるまでには帰ってきてくれたらいいな、と少年は思う。でも今日は寒いから、あの人は誰かに頼んでどこかで暖を取っているかもしれない。そういう日は大抵、少年はどこかの軒下や、家畜小屋や、家と家のすき間なんかを見つけて夜を越さなければならなかった。あの人の仕事の邪魔をしてしまうと、ひどくひどく怒られるのだ。
でも待ってないといけない。あの人が迎えに来たら機嫌が良いかどうかを見定めて、悪ければ客の悪口を聞いて、場合によっては何発か鬱憤を晴らさせてやって、そうして落ち着いた頃にこう言ってやる。
「母さんは悪くないよ」
そうしてようやく、その日の食にありつける。少年は賢く、その事をよく分かっていた。だからまだ、待っていないといけない。迎えが来るまで。
ふいに通りの向こうから、誰かがやってきた。ぬかるんだ道は一歩を進むごとに泥を跳ね上げ、その人の真っ黒なドレスを汚していく。そんな事には気にも留めず、その人は軒下の少年の前まで来て立ち止まり、さしていた傘を傾けて少年の顔をのぞきこんだ。
「ねぇ、あなた」
少年はやってきた人物を見上げる。真っ黒なドレスの上には同じく真っ黒なマントをはおっていて、頭もフードを被っていた。
「いつからここで待ってるの?」
くすんだ空気の下では髪色が薄い事しか分からない。瞳の色もフードの影に沈んで定かでないが、若い女の顔だった。
「親に捨てられたの?」
無遠慮な言葉に少年は女を睨み上げる。でも女の紅を差した唇が上に上がっただけだった。
「可哀想な子」
少年は女を無視し、そっぽを向く。
『……さっさと消えちまえ、魔女め』
少年は心の中でそう念じたが、女は一向にその場を動こうとしなかった。
「私と一緒にいらっしゃいな」
少年はちらりと女を仰ぎ見る。女はまだこちらを見下ろし、笑っていた。
「……母さんを待ってなきゃいけないんだ」
「お前の母さんはお前を迎えになんて来ないわよ」
少年は眉間に皺を寄せ、また女を睨む。
「うるせぇな、ほったけよ!」
そうしてそっぽを向き、自分の膝の間に顔を埋めた。でも女は、その場からぴくりとも動かない。
「いつまで待ってるつもりなの?」
女の声が、ぼとりと地面に落ちてくる。少年はぎゅっと腕に力をこめ、自分の体を抱きしめた。少年はとても賢く、その事についてもよく分かっていた。
本当はもう、待っていても無駄なのだという事を。
「私と一緒にいらっしゃいな」
女は明朗な声で言う。少年は重たく湿った頭を持ち上げ、もう一度女の顔を見た。
氷水の降るくすんだ空の下で、赤い唇が弧を描いている。黒いマントの裾が開いて、細い腕がまっすぐに、こちらへと伸びてきた。
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