きっと誰かが、誰かのヒーロー。
野村絽麻子
私だけのヒーロー
季節外れの雪が降ったある春の日、兄から呼び出された喫茶店は、昔よく家族で来ていた店だった。懐かしい取手の重みに、耳慣れたドアベルの音。落ち着いた風合いのインテリアには、時間の流れが堆積しているようだ。
ドア横の傘立てにビニール傘を立てかける。黒っぽい色合いの無愛想なものと、パステルカラーの抽象模様の傘が先客の物ようだ。見渡すと、店内中程のボックス席に兄は居た。社会人になり、家を出て以来は微妙に久しぶりの顔だ。
「呼び出しなんて珍し……」
不満ついでにこの店名物のシフォンケーキを奢らせようとしていた私の言葉は、途中でふつりと途絶えた。兄の向かいに誰かが座っていたからだ。肩の上で切り揃えられた髪は艶を弾き、さらりと揺れてこちらを見る。前下がりのボブ。白いブラウスの襟が、暖かそうなサーモンピンクのカーディガンから覗く。
何かが、おかしいのでは。
ふと疑問が頭をもたげたけれど、それは遮られた。
「悪いな、こんな天気の日に」
恐縮した兄が忙しなく頭を掻いた。少なからず緊張している時の仕草で、私がそれを認めて笑うよりも一瞬早く、前下がりのボブが唇を弧にしたようだった。春らしい、ややピンクがかったベージュの唇。
「こちら、雪子さん」
「ふふ」
雪子さんは笑ってこちらを見た。
その瞬間、理解した。
「はじめまして、雪子です。たぶん分かると思うけれど、性別は男です」
そう、それ。
私の口は、たぶん開いていただろう。はぁ、とか、へぇ、とか言ったかも知れない。そうだ、肩幅が。妙にバランスが違うと思ったんだ。合点がいった私は席に着こうとしてはたと動きを止める。
「えーと、どっちに座ればいいの?」
「あたしの膝、座る?」
「雪子さん!」
あはは! と楽しそうに笑い出した雪子さんと、少し恥ずかしそうに、でもそれ以上に嬉しげに見える兄。なんだか、とんでもない空間に来てしまったなぁと思った。
運ばれてきたダージリンの湯気が天井に昇りながら渦を描く。添えられた輪切りのレモンを、申し訳程度に紅茶に浸してからカップの向こう側に避ける。
「それでまぁ、とりあえず今年の母さんの誕生日は、俺はパスするわ」
「なるほど」
「あたしは、行ってきたら? って言ったんだけど」
「だって、行ったら行ったでやれ結婚だ、相手は居るのかって話になるだろ?」
「なるほど」
「じゃ、一緒に行く?」
「行ってもいいけど、母さん倒れるだろ」
「なるほど」
「点滴持っていく?」
「問題はそこじゃない」
何度目かの「なるほど」を私が発したあと、兄がグラスに残ったバナナジュースをずずと飲み干して、雪子さんがこちらを見た。
「あたし、看護師なの」
「なるほど」
「伸ちゃんの健康管理はバッチリしてるから、安心してね」
そう言って、伏し目がちにロイヤルミルクティーのカップに口を付ける。
「その、なんだ、雪子さんは俺の命の恩人なんだよ」
咳払いのあと、兄は少し遠い目をした。
いわく、去年の夏に自宅付近の坂道を登っていた時に、熱中症で倒れたらしいのだ。そこを偶然通りかかった雪子さんが助けてくれたということだった。
「あの時は、天使って本当にいるんだなって思ったよ」
「やだぁ、伸ちゃんたら大げさよ!」
肩を「バシン!」と叩く音は鈍いけれど、兄はヘラヘラしている。
兄は、私にとって永らくヒーローであった。
勉強ができるし、運動も得意。跳び箱が上手で、試合に出ればホームランも打つ。リレーはアンカーで、読書感想文は金賞だった。私に意地悪する子がいれば飛んできて「なぜ妹の遥香にそんな事をするのか」と尋ねてくれた。忘れ物は届けてくれたし、門限に遅れそうな時は母をお風呂へと誘導し、玄関の鍵をこっそり開けておいてくれた。兄は優しくて、強くて、正しい人だ。
追加オーダーしたシフォンケーキを食べ終えて、三人揃って店を出るときに、小さな紙片を渡された。見れば、沿線のいくつか先の駅の住所だ。
「引越ししたんだ、実は」
「転がり込んだって言った方が正しいわね」
「そうですけど」
照れ笑いする兄はとても幸せそうだ。
雪子さんがポンと音を立てて傘を開いた。さっきまでの雪はやんで、雨に変わっている。抽象模様に見えたパステルカラーの柄は、色とりどりの大小の魚が泳いでいる絵柄のものだった。雨の中にぼんやりと霞んで見える二人は、一枚の絵の中に帰っていくのだと言われても不思議ではない風情がする。
歩き出した二人の背中に声をかけた。
「雪子さん、」
驚いたような顔が振り返る。
「私、お母さんに話してみるよ」
上手く話せるかわからないけど。でも、そうしたいと思ったから。
雪子さんの傘にいる魚たちは、まるで生き生きと雨の中を泳いでいるように見えた。雨の冷たさを感じさせない姿は、雪子さんにとても良く似ているかも知れない。
「ありがとう、嬉しい! あたし遥香ちゃん大好き!」
そう言って微笑む雪子さんは格別に美しくて、兄が参ってしまうのも無理はないかと、私はなんとなく、腑に落ちてしまったのだった。
きっと誰かが、誰かのヒーロー。 野村絽麻子 @an_and_coffee
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます