第四夜 紅蓮色の夢~身を焦がす蛍~

 それは、刹那せつな邂逅かいこう


 ひと目まみえたその瞬間から、私の世界は色を変えました。


 いえ、白黒どころか、朧気おぼろげだった灰色の世界に、くっきりと輪郭を与え鮮やかな色をした、それほどの変わりようでした。


 あの春の日、お茶のお稽古の帰り道で下駄の鼻緒はなおが切れて難儀なんぎしていた私に、そっと淡い紺地こんじの手拭いを差し出した、貴方あなた

 

 きりりとした切れ長で秀麗しゅうれいな目元を、優しげに細められて。


 鼻緒をすげる横顔は、白皙はくせきの美青年とはこのような方を言うのだろう、とため息をくほど整っており、けれど癖のないぬばたまの黒髪から覗く耳朶じたが健康的な薄紅うすくれないに染まっているのが、その作り物めいた美貌に生気を与えていました。


 赤い鼻緒の、すげ替えた前坪まえつぼだけが、蛍を宿した淡い闇のごとき花色。


 下駄に足を入れさせると、貴方は微笑みだけを私の心に刻んで去っていきました。


 いつか再び逢いまみえたい。


 その祈りが届いたのは、それから二月と十日を少し過ぎた、夏の盛り。


 私の恋の、終わりの日、でした。


 名も知れぬお方への想いでふさぎ込む心を映したかのようにじめじめした梅雨雲も晴れ、それでも滅入っている私をおもんぱかって、妹が早朝のお寺の散策に誘ってきました。


 おまいりが目的ではなく、今が盛りの蓮の花を見ながらお散歩しましょうとのことでした。


 以前、お父さまやお母さまと一緒に蛍狩りにきたこともある、大きな池です。


 朝ならば二人で行ってよいと言われ、夜明けと共に連れ立ってやって来ました。


 朝まだき清々すがすがしい池のほとりで咲き始める薄紅色のはすの花は、仏様の御座みくらを飾るにふさわしい静謐せいひつさでした。


 その中に一際ひときわ濃く色づく花がありました。


「お姉さま、あれを『紅蓮華ぐれんげ』と呼ぶのかしら?」


 妹が、ほお、と感嘆の吐息と共にうっとりと目を細めます。


 赤々とした、けれど夜の暗さを残した明けの空のような深い色合いに、どこか心がざわつきます。


 紅蓮は猛火もうかの色と聞いていましたが、むしろあれは、熾火おきびでしょうか。


 夜闇やあんに浮かび上がる、じんわりと熱を持った炭のように、炎を上げることなく燃える、色。


「あら、お姉さま、あの方って……」


 美しい紅蓮華に目を奪われていた私は、妹に言われてその視線を横に移しました。


 そこには、同じように蓮の花見物に来たらしい若い男女がおりました。


「おはようございます。お久しぶりね。あなたたちも蓮を?」


 私達に気が付いた女性が、近付いてきて声を掛けました。


「姉と、花がしぼむ前にと早起きしましたの。あ、ご結婚おめでとうございます」


 言葉もなく立ち尽くす私に代わって妹が答えました。


「あの……そちらの方が?」


 妹が尋ねると、女性は嬉しそうにはにかみながら答えました。


「ええ。祝言しゅうげんはあちらで行いましたから、皆さまにご紹介もできず……夫ですの」


 男性は、私を見て一瞬考え込むように眉をひそめましたが、すぐに合点がいったように軽くうなづきました。


「はじめまして。……義母ははのお弟子さん、ですか?」


 間違いなく、あの方の声でした。


 いえ、そもそもこの麗しいかんばせを見間違えるはずもありません。


 

「……とても素敵な方でしたわね。それに、お師匠さまも、おめでた続きでお喜びでしょうね」


 紅蓮華を見た時と同じようにため息をいて、妹は二人を笑顔で見送っていました。


 私はその二つの背から目をはがしました。


 今もそのままにしている、赤い鼻緒の、そこだけ青い前坪を見つめ。


「お姉さま? どうなさったの? お顔が真っ青よ?」


 そう気遣う妹の声もわずらわしく、私はどうやって家に帰ったのかも分からぬまま、気が付けば自分の部屋でうずくまっていました。


 幸せそうに微笑みながら膨らんだ腹を労る女を、私は確かに憧れて慕っておりました。


 その伴侶が、あの方でなければ、今も、きっと。


 私など知らぬように微笑んだ、あの方、なのに。



 忘れなければいけない。


 思い切らねばならない。


 

 そう、分かっているのに、押し込めようとすればするほど、息苦しく、胸がけるように熱くなりました。


 夢うつつに、私はあの女の寝床に立っていました。

 

 その白い首筋に、そっと指を這わせました。

 

 このまま、力をこめたら、この女は。


 そうしたら、あの方は。


 刹那、うめき声が聞こえました。


 私の指は、あの方の首に添えられていました。


 私は、そのまま、力をこめ……。


 


 ふと気が付くと、私は自分の部屋にいました。

 

 目の前が紅蓮に染まっているようです。


 いえ、染まるのは、私の、手。


 凍えるような、冷たい手。


 罪深い私は、厳寒げんかん紅蓮ぐれんの地獄に堕ちるのかもしれません。


 寒さのあまり皮膚が裂け、自らの血で全身が紅蓮に染まるという地獄に。


 このまま生きていたら、私は、あの方をあやめてしまうかもしれません。


 生きて、いたら。


 




 そのまま、何日たったことでしょうか。


「お姉さま……少しでも、せめてお水を……」


 生きることを手放した私を、妹が甲斐甲斐しく世話します。


「……蓮なんて、見に行かなければよかった」


 日に日にやつれていく私を抱きしめて、妹が泣きます。


「……あの方を、お好きだったの? いつお会いに?」


 なんで? と目で問いかけた私の頬を妹がさすります。


「お姉さまがずっと気鬱きうつだったのを、きっと恋わずらいだと思っていましたもの」


 大切なお姉さまですもの、と呟いて、妹はますます泣きます。


「お願いだから、逝かないで。あの方の、十分の一でも、百分の一でも、私をいてくれるなら、……私のために、生きてください」


 すっかり力の入らなくなった腕を何とか伸ばして、私の頬に添えられた妹の手に触れます。


 すぐに滑り落ちそうになる手を、妹が掴み、そっと握りなおしました。


 温かな手でした。


 促されるまま、吸い飲みの水を口に含みました。


 真水のはずなのに、甘いそれを、私はゆっくり飲み下しました。


「蛍……」


 目の前を覆っていた赤い闇が晴れて、何かがチカチカとまたたきました。


「蛍の時期は過ぎてしまいましたよ。来年、一緒に蛍狩りをしましょうね」


 妹にうなづき返し、私は大きく吐き出す息と共に、幻の光と共に天に昇っていく私の心の欠片を見送りました。


 胸のうずきはそのままに、けれど私は久しぶりにしっかりと息を吸い込んだように感じました。






 …………………………息苦しさで、目が覚めました。


 深呼吸すると、狂おしくもいとおしい、甘く疼く痛みがよみがえりました。

 つらくせつない、けれど甘美な想いをこめて握りしめた小瓶の中は夕日の余韻を残す夜空のような薄い藍色に染まっていました。

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