僕たるもの沈黙せず

烏目浩輔

第1話

 僕は毎月最終金曜日の夜に生放送する番組のMCを務めている。もうすぐその番組の放送がはじまるため、バターをたっぷり塗った食パンで腹ごしらえ中だ。ひとりきりの控え室に秒針の音だけがカチカチと響いている。


 番組の放送時間は実に三時間に及ぶ。長丁場の番組であるというのに、九十歳近い僕がメインMCを務めている。それが可能なのは日頃から健康に配慮しているからかもしれない。なぜか僕は愛煙家やのんと思われがちだが、実際のところはタバコも酒もやらない。


 そういえば、かつて番組では酒類をパネラーに提供し、愛煙家がいる回では灰皿も用意していた。有識者や著名人が酒やタバコをやりながら、つどのテーマに沿って朝まで討論していたのだ。

 何事にも配慮にかけていた昭和の時代だったからこそ、そんな番組形態でも成り立っていたのかもしれない。


 それをとんでもないと思う一方で、懐かしいという感情も湧き起こる。昭和という時代はい意味でも悪い意味でも大らかだった。

 昨今では昭和を懐かしむだけで老害だと言われ兼ねない。だが、僕は昭和の時代を生きてきたのだから、その時代にあまたの想い出があるのは当然だ。

 酸いも甘いも含めて、いい時代だったと懐かしむくらいは許されたいものだ。


 これから放送がはじまる番組の名は『朝まで生テレビ!』という。おかげさまでそこそこ人気がある深夜の討論番組であり、昭和、平成、令和の三時代をまたぐ長寿番組でもある。はらそういちろうという僕の名が広く周知されたのもこの番組の影響によるものが大きい。各回の討論のテーマは多肢に渡り、これまでに政治、経済、宗教などを扱ってきた。


 今回の討論テーマは『日本国憲法第九条』だ。同憲法は戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認という三つの要素から構成されている。平たく言えば『日本は戦争に参加しない』『日本は軍事力を保持しない』と、憲法によってきっぱりと宣言したのだ。


 これまでにもこの日本国憲法第九条は幾度となくテーマされ、憲法を改正すべきか否か、番組内でそういった討論が行われてきた。

 日本国憲法第九条を改正すれば、日本も軍事力を保持することになる。自国の軍事力で自国を守るということは実質的に戦争への参加だ。それに対する賛成と反対の意見があった。


 改正賛成派の主張をまとめれば以下のようなものだ。

 周辺諸国が軍事力を強化している現在において、日本だけ軍事力不所持を貫くのは時代にそぐわない。戦争に不参加であれば平和という理想論を持たずに、現実を直視して日本の軍事を見直すべきである。

 そのために戦争と軍事力の破棄を公言した日本国憲法第九条を改正しなければならない。


 一方の継改正反対派の主張は以下のようなものになる。

 日本は軍事力を保持しない平和主義国家であるからこそ、現在に至るまで戦争という悲劇に深く介入せずに済んでいる。また日本が軍事力を保持すれば軍拡競争が活発になり、武力衝突の危険が高まる。

 日本は平和主義国家の現状を継続すべきであり、そのために日本国憲法第九条を改正してはならない。


 今回のように討論テーマが『日本国憲法第九条』であるとき、僕はいつもがきたかという男の話を思いだす。


 比垣は十年ほど前にパネラーとして番組によんだノンフィクション作家だ。文学賞には無縁の男だったが、戦争にかんする書籍を多く発表しており、そのいくつかが話題になっていた。当時の彼は四十歳前後だったという記憶している。文体や表現方法はかなり個性的で一癖も二癖もあるのだが、比垣自身は中肉中背のどこにでもいるような特徴のない男だった。


 比垣が出演した回も討論テーマが『日本国憲法第九条』だった。その日の彼はテレビ初出演ということもあって緊張しているようだった。うまく討論に入ってこれずにいたので、僕は適当なところで彼に話を振ってみた。

「あなたはどう? 憲法改正に賛成? それとも反対かな?」

 すると、彼は僕の問いにはっきり答えないまま、こう言って話をはじめたのである。

「僕が小学生のときの話なんですけれど……」


 それは比垣がずっと前に体験したことらしかった。


     *


 当時の比垣は片道二十分ほどかけて小学校に通っていた。


 家と小学校のちょうど中間あたりの位置に、現在ではJRと改名した国鉄の駅があった。その駅前を通れば十分ちょっとで登下校できたのだが、学校が指定する通学路は駅前を大きく迂回していた。

 駅前は高架道路が屋根代わりとなっており、健全とは言い難い店がずらりと並ぶ。風俗店、アダルトグッズ店、パチンコ屋、立ち飲み屋――駅前の治安と風紀を考慮して、学校は児童を迂回させていた。


 小学校に入学してからの以後、比垣は学校の言いつけを守って、駅を迂回して登下校していた。しかし、四年生の夏休み明けを境にして、駅前を通って下校するようになった。わざわざ遠まわりさせられるのが急に納得できなくなったのだ。反抗心という自我が目覚めはじめたからかもしれない。


 そうして比垣ははじめて駅のほうに足を向けた。校則を破るという罪悪感からドキドキもしたしワクワクもした。


 しばらくして到着した駅前はとにかくとっ散らかっていた。軒を連ねる店が掲げているどぎつい色の看板、祭りでもあったかのようにごった返す人々、ガヤガヤと渦を巻いているわいざつな騒音、あたり一帯に薄く漂う小便のような悪臭。

 なにもかもが少しずつ汚らしくて、しかしあやしい魅力を放ってもいる。


 比垣は節操のない駅前に圧倒された。だが、ある男の存在に気づいてからは、その男のことばかりが気になった。


 男は人々が足早に行き交っている歩道の片隅、アスファルトの上に直接ペタリと座っていた。年齢は四十代半ばに思われ、頬まで無精髭に覆われている。がりかりに痩せた身体を包んでいるのは着物にも似た真っ白な服だ。それは色だらけの駅前では反対に目立ち、なにより幽霊のように不気味だった。


 その風貌だけでも比垣の目を惹いたが、男の身体には足りないものがあった。両足とも膝から下が丸ごとなかったのだ。


 比垣は足のない人間をはじめて見た。たぶん、ああいう人を興味津々に見るのはよくない。わかってはいるものの好奇心のほうがまさった。

 だからといって近づいていくのも怖い。少し離れたところから男を観察した。


 男は老人のごとく背中を丸めて座っており、俯き加減のその姿勢のままぴくりとも動かない。ひどく重たい荷物を背負わされて、必死に耐えているようにも見えた。

 また、男の脇には細長いものがふたつ置いてあった。前に置いてあるのはどんぶりらしき食器だ。


 なおも男をじいっと眺めていると、比垣に話しかけてくる声があった。

「なにしてんねん、ちびっ子」

「やー、かわいい」

 声のしたほうに目をやれば、ふたりの若い女が立っている。ひとりは痩身で背が高く、もうひとりは丸顔で小柄だ。体型はまったく異なるものの、共にミニスカートを履いて、真っ赤な口紅を引いていた。


 当時の比垣はふたりに派手な女という印象しか持たなかった。だが、今になって思うと、立ちんぼの女だったのだろう。立ちんぼとは身体を売る目的で街角に立っている女のことだ。

 その駅前では昼間からそういうことが盛んに行われていた。


「ここはちびっ子がいるところちゃうで」

 関西弁を話す痩身の女に続いて、丸顔が甘ったるい声で言った。

「もしかして迷子になっちゃったのお?」

 比垣は女たちに下校中だと告げた。

 女たちはやけに人懐っこくて、比垣にあれこれ話かけてきた。 

「何年生や?」

「好きな子とかいるのお?」

「早よ帰らんの親に怒られるで」

「将来、男前になりそうねえ」


 そのうち両足のない男についても話をした。

「あの人はお金を恵んでもらってるねん。しょうぐんじんやからな」

「傷痍軍人はね、戦争で怪我した人のことよ」


 そのときはよく理解できなかったが、何年かあとに仔細を知る機会があった。

 しょうぐんじんとは戦争などによって後遺症が残るような大怪我を負った軍人のことだった。後遺症の程度や箇所は個々によって異なるが、比垣が目撃したような手足を失った傷痍軍人は、社会復帰が困難であるため生活がひどく困窮する。

 生きていくには皆からの恩恵を受けるしかすべはなく、人通りの多いところに出向いて寄付を募る。ようするに物乞いだ。


 また、身につけている真っ白な服は患者衣というものらしかった。怪我を負った軍人が病院で滞在しているさいに着る服だという。傷痍軍人であることをアピールする目的で患者衣を身につけている。


みつさんはな――」

 どうやら男の名前は三井というらしい。

「爆撃で両足をやられたんや。ほら、見てみ。あれは義足や」

 痩身にそう言われてはじめて気がついた。三井という男の横に置いてあるふたつの細長いもの、いったいなにかと思っていたが義足のようだ。

 比垣はその義足がロボットの足のようで格好良く見えた。


 そのとき、そばのパチンコ店から初老の男が出てきた。男は早足で歩きながら三井の前に置いてあるどんぶりに、ゴミを捨てるようになにかを投げ入れた。それまでまったく動かなかった三井が、男に向かって深々と頭をさげた。歩き去っていく男の背中にも二度三度と頭をさげた。

 どんぶりに投げ入れらたのはおそらく小銭だったのだろう。





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