ヒーローの妻

維 黎

第1話

 トントントンと包丁がリズミカルにまな板を叩く音というのは耳に心地よい。

 そんな風に思いつつ、燈子とうこは壁掛け時計をチラリと見る。

 07:10。

 夫が起きてくる時間まであと5分。

 刻み終えた万能ネギを元はキムチが入っていたプラスチックの容器に入れる。蓋がついていて便利なのでまで洗って再利用。ちょっとした物を入れるのに便利。

 

 すでにお弁当と朝食の用意は出来ている。

 朝起きると夫はまずキッチンに顔を出して「おはよう」の挨拶をしてから、洗面所で歯磨きと洗顔をするのが日常。その間に料理を盛り付けるようにしている。

 今朝の献立は鮭の塩焼きに千切りキャベツとレタス、目玉焼きに豆腐とワカメのお味噌汁。お味噌汁は具材がシンプルなのと、ネギは刻みたてを食べる直前に入れるのが夫の好み。


 もうすぐ起きてくる時間だがちょっとだけ手持ちが空いたので、今のうちにお弁当を風呂敷で包んでおこうかしら――と思った矢先。

 ドタドタと慌ただしい足音と共に勢いよくキッチンの扉が開く。


「ごめん、忘れてたッ! 今日、早めに出勤しないといけないんだった! 顔を洗って準備したらすぐ出るよッ! ごめんな!」


 早口でそう告げると扉を閉める時間も惜しいとばかりに、くるりと背を向け洗面所へ。

 燈子は心の中で「せっかく朝ごはん用意したのに」と呟く。

 今日の鮭は色艶よく、オレンジ色に輝いているみたいに上手く焼けたのに。

 とはいえ、夫の慌てた様子からかなり切羽詰まっていると思えるので口にはしない。

 すばやく頭を切り替える。


 小さな小鉢に水を少し入れて傍らには食卓塩。

 炊飯器の蓋を開けて熱々のごはんを握る為に「よしッ」と気合を入れる。

 掌を水で軽く濡らし塩を適量ふると、ためらうことなく熱々ごはんをしゃもじですくって握る。シンプルに塩むすびを一つ。あの慌てようからすれば、二つは食べてくれないだろう。


 N県の山間に位置するY村役場に勤める夫は朝8時前に家を出る。役場まで車でだいたい20分弱。

 8時半に朝礼が始まり、8時45分には開庁して業務開始というのが日頃だが、今日は特別に8時には登庁しておかなければならなかったらしい。


「それじゃぁ、行ってくるよ」

辰吉たつよしさん、!?」


 夫の姿に少しの驚きをもって訊ねる。

 キッチンに入って来たのは、首から下を緑の全身タイツに身を包んだ夫。

 袖口に銀色の帯が巻かれた白の手袋。両足もふくらはぎ辺りに銀の帯が巻かれたブーツのように見えるが、そこはタイツと一体化していた。胸元にはこれまた銀字で"Y"のマーク。


「うん。ちょっと恥ずかしいけど役場で時間はないと思うんでこのまま行くよ。まぁ、車だし問題ないさ」


 若干、頬を染めつつ妻の問いに答える夫。

 生活環境課に勤める夫は時々ヒーロー活動をしている。伊達や酔狂ではなくもちろん仕事として。


 "可燃の戦士カネンレッド"

 "不燃の戦士フネンブルー"

 "ECOの戦士エコグリーン"


 環境戦隊クリーンジャーとして近隣の会社や学校、幼保育園にゴミの分別の指導や村の環境向上の為の広報活動などを定期で行っているのだ。

 今日は村に一つだけある全校生徒40人ほどの小学校へすることになっていたのだが、ちょっとした演技アトラクション付きの活動予定なので、事前に役場で最終チェックも兼ねた通し稽古を予定していたのだ。

 

「辰吉さん、おむすび握ったから一つ食べて行って。それと――はい、お弁当」 

「――ありがふぉ」


 行儀が悪いが玄関の戸口で立ったままおにぎりを頬張る。


「ん――。それじゃぁ、行ってくるよ」

「はい。いってらっしゃい。気を付けて」


 夫の姿が見えなくなるのとほぼ同時に玄関のドアが閉まる音。夫を見送った燈子は一つ息吐く。


「――今朝、報告するつもりだったのに云えなかったな」


 自らの下腹部を見下ろして優しく、愛おしく撫でさする。

 結婚して三年。


「今まで辰吉さんは私を守ってくれる私だけのヒーローだったけど……。 これからは家族わたしたちのヒーローになるんだよ」


 夫が帰って来るまで我慢出来なくて。今朝伝えたかった事を玄関に残る緑色の背中の残影に向けて燈子は語りかけた――。



                    ――了――

 

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ヒーローの妻 維 黎 @yuirei

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