第10話 玉子焼きと相棒
「夕陽が海で眠る…か」
男はその綺麗な表現を思わず口ずさんだ。
背後から夕陽に照らされた緑の小山が水面にくっきりと映し出され、
その後ろから夕陽が顔を覗かせ、恥じらうかのように丸い顔を水面の下に潜らせていた。
次第に辺りは静寂さを含む暗闇の帳がスローモーションのようにじわじわと舞い降り、西空の夕陽が小山の裏に姿を沈めると同時に水面に映る夕陽も海底に沈むよう消えて行った。
男は暫し橙色が消えゆく水面を眺めていたが、ふと、斜め後ろに佇む視線を感じ、振り返った。
「綺麗でしたね。」と
恰も男が振り返るのを待っていたかのように女が口を開いた。
男は暗闇の帳に覆われそれと同化しつつある黒いジャンバーの女を区分けしよと見つめた。
すると女が無用となったサングラスを外した。
黒い大きな瞳は暗闇の帳に同化することなく、辺りに残された僅かの光さえ吸収したかのように輝いていた。
男は女の瞳に魅入ってしまった。
すると、女の瞳は男の視線を逸らし、その下の指先辺りを捉えているよう男には感じられた。
男が自分の指先を見遣ると「玉子焼き」がそこにはあった。
「玉子焼き、久々、見ました。」と女が笑いながら言った。
男はその突拍子もない一言に動揺し、
「これ?」と女に確認するよう指に摘んだ玉子焼きをまじまじと見つめ直した。
「塩味ですか?砂糖ですか?」と
女が問うた。
「塩ですよ。食べてみますか?」と男は会話の流れを忠実に把握し、サランラップに包んだ玉子焼きを女の前に差し出した。
「何か催促したみたい。」と女は言いながらも、手袋を外し、玉子焼きに指を伸ばした。
女は玉子焼きを食べると、
「美味しいですね。お世辞抜きです。美味しいです!」と
黒く輝く瞳をなお一層大きく輝かせながらそう言った。
「そうですか。気に入ったら、どんどん食べてください。」と男は言い、女と男の間のコンクリートの床に玉子焼きを包んだサランラップを置いた。
「良いんですか?」と女は遠慮しながらも、もう一切れ玉子焼きを摘み、口に入れた。
男は和かに笑いながら、「どうぞ」と言うと、
杖を支えにゆっくりと立ち上がり、暗闇の帳がすっかり沈み込んだ水面にキャスティングをした。
女は玉子焼きを食べながら、男の釣る様子を見ていた。
男は北東の空を見遣った。
いつの間にか「無用の月」が薄らと輝いていた。
男はリールを巻き、餌木を海中から弾むように抜き、右手でキャッチすると、今まで使っていた赤色の虎模様のものから青色の鰯模様のものと交換した。
そして、昨日2キロの大物を釣り上げた同じポイントにキャスティングをし、餌木をゆっくりと海底に沈めた。
女は沈黙を守り、じっと男のやり取りを眺めていた。
男は無闇にしゃくる事なく、キャスティングをし、そっと餌木を沈める動作を繰り返した。
4回目の時であった。
竿先から出る道糸が「ギューン」と唸り、道糸がパンパンに張った。
男は竿をゆっくりゆっくり立たせながら、右手指先で竿元の道糸を少し引いてみた。
その瞬間、
竿先が弓なりとなり海に引っ張られた。
「来た!」と男は叫び、
大きく竿をしゃくり、ガッチリと合わせた。
女は急いで男の足元にある玉網を掴み、男の隣にスタンバイした。
男はリールを巻いてみた。
昨日とは違い「ギリギリ」と音を立てながらもリールは巻けた。
男は身体を反り返し、竿を立てた。
「バシャ、バシャ」と薄暗い水面に音が生成された。
男は女が掬いやすそうな位置まで騒々しく真っ黒な水面の円を引き寄せた。
すると、「プシュー、プシュー」と真っ黒な水面に潮が吹かれた。
モイカが浮かんだ来た。
真っ黒な水面の中で怒り狂って潮を吹き、尚も抵抗するよう海底に潜り込もうと暴れていた。
男は竿を立てながら、決して糸を緩めることなく、モイカを水面に浮かせ、ゆっくりと泳がせるよう引き寄せた。
「分かるか?テトラの前で掬え!」と男が女に叫んだ。
女は中腰で玉網竿を持ち、網を水面に突き刺すよう入れ込んだ。
男は女の入れ込んだ網を目掛けて、モイカを泳がせた。
「入った!」と女が叫び、玉網竿をゆっくりと納竿しながら網を上げた。
「大きい!」と
女が歓喜の叫びを上げ、網を持ち上げた。
「ありがとう!助かったよ!」と女に感謝しながら、男は網の中で横たわるモイカから餌木を外した。
大きなモイカであった。
昨日の2キロとはいかないが、キロ級の大物であった。
男はロープバケツで内海から海水を掬い、その中にモイカを突っ込み、残りの墨を吐かせた。
女はジャンバーのポケットから懐中ライトを取り出し、バケツの中のモイカをまじまじと観察していた。
男はまた同じポイントにキャスティングをし出した。
女はキャスティングをする事なく男の釣り方を学ぶかのように、それを真剣に見ていた。
そして、モイカが掛かると女は玉網を持ち、モイカを掬った。
北東の月が真上の北に鎮座した。
時刻は午前2時、満潮時刻であった。
防波堤の白灯台の灯りは月光に遠慮し、周りを照らすことを諦め、自己の存在だけをアピールするかのように灯っていた。
女はまだ居た。
男は女を心配し、そろそろ帰った方が良いのではと促すのであったが、
「良いんです!邪魔でなければ居させてください。」と女は頑なに帰ろうとはしなかった。
男にとっても女は邪魔であるどころか、出来れば一緒に居て欲しいと思っていた。
モイカを掬ってくれるということだけではなく、
何か特別な存在のように思えていた。
特別な存在
それは恋心とかそう言う類のものではなく、自然な一体感と言うべきものであった。
三月中旬でもまだまだ寒い日本海の寂れた漁村の防波堤の上に時を偶然とし居合わせた存在
決して計画的でも何かに強いられたものでもない偶然という事実
そのことが男の潜在的な渇望を満たしていた。
これまでの役所勤めの30年間
嫌々ながら付き合っていた人間関係
組織的な年中行事
計画的で形式的な行動規範
男はこのようなお役所的な心の通わない形骸的な行動が大嫌いであった。
今は違う。
偶然が必然に進化したように、傍に居る女の存在は運命的な「相棒」のように頼もしかった。
午前2時半
男は納竿した。
この日の釣果は10杯で全てキロ前後の大物ばかりであった。
男と女は静寂の帳が落ちた漁港を囁くように会話しながら歩いていた。
「何で釣れるのかなぁ~、私、全然、釣れないのに…」
「今は釣れなくて当たり前だよ。シーズンが終わってるから」
「でも、師匠、こんなに釣ってるもん!」
「師匠?」
「うん、今日から貴方は私の師匠なの!良いでしょ?」
「それは構わないけど…」
「良かった!師匠、脚が悪いんでしょ?道具、私が運ぶからね!」
「良いよ!それより、モイカ、半分、持って帰りなよ!」
「良いんですか!やったぁ!
私、釣りの釣果、Instagramに投稿してるんです。
私が釣ったことにしても良いですか?」
「構わないよ!」
「ありがとう!師匠!」
男は女の車まで行くと、女のクーラーボックスにモイカを半分入れようとしたが、女のクーラーボックスは小さく、二、三杯しか入らなかった。
「大丈夫です!これで十分です!」
そう言うと女は運転席に乗り、エンジンを掛けて、そして、窓を降ろした。
「気をつけて!」と男が女に声をかけた。
「はい!また、来ます!」と言い、女は窓を閉め、車を発進させた。
「京都ナンバーか?それなら、遠くじゃないな。」
男は女が隣接する京都であることから遠距離運転にはならないことに安心した。
「あっ、名前聞くの忘れてたな…」と
男は女の車を見送りながら呟いた。
女の車が無事、漁村の坂道から国道162号線に合流し、西の小浜市の方へ進んで行った。
それを見遣り終えると男はバラック小屋に戻りながら、
「名前か…、俺は師匠で良いけど、俺は彼女を何て呼べば良いんだろう…」と思いながら、
「そうだ!『相棒』と呼ぶか!」と案が閃き、自分に納得するよう小屋へと歩いて行った。
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