第6話 船泊りの人影
雪は本降りとなり、2日間降り続いた。
バラック小屋の中は平均燃焼を持続させるブルーバーナーが音も立てず静寂の内に暖気を放っており、その上のやかんの蓋が水蒸気に押し上げられ、時折、「カタカタ」と辛抱出来ずに戦慄いていた。
バラック小屋の外からは何も聞こえてこない。
波の音も風の音も何も聞こえてこない。
男は吉田に言われたとおり、ブルーバーナーの側に陣取り、音声を消したテレビを付け、災害用チャンネルの大雪警報画面を設定し、飽きる事なく、衛星画像で雲の動きを見続けていた。
そして、
「そろそろかな?」と言い、
土間玄関の引戸を開け、玄関前だけ雪かきを行った。
福井県小浜市に大雪警報が発令された際に、雪国の暮らしが初めての男を心配した吉田から電話があり、
「玄関の引戸が開かなくなったらあかんので、3時間おきに玄関前だけ雪かきするように」と言われていた。
雪国素人の男は忠実に吉田の助言を守った。
いや、忠実にやらねば、本当に危ないと思った。
音を立てぬ白い悪魔は、天空に居座り微動だにしないドス黒く分厚く「もくもく」と脳味噌のような形をした雲々から深々と降り注ぐ。
そして、意地悪く、温情もなく、恰も約束事であるかのように1時間で10cmは積み上がる。
半日でも雪かきを怠れば、確実に小屋からの逃げ口は封鎖されてしまうのだ。
男は昼も夜もこの作業を繰り返した。
食料も乏しかったが、それよりも、男はショート・ホープが切れたのが辛かった。
ヘビースモーカーの男は1日60本は吸うが、まさか、外に出られなくなるとは思ってもいなかったため、ショート・ホープの買い置きをしていなかった。
2日目の朝には在庫を吸い尽くした男は、仕方なく、シケモクに爪楊枝を刺しながらニコチンを吸収した。
2日目の夜
急にバラック小屋が「ガダガタ」と揺れ出した。
男はそっと玄関引戸を開け、外に出てみた。
雪は止み、代わりに風が吹いていた。
「動いた!」と
男は思わず叫んだ。
上空の悪魔の塊が移動を開始していた。
そして、流れる雪雲の合間に月が見え隠れしていた。
月光を浴びた雪雲共は、散々白い小便を垂らし続け、清々したように、すっかり薄く身軽くなり、風に乗って悠々と流れていた。
男は小屋に戻り、引戸を閉め、テレビを見ると、大雪警報解除のテロップが画面上部を流れていた。
男は2日間、握りしめていたシャベルを土間に放り投げると、久方ぶりに寝室に行き、布団に入った。
「トントントン」と玄関の方から風とは異なる音が響いた。
男は「はっ」と目を覚まし、布団から抜け出すと急いで土間に行き、引戸を開けた。
「おぉ、生きとったか!」と
吉田が笑いながら声を掛け、男の肩をポンポンと叩いた。
そして、吉田は、
「これ、使いなはれ!」と
男にタイヤチェーンを手渡し、
「あんた、ノーマルタイヤやろ?チェーン巻かんと漁村の坂道は登れんよ!」と言い、小屋に入ることなく帰って行った。
男は急いで雪を被った車に乗り込み、エンジンを掛けた。
車は頼もしくエンジンを稼働させた。
チェーンを巻き終えた男は、作業着ジャンバーを着込み、財布だけ握り、コンビニへ向かった。
何よりも先にショート・ホープを仕入れたかった。
チェーンを巻いた車の前輪は漁村坂道を何なく登り切り、県道162号線に降り立った。
男は積雪の全く無い県道162号線を走りながら、主要道路を夜のうちに除雪し切っている雪国の人々に尊敬の念を抱いた。
一先ず無用となったチェーンを道路に「ガーガー」と擦り付けながら、車は西へと向かった。
右手に見える海は、また、大人しく「さざなみ」を立て、微笑んでいた。
20分程で車は小浜市の中心部に入り、右手の景色も若狭湾から小浜湾へと変わった。
男は最初に見つけたコンビニに車を止め、ショート・ホープを1カートン買い、そして、コンビニ銀行で2万円引き出した。
これで主たる用件を終えた男は、バラック小屋のある阿能の方へ引き返した。
帰りしな男は、道沿いに見えた「吉田釣具店」に立ち寄った。
男は、この釣具店もあの吉田の関連店かと思いつつ、店に入って行った。
店は右側に釣り具用品、正面は鮮魚コーナー、左側は養殖牡蠣の生簀が設置されていた。
店の中には中年の女店主が、牡蠣殻を砕いている最中であった。
女店主は男に気付かず、牡蠣殻を砕いてはホースで貝殻を流していた。
男は鮮魚コーナーの魚に目を遣った。
籠に手の平大のカレイが並び、その奥にはガシラ、鯖フグが小山のように籠に盛られていた。
女店主はやっと男に気付き、
「いらっしゃい!」と和かに声を掛けた。
そして、男が止めた車のナンバープレートを一目見て、
「あんた、阿能のバラック小屋に居る人やん!」と
笑いながら大きな声を上げた。
「まぁ~、こんな寒い所に、九州は暖かいのとちゃぁうん!」と首を捻りながら、男に話しかけた。
男は籠に乗ったカレイを見ながら、こう問うた。
「今、カレイは釣れてるんですか?」と
女店主は急に声色のトーンを下げ、
「全く釣れんよ。これは、沖の底曳で取れたもんや。
今年は大雪やろ!
山から雪水がどんどん流れ込んで来るさかい、いつもの年よりも海水が低くて、全く魚は居ないわ!」と嘆いた。
「じゃあ、鯵や鰯なんかも湾内には居ないんですか?」
「全く居ないわ!
磯に渡るお客さんも魚影が無いと言ってたわ。
どうも、地磯の根(底)の方で固まっているんとちゃぁうかなぁ?
どんなに餌撒いても上がって来ないと言っとたわ!」
「モイカも無理ですかね?」
「モイカ?、あっ、アオリイカやね、豆鯵が岸に来ないさかい、イカも難しいとちゃぁう?」
「そうですか。」と男はポツリと呟き、女店主にカレイ一籠を頼んだ。
カレイの値段は一匹350円、籠には2匹載っていた。
男は女店主に千円札を渡そうとしたが、
女店主は、
「あんた、一人やろ、漁師になりたいんやろ?
脚、悪いんやろ?
うちの人が心配していたわ!」と言いながら、にっこり笑い、
金を受け取ることなく、袋に詰めたカレイを男に手渡した。
男はやはり吉田の店かと合点し、女店主にお礼を言い、店を出た。
男はバラック小屋のある阿能へと東に向かいながらも、所々、積雪の無い防波堤が見えると車を止めて、竿を投げるポイントを見定めた。
当然、どの防波堤も無人であった。
北東の空に無用の「月」が浮かぶ昼過ぎ、
男はバラック小屋のある漁村に帰り着いた。
男はカレイの入った袋とショート・ホープ1カートンを小脇に抱え、車を降りた。
すると、
漁村の船泊りに人影が見えた。
その人影は、この地域の者ではないことが一目で分かった。
その後ろ姿は、黒いダウンジャンバーとタイトなジーンズにスニーカーといった出立ちで、腰にはオシャレなウエストバッグを巻いていた。
そして、頭にキャップを被り、襟首から長い髪の毛が風にそよいでいた。
若い女性のように見受けられた。
その女性は、船泊りの船の隙間を狙いロッドを振っていた。
男はおそらくエギングに来た釣り人だと思い、その動作を暫し観察していた。
釣り人は5分ぐらいロッドを振っていたが、足元に置いた小型クーラに手を伸ばし、場所を移ろうとしていた。
その時、
釣り人が男の方を振り向いた。
釣り人と男の距離は30mぐらいであった。
釣り人は黒いサングラスを掛けていたが、口元から白い歯が覗いて見えた。
「ここ?、釣りをしても構わないですよねぇー」と
釣り人が男に声を掛けて来た。
男は思わず吉田の言葉を伝えた。
「この辺は無法地帯ですから!」と
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