第5話 金を考えたら元の木阿弥
「明日は再び西高東低の気圧配置となり、日本海側を中心に寒気が流れ込んで来るでしょう。
そのため、北陸地方では2mを超える積雪が予想されます。
不要不急の外出は極力控えてください。」
男はブルーバーナーの上に鍋を置き、湯を沸かしながら、夕刻時間帯の天気予報に耳を傾けていた。
「明日は家の整理でもするか。」
と男は独り言を呟きながら、沸いた鍋のお湯をせっせと浴槽に運んだ。
バラック小屋の風呂釜は、一応、ガス用の自動湯沸器ではあったが、今の男にとってガス代は家計予算外の支出であり、ましてや一人暮らし、そのために風呂を沸かす気など毛頭なかった。
よって、バラック小屋内における生活基盤の中心は、ブルーバーナーであった。
風呂のお湯は勿論、1日1食の食事もブルーバーナーの上で煮込む鍋料理であった。
部屋の中の暖気もブルーバーナーの火力により保たれていた。
その燃料である灯油は、18ℓの灯油缶を2つ常備し、費用は2缶で4000円であった。
男は5回、鍋のお湯を浴槽に運び入れ、水道蛇口を捻り、目検討で水を足した。
そして、浴槽に腕を浸し、ぬるからず、低からずの塩梅で蛇口を閉め、急いで服を脱ぎ、悪い方の右脚から湯に浸かった。
湯量は左脚を浸しても膝の位置までも届かず、男は立ったまま、桶で足下のお湯を掬い、頭から被ると、石鹸で頭のてっぺんから足先まで、急いで磨き、再度、頭からお湯を被ると、身体が冷え切らないうちに浴槽から抜け出し、ブルーバーナーで身体を乾かした。
そして、男は服を着込み、汚れた下着などを浴槽に投げ込み、石鹸が浮かぶ残り湯で洗濯した。
洗い終えた洗濯物はブルーバーナーを囲む柵に掛けて乾かした。
男は湯気が立つ洗濯物を見ながら、ブルーバーナーの上の鍋蓋を開け、豆腐を一丁入れ、そして、適当に酒と味醂と醤油を足し、塩で味を落ち着かせた。
今日の食事も昨日に続き湯豆腐であった。
鍋が煮えたぎると男はキャンプ用の折り畳み椅子をブルーバーナーに近づけて設置し、それに座り、豆腐を小皿に掬い、食べ始めた。
足下には「いいちこ」の焼酎1.8ℓの紙パックを据えて、それを湯呑みに注ぎ、生のままで飲んだ。
男は「ゴーゴー」と頼もしく燃えたぎるブルーバーナーの芯を見ながら、2日目も何とか生き延びた安堵感に駆られた。
しかし、足下の「いいちこ」を掴み持ち上げると「チャプ、チャプ」と中身が揺れる音がし、1.8ℓの紙パックがとても軽く感じられた。
男は2杯目を慎重に湯呑みに注ぎ、溢さぬように湯呑みを握り直し、明日は焼酎を買い足す必要があると思いながら、今一番やりたくなかった金の計算を仕方なく始め出した。
退職金は2000万円を少し超えていた。
娘に費やした教育ローン、それと住宅ローンで退職金の半分の行き先は決まっていた。
残り半分の1000万円は妻に渡した。
男の手持ちは、その端数の197万円であった。
財布に7万円を入れ込み、残り190万円は郵貯に預けた。
財布の中身には、既に福沢諭吉の姿はなかった。
「何とか辛抱しなければならない。
何としても船を買わないと…」と呟き、
男は言うことを聞かない右脚を右手で叩いた。
このまま、虎の子の資金が生活費で消費されて行くのが辛かった。
次の日
朝から騒がしくバラック小屋のトタン板が「パチパチ」と鳴り響いていた。
外を見なくても雹が降っているのは火を見るよりも明らかであった。
男はブルーバーナーを点灯させ、荷物の整理を始めた。
荷物の整理と言っても、夜逃げ同然の小荷物であった。
冷蔵庫兼保存庫の90ℓのクーラーボックスには、滋賀で買い込んだ食料が詰まっていた。
豆腐、卵、もやし、ネギ、白菜、大根、縮緬雑魚、パックご飯、インスタント麺、醤油、味醂、調理酒…
自ずと献立が決まる品揃えであった。
男は冷凍保存が不要なインスタント類をクーラーボックスから取り出し、生活の拠点であるブルーバーナーの側に置き直した。
そして、キャンプ用の椅子を立て、寝室の和室にLEDの照明を取り付けた。
唯一、近代的な家電である電子レンジは土間の炊事場付近に据え置いた。
衣類はキャリーバックに有るだけ詰め込んでいた。
男はキャリーバックのジッパーを下ろし、横向きに寝かせ、当分の間、それを衣類入れにすることにした。
図書と書かれた段ボール2箱は開けることもなくそのまま、照明が付かない奥の間に追いやった。
土間には初日に開けた食器類の入った段ボール箱が中途半端に口を開いていたが、それらを整理する必要性は全くもってないと思い、そのままにした。
男は裏口から納屋に横付けにした車に向かった。
納屋に通ずるとたん板の引戸を開くと、霰が「パラパラ」と部屋に入り込んで来た。
吹雪は雹から霰に変わり、次第に本降りの大雪になる様相が見て取れた。
男は車の用事を必要最小限に絞ることとし、後部座席から竿ケースと小道具箱、そして、厚手の作業用ジャンバー、皮ジャンを抱くように掴み、急いで部屋に戻った。
ジャンバー類はハンガーに掛け、雨戸の閉まった南窓のレールにカーテン代わりに吊るした。
そして、今の男にとって何よりも重要である竿ケースと小道具箱を抱え、根拠地であるブルーバーナーがある土間の階段に腰を下ろした。
男は竿ケースを開き、中にある竿3本を取り出した。
そして、竿ケースのフロントポケットのジッパーを下ろした。
中にはルアー、餌木が詰まっていた。
男はルアーはそのままにし、餌木だけを取り出した。
餌木は全部で10本余り入っていた。
男は餌木一つ一つを丁寧に雑巾で磨き、あられ菓子のブリキの銀箱から薬類を取り除き、代わりに餌木を並べ入れた。
次に男は竿の手入れに入った。
昨日使った4000型スピニングリールの装着された5.3mの4号竿、2本目は4.5mの2号竿、3本目は3.6mのシーバスロットであった。
男は、何となく、空のはずの竿ケースを持ち上げてみた。
すると、竿ケースはケースそのものの重さよりも余分の重さが感じ取れた。
「やった!」
男は久々、喜びの言葉を発した。
竿ケースの底には、銀色に輝く3000型スピニングリールが転がっていた。
これは、男が最後に買ったリールであった。
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特に道糸も高級釣糸シーガーの4号を巻き、更に先端50mはブラックシーガーを仕様している。
モイカ釣り専用に仕様仕立てしたリールであった。
男は早速、シーバスロットに装着してみた。
「雪が止んだら、やってみるか!」
男は部屋の整理も忘れ、モイカ狙いのエギングの準備に夢中になっていった。
そして、こう思った。
「好きな事をするために、ここに来たんだ!
金を考えたら元の木阿弥だ!
何とかなるさ!」と
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