第3話 用無しの月
次の日、男は市役所に行き、住民登録をし、新たな住民票を片手に漁協に向かった。
男が向かう漁協は「小浜市田烏漁業協同組合」であり、男のバラック小屋から東に一山越えた漁港に位置していた。
その日は昨日の吹雪が嘘のように止み、海も冬の日本海としては比較的穏やかに凪いていた。
田烏の漁港は、久々の凪のせいか、船泊りに停泊中の漁船は殆ど無かった。
男は漁港の奥にある古びたビルの前に車を停めた。
このビルが漁協であった。
四角い3階建のビルで1階の事務室には人の気配があった。
男は片扉の玄関を入った。
事務室には2、3人の職員がそれぞれの持ち場の席に座っていた。
男は受付らしきカウンターに行き、事務室内を見遣った。
すると、事務室の奥の席に居た高齢の職員が徐に立ち上がり、男に近寄り、こう言った。
「福永さんですね。住民登録は済みなはったか?」と
男は片手に握った住民票を差し出した。
高齢の職員は眼鏡を額に追いやり、住民票に顔を近づけ、食い入るように見出した。
「あんた、阿能の空き家に住むん?
へぇー、それはそれは!」と
高齢の職員は、嬉しいのか、呆れたのか、どちらか分からぬよう関心を示した。
男はポケットから2万円裸銭をカウンターの上に置いた。
高齢の職員は、その2万円を拾い上げ、こう言った。
「あんた、ほんま、漁師なるんかい?
なかなか、仕事はないでぇ。」と
男は何も言わず立ち尽くしていた。
高齢の職員が男を事務室の中の客室用のソファーに案内した。
男は狭いスペースの事務室内を器用に杖を突きながらソファーまで進んだ。
「あんた、脚、悪いやん!」と
高齢の職員が杖を支えにソファーにゆっくりと腰を落とす男を見ながら、声を上げた。
「大丈夫です。」と男は一言、答えた。
「そりゃ、無理やでぇ!
あんた、公務員しよったんやろう?
素人で脚が悪いとなりゃ、そりゃ、無理、無理!」と
高齢の職員が男に早々とお引き取りを願うよう顔の前で手刀を何度も振った。
男は何も言わず、相手に言いたいだけ言わせるよう、ちゃんと前を見据えてた。
高齢の職員は、男が頑なであることを何となく察したのか、男から一旦、目を逸らし、若い女性の事務員にお茶を出すよう指示をした。
男は黙っていた。
高齢の職員は仕切りに貧乏ゆすりを始め出した。
やっと、若い事務員がお茶を持って来た。
高齢の職員は、その若い事務員に助け舟を求めるよう、こう言った。
「洋子ちゃん、こん人、漁師、やりたいやって!
脚、悪いのになぁ!
無理やでぇ~。
なぁ、そう思わんかい?」と
若い事務員は、要らぬ口を挟むことなく2人の前にそっとお茶を出し、早々と退散して行った。
高齢の職員は、やはり、この脚の悪い素人さんを相手にするのは自分の仕事かと諦め、先ずは男に茶を勧めた。
男は茶ぶたを外し、一口飲んだ。
高齢の職員は、一呼吸置いて、今度は真面目に男に対応するよう、こう言った。
「福永さん。いやぁね、ほんまはこっちも助かるんですわ。
この漁協も高齢化が進んでましてな。
平均年齢も70歳を超えてます。
福永さんはまだ50代!
ここに来れば若者のようなもんです。
ただ…、
ただ、コ○ナ禍の影響で魚が売れんようなりましてな。
漁師の稼ぎもガタンと落ちました。
それまでは、この地方の特産のトラフグやヒラメ、ブリ、アコウといった高級魚を旅館に卸せば、良い値が付いたもんでしたが…
そんな訳で、この地域も苦しい状況にあることを分かってもらいたい。
そして、福永さん、その脚じゃぁ、漁師の仕事は無理です。
それだけは、はっきり言っときます。」と
男は高齢の職員から目を逸らさず聞き終えるとこう言った。
「分かりました。脚を治してから仕事は探します。」と
高齢の職員は、うんうんと頷きながら、受け取った2万円を男に返そうとした。
すると、男は金を受け取ることなく、こう言った。
「漁協には入会します。」と
高齢の職員は驚き、こう問うた。
「いや、福永さん、脚が治ってから入会しましょう。そうしましょうよ!」と
男はこう言った。
「入会しときます。それと、中古の安い船があったら紹介してください。」と
高齢の職員は呆れ顔でこう問うた。
「あんた、船の免許、持ってないんでしょ?
脚が治って、免許取って、それから、船、探しましょう?
そん時は協力しますから。」と
男は茶ぶたを被せながら、こう言った。
「兎に角、入会しときます。漁業権を持ちたいんです。」と
高齢の職員は諦めた。
「分かりました。そこまでの覚悟があるんやったら、此方も歓迎しますわ。
定置網の仕事や養殖業の餌やりの仕事なら有りますので、脚が良くなったら言ってください。」と
そして、高齢の職員は自分の机に行き、引き出しを開け、書類に記入し、それに判子を押し、既に事務室カウンターの外に居る男に「入会書兼領収書」を渡した。
男は高齢の職員に礼を言い、事務室を出た。
男は車に乗り込むと、ショート・ホープに火を付け、紫煙を吐きながら、こう思った。
「定置網?、養殖の餌やり?
クソッタレ、舐めやがって!」と
そして、言うことを聞かない右脚を恨めしく見遣った。
男は船を持ちたかった。
そして、一人で海に出て、一本釣りをしたいと思っていた。
組織的な仕事はうんざりだった。
孤独でも良い、一人の力で海を相手に生きて行きたいと思っていた。
男は子供の頃から釣りが好きだった。
就職してからは、釣り好きの上司に誘われて、船釣りをするようになり、
毎月、いや、多い時は毎週のように船に乗っていた。
鯵や鯖、鯛、鰤、モイカ、グレ、ヒラメなど、季節毎に対象を絞って、船釣りを楽しんでいた。
これまでの人生の中で、唯一、ストレスを感じない至福の時間でもあった。
しかし、一定の年齢に達すると職場は県外勤務となり、船釣りからも離れて行った。
挙句の果てに、2年前、男はコ○ナに感染し、半年余り寝た切りとなり、脚の筋肉を失った。
職場復帰後、リバビリ中に転倒し、右脚太腿筋肉断裂の大怪我を負い、今も右脚は動かない。
また、コ○ナ感染の公表を巡り、本省の言うがままに男を特定公表した職場の長のやり方に男は激怒し、ぶつかり、職場復帰しても折り合いは付かなかった。
その結果、当然の如く、悪き旧態依然とした公務員・行政組織は「物を言う」職員を用無しと見定め、男を降格処遇とした。
男は、その元々の気質、性格的にも公務員向きではなかった。
加えて、行政組織の民間企業の後追い愚策、無能な女性の登用、本省忖度の横行等により、男はこの組織に自分の居場所が無くなって行くのを感じていた頃でもあった。
男はキッパリと組織から足を洗った。
男は煙草を吸い終わると、車を出し、あのバラック小屋に向かった。
そして、右手に広がる広大な深い青色の海を見遣り、こう思った。
「海も俺を用無しとするのか…
好きな事では飯は食えぬ…か」と
天空の青空の中に昼間は用無しとなった「月」がくっきりと浮かび、その下を鳶が飛んでいた。
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