第2話 風に向かう!

 スマホのGoogleマップは目的地まで残り10分を表示していたが、前方は雪化粧をした山々が立ちはだかる。


 男は少々の苛立ちを覚え、2本目のショート・ホープに火を付けた。


 すると、工事中のトンネルが見えてきた。


 入口には作業員が赤い旗を振りながら立っていた。


 男はトンネル前に停車し、車内に充満したショート・ホープの煙を排出するため窓を開けた。


 煙草の煙は逃げ出すよう外に這い出し、入れ違いに寒風が車内に吹き込んで来た。


 男は窓の外に顔を出し、外の空気を嗅いでみたが、磯の匂いはしなかった。


 トンネル内から対向車が次々と通過した後、作業員が白い旗を振り直し、トンネル内に誘導された。


 トンネル内では作業車が凍結防止剤を対向車線に塩を撒くように牛歩のごとくゆっくりと噴出していた。


 男はトンネル内を徐行しながらフロントパネルの時計を見た。


 時刻は午後2時40分を表示していた。

 

 トンネルは全長300mと短く、直ぐに出口の光が見えた。


 車が出口に近づくにつれ、光は白く灰色の容姿を形成した。


 その正体は、どんよりと空に浮かぶ雪雲であった。


 男はGoogleマップを見直した。


 マップ上には海が表示されていた。


 男は怪訝そうにドス黒い雪雲を見ながらトンネル出口を通過した。


 その瞬間であった。


 灰色の雪雲の下に青黒く無数の白浪を靡かせ果てしなく広がる巨大な塊が眼前に出現した。


「海だ!」


 男は思わず叫んだ。


 Googleマップは福井県小浜市田烏と表示していた。


 海までは一直線の下り坂


 男は今まで焦らされた鬱憤を解き放つよう、動かない右脚に鞭を打つようアクセルを踏み込んだ。


 車は県道22号線の終焉である県道162号線とのT字路まで突き進み、若狭湾を面前に停車した。


 男の眼下に広がる日本海若狭湾


 寒風突き荒む猛吹雪がフロントワイパーに襲いかかった。


 上空は、ドス暗く灰色掛かった分厚い雪雲が、巨大な未確認飛行物体のように、どんよりと押し寄せていた。


 眼下の海も怒っていた。


 青黒く底深い海は、無数の白矢を放つよう猛々しく白浪を立て、海岸を襲っていた。


 風も雲も海も


 三者一体となり陸地に牙を剥いていた。


 男の車は海岸線を走る県道162号線の4m道路の手前に停車していた。


 男は一旦ルームミラーを見て、後続車の姿が無いことを確認すると、車のエンジンを切った。


 男は一瞬にして怯えてしまった。


 荒れ狂う冬の日本海の猛者達には歯向かう気持ちは全くなかった。


 さらに、牙剥く猛者達は、湾内左前方に孤立する獅子ヶ崎半島を吹雪と白浪による真っ白い泡で飲み込もうとしていた。


 男は完全に怯み、前にも後ろにも行けず、エンジンキーを握る指は死人のように硬直した。


 その時、後続車のクラクションが鳴った。


 男は覚悟を決めスターターを回した。


 そして、前に進み、


 安全地帯から危険地帯の県道162号線に入ると同時に、左ウインカーを点滅させ、西に進路を取った。


 冬の日本海の海岸線


 左手は氷河のような雪の壁


 右手眼下は荒れ狂う日本海


 時折見える砂浜は吹雪と白浪の白い泡に侵されていた。


 男は前方だけを見ることにした。


 Googleマップは到着地点まで残り5分を表示した。


 そして、Googleマップ上の赤いピンは、右手海沿いの地点に突き刺さっていた。


 残り5分を示したGoogleマップは、「200m先を右折してください。」と無責任に言い始めた。


 男は、仕方なく右前方を見遣った。


 ガードレールが雪に埋もれていた。


「30m先を右折してください。」とGoogleマップは更に明言する。


 男は、ゆっくりと減速し、右ウインカーを点滅させ、案内どおりにハンドルを右に切った。


 雪に覆われたガードレールの先に空間が現れた。


 車は右折し、白い空間に侵入した。


 下り坂の雪道であった。


 男はギアを一段落とした。


 そして、後輪が滑ることを予想した。


 次の瞬間、ジェットコースターの急カーブを曲がった時のように前方の視界が直下した。


 雪道に2つの轍があった。


 車の4本のタイヤは轍に挟まった。


 男は決してブレーキは踏まないと心に決め、エンジンブレーキの減速力を頼りに坂道を降って行った。


 車は、何とか雪道を降り切り、寂れた漁港の船泊まりの位置まで進み停車すると、同時にGoogleマップは案内を終了した。


 男はゆっくりと窓ガラスを下げ、3本目のショート・ホープに火を付けた。


 ここが男の目的地であった。


 午後3時に不動産屋と待ち合わせの予定であった。


 男は煙草を咥えながら、車を降りようとドアを開け、一歩、足を地面に踏み込んでみたが、ズボリと足首の上まで雪に嵌ってしまった。


 男は、右脚が不自由であることを改めて思い出し、ハンドルを握り直し、車を比較的積雪の少ない箇所に停め直した。


 午後3時を過ぎた。


 すると、一台の軽トラが雪道を軽快に降って来て、男の車の前に停車した。


 そして、軽トラの運転手は窓を開け、男の車に向かって、


「あんたが福永さんですか?」と大声で叫ぶように問うた。


 男は右手を上げて合図をし、慎重にドアを開け、今度は最初に杖を突いてから降り立ち、


「福永です。」と答えた。


 軽トラの運転手は、杖を突き佇む男を燻げな表情を浮かべながら見遣ると、


「こっちへ乗って!」と言い、軽トラの助手席のドアを開けた。


 男は雪の無い箇所を選びながら慎重に一歩一歩、軽トラに近づき、助手席に乗り込んだ。


 軽トラの運転手は、男に名刺を渡しながら、


「私が吉田不動産の吉田です。


 あんた、脚が悪いん?」と


 心配そうに男の右脚を見ながら自己紹介をした。

 

 男は「えぇ」と苦笑いをし、


「貸家はこの近くですか?」と早速、本題に切り替えた。


 しかし、吉田は男の脚を見ながら、


「脚が悪いと厳しいかもなぁ~、


 まぁ、あんたが良いと言うんなら、かまへんけど…」と前置きをし、


 そして、「あれ、あれ!」と


 真向かいに見えるバラック小屋を顎で示した。


「あれ!」と男は思わず小屋を指差し、オウム返しで答えた。


「そう、そう」と吉田は頷いた。


 そして、吉田は、


「まぁ、中、見ましようや!」と言い、


 軽トラを動かし、10m程先のバラック小屋の壁に軽トラを横付けした。

 

 吉田は軽トラから降り、バラック小屋の玄関と思われる引戸に掛かる南京錠を開け、男に手招きした。


 男は軽トラから降り、吉田に続いてバラック小屋に入って行った。


 玄関は土間となっており、左側に10畳程の台所と居間、その奥に6畳程の和室、さらに奥に6畳程の板の間が間取りとなっていた。


 吉田が男に言った。


「中は十分、生活できます。電気もガスも水道も直ぐに使えるようしときました。」と


 男が、両手に息を吹きかけ、寒そうにしていると、


 吉田は土間に行き、ガスストーブを点火し、そして、その上に置いてあるヤカンに水を汲み、設置し直した。


 そして、男に言った。


「家財道具が揃うまでは、このブルーバーナー(ストーブ)の周りで生活しなはれ!


 死にとうなかったら、そうしなはれ!」と


 男は大きく頷き、それには納得した。


 男は契約どおり、1か月分の家賃2万円と仲介手数料1万円の合計3万円を裸銭で吉田に渡した。


 吉田は金を受け取ると、契約書と鍵一式を土間の階段に置き、


「何か用あれば、電話してや!」と言い、出て行こうとした。


 男は慌てて、吉田を呼び止め、


「車は何処に置いたら良いんですか?」と問うた。


 吉田は、ニヤリと笑い、


「ここら辺は無法地帯や!


 何処でもかまへん!」と言い、帰って行った。


 男は取り敢えず、軽自動車から夜逃げしたように数少ない家財を運び込み、


 そして、バラック小屋の引戸を閉め、


 土間のブルーバーナーの前に座り込み、4本目のショート・ホープに火を付けた。


 福永武、55歳、無職


 昨年末まで公務員として、滋賀県の役所に勤務していたが、


 上司と対立し、依願退職した。


 長年、単身による全国異動


 家族は15年前から九州の実家に放置したままであった。


 家族からは、九州に戻ってくるよう説得された。


 しかし、辞め方が、正に役所との喧嘩別れであったことから、


 恰も都落ちするかの様に


 恰も平家の落武者であるかの様に


 恰も自分が負け犬の様に


 九州に戻ることは、そういう事であると、男は捉えていた。


 悩んだ挙句、新年早々、


「戻っても何にもならない。


 今までどおり抗う!」


 と男は決断した。


 そして、海を選択した。


 第二の人生の舞台を、この漁村に設定した。


「貴方、馬鹿な考えは辞めて!


 いきなり公務員辞めて!


 漁師になる?


 無理だわ!


 右脚も動かないのに!


 頼むから、帰って来て!」


 こう書き込みを続ける妻からのLINEは見る気もしなかった。


「凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。風に流されている時ではない。」


 こう妻には言いたかった。


 こう周りに叫びたかった。


 ウイストン・チャーチルの言葉を…






 


 

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