不透明な君と僕

蓮海弄花

不透明な君と僕

 七月一日。金曜日。

「ねぇ知ってる? 三組のさあ」

「アヤセさんとイツキくんでしょ。双子なんだよね」

 教室の入り口で三組を覗き込むように立ち話をしている女子二人組に対して、聞こえてますよ、と思いながら僕は立ち往生していた。

「でも、両方ともお互いのきょうだいが亡くなってるんだよね」

 その言葉を聞いたとき、僕は黙っていられず口を挟んだ。

「ごめん、そこどいてもらっていい?」

 こちらを振り返った女子二人は、やってしまった、という顔を隠さずに自分たちの教室に小走りで帰っていった。

 伊月彼方。それが僕の名前だった。みんなにはイツキと呼んでもらっている。トラック事故で死んだ僕の片割れの名前は空。

「おはよう」

 後ろから聞き慣れた声がした。振り返る。

「おはよう、アヤセ」

 綾瀬律。それが彼女の名前。肩口までの黒髪をひとつに結んでいる泣きぼくろが印象的な少女だった。彼女の片割れの名前は涼。僕の片割れが死んだのと同じ事故で彼女の片割れも亡くなっていた。

 律はどちらかといえば陰気で、読書が好きな内向的な性格をしていた。

 同じ教室のみんなは僕たちに対して気を遣って名字で呼んでくれている。僕ら二人がまだ片割れの死を受け入れられていないことを知っているのだ。

「今日部活ないから、放課後、いつもの場所で」

 律はそうぼそりと言って教室に入った。彼女は吹奏楽部であった。後を追うようにして僕も教室に入る。

 僕と律には不思議な連帯感があった。お互いの片割れを喪っているということが原因だろうが、崩れかけたジェンガのような不安定さを持っているところが特に似ていた。二人でいるとそれを補い合える気がしてしまった。初めて会ったのはトラック事故に遭った遺族の会のときだったけれど、実際のところは三年になって偶然同じクラスになるまではあまり関わりはなかった。同じクラスになってからは一緒に行動することが増えた。

 そして、僕と彼女の間にはとある約束が生まれた。


 放課後、約束の場所。誰もいない倉庫に先についたのは僕のようだった。僕は髪の分け目を逆にして、適当に積んである机にだるく座って彼女を待った。

 突然視界が暗くなる。

 目元に感じる人肌のぬくもり。

「だーれだっ」

 聞き覚えのある声。しかしそのトーンは明るい。

「何をやってるんですか、涼さん」

 僕は落ち着いたトーンでそう返した。

 ぱっと視界がひらけて、後ろから彼女に覗き込まれた。

 綾瀬律――いや、涼に。

「空くんが隙ありっ! って感じだったからさっ」

 肩口までの髪を下ろした涼はそう言って笑った。


 片割れを喪った僕らは、そしてそれを受け入れることの出来ない僕らは、二人きりでいるときだけは片割れを装って行動することにした。

 そうすることで、遠くへと行ってしまいそうな涼と空をこの世にとどめておけるような気がしていたのだ。

 いけないことをしている、という不安も心のどこかにはあった。けれど見ないふりをした。辞めることは出来なかった。喪ったものを埋める甘寧な手段が、たしかにそこにはあったのだから。


「駅前のさあ、新しく出来たクレープショップに行こうよ! あ、空くん甘いもの平気だったよね?」

 涼は自然と空に腕を絡めた。涼にはもともと彼氏が居たことがあったらしいから、そのときの癖だろう。空も彼女が居たことがあったので自然とそれを受け入れていた。

「甘いものは好きですよ」

 僕は苦手だったが、空は甘いものが大好きだった。だからクリスマスや誕生日のケーキは僕の分まで空が食べていたものだ。

 こうして涼と甘いものを食べに行く機会は何度かあったが、なぜか僕はそれを苦痛に感じることはなかった。僕の体は今空が使っているのだと思うと心が充たされる気がした。

 いちごチョコクレープを注文した空は、バナナチョコクレープを注文して食べるのに苦戦している彼女を見て笑った。

「まずバナナから食べたらいいんじゃないですか?」

「あのねえ、パフェじゃないんだから、そんなに分割して食べちゃダメなんだよクレープは! ひとくちで全部味わえるのがいいんだから! ああっバナナが落ちる!」


 クレープを食べ終えた空と涼は受験勉強をするために図書館に向かった。バスは二人席に座って、教室の誰と誰が付き合っただとか、別れただとか、そんな話をした。僕は外交的な性格だったので黙っていてもそういう声が耳に入ってきていたが、律はどこからそういう情報を仕入れてきているのだろうと思った。


 図書館では、空は英語を、涼は数学を勉強した。涼は古典が苦手なのだから苦手科目を勉強すればいいのに、とアドバイスしたら得意科目で一点突破するのと現実味のない回答が返ってきた。

 終バスの時間まで居座っていた空と涼は、広げていた勉強道具をしまいながら次の部活の予定などを聞いた。うちの学校は進学校でもあったけれど、バレーの強豪校でもあったので、吹奏楽部は応援に呼ばれるのだ。吹奏楽の推薦で入学した綾瀬姉妹は三年の夏の大会で引退となる。練習に力が入るのは当然だった。

「しばらく会えなくなりそうですね」

「空くんが部活終わるまで待っててくれたら会えるよ?」

 涼は小悪魔的に小首を傾げた。

 どうせ家に帰っても誰も居ないし、勉強しかすることのなかった僕はそれもまあいいかなと思った。

「じゃあ待ってることにしようかな」

「えっ、本当!? じゃあ、部活終わったらなる早で向かうよ! どこで待ち合わせる?」

 空と涼が放課後にこうして過ごしていることは教室のみんなには知られたくなかった。

「いつもの場所で」

「わかった!」


 バス停で時間通りには来ないバスを待つ。

 涼はするりと手を重ねてきた。空はその手を握って、指を一瞬だけ絡めてから、そっと離した。

 帰りの誰も乗っていないバスでは、涼も空も黙って窓の外の風景を眺めていた。

 窓の外に月が見えた。

「涼、見てください」

 月を指差す。

「きれいですね」

「そうだね。死んでもいいね」

 空と涼の視線が一瞬交錯した。

『次は久栗坂、久栗坂』

「じゃあ、また来週の月曜日に」

「うん。また」

 涼は空に流し目をくれてから降りていった。

 一人になった僕は、涼の泣きぼくろと流し目を思い返す。

 文系苦手じゃなかったっけ。


「イツキー、おっはよ!」

 クラスメイトの鈴原が肩を組んできたので笑いながら引き剥がす。

「はよ、なんでそんなテンション高ぇの? 今日小テストあるけど」

「えっマジで? なんの科目?」

「化け学」

「うわ終わった。……ってそうじゃなくて! イツキってアヤセと付き合ってんの?」

 僕の心臓が跳ねた。

「付き合ってないけど」

「えーでも俺先週の金曜お前とアヤセが駅前のクレープ屋でクレープ食ってるの見たけど」

「それはマジ。美味かった」

「え、じゃあ何? アヤセはキープ的な?」

「んなわけねーじゃん、フツーに友達」

 あれ。

 僕は頭の端に何かが引っかかるのを感じた。

 フツーに友達?

 僕と綾瀬は友達だろうか。

 違う気がした。

 もっと特別な、名前のつけられない関係だ。つける必要のない関係だ。

 僕は、綾瀬の特別だ。

「ま、何でもいいんだけどさ。お前とアヤセが付き合うことで、ちょっとでも元気になったのかなー、って、ちょっと思っただけ。まあ、なんつーか、聞きたくないかもしれねーけど、あんま抱え込むなよ。俺も、バカなりに心配してるし、相談にも乗るから。もちろん、そんなにすぐに傷がなくなるなんて思ってないけどさ!」

 それだけ! と言って鈴原は僕の背中をばしんと叩いて自分の席に戻った。その背を追いかけて、スクールバッグの中から出した科学のノートを鈴原の背中に叩きつけた。

「サンキュ」


「今日のホームルームは文化祭の種目決めでーす。三年は飲食だから、何がやりたいか話し合って決めてくださーい。じゃ、あとは委員長よろしく」

「先生サボんなよ」

「他のクラスは先生が主導で決めたって聞きましたー」

「うちのクラスはいーんだよ。自分たちで決めたほうがあとあと楽しいんだからおとなしく出てこい委員長」

 ひときわ大きな声で先生批判をしていた委員長が渋々立ち上がって教壇に立った。

「じゃあやりたい飲食系の出し物決めます。あ、書記が欲しいな……アヤセ、頼めない?」

 僕は立ち上がった。

「アヤセ身長低いからちょっと厳しいっしょ。僕やるよ」


 たくさん出た案の中から決まったのは、第一候補クレープ屋、第二候補たこ焼き屋だった。鈴原が意味ありげににやにやしながらこちらを見ていた。

 たこ焼き屋になれ、と思った。

「あとは学祭委員と各仕事の振り分けだな。学祭委員やってくれる人ー」

 誰も挙手しなかった。

「そうなると思ったよ。じゃあ指名します。鈴原と林藤」

「えー!」

「別にいいけど」

 鈴原は呼び込みをやりたかったらしいが、林藤があっさり呑んだことに加えて僕たちのクラスは委員長が絶対権力者だったので速やかに決定した。

「じゃあここからは委員の二人で進行して」

 委員長はそう言って席に戻った。

 調理班、宣伝班、接客班、などがある中で、僕と綾瀬は美術班に所属することになった。


 放課後になり、僕はいつもの倉庫で勉強をして綾瀬の部活が終わるのを待った。勉強は得意な方だったし、嫌いでもなかったから一人でする勉強は結構集中できてよかった。

 集中して英語の長文読解をしていると、がらっと勢いよく倉庫の扉が開いた。

「ごめん、待った?」

 綾瀬だ。

「待ってませんよ。勉強してましたから」

 綾瀬は髪のゴムを解いた。

 ぱさり。

 綾瀬のきれいな黒髪が肩にかかる。

「今、勉強道具片付けるので」

 言いながら問題集をさっさとまとめてスクールバッグに突っ込む。シャープペンと消しゴムを持ったところで、バチ、と音がした。

 なんの音だ?

 涼と空が上を見上げる。

 バラ、バラバラ、と音がして、涼と空は嫌な予感がして倉庫の入り口の方を見る。地面がぼつぼつと濡れていた。

「嘘! 雨ぇ!?」

「困りましたね」

 空は傘を持ってきていない。隣の涼も持ってきていないようだった。空はとりあえず文房具をしまってから、一旦床に腰を下ろした。

 涼も隣に座る。

 手が触れそうな距離だった。

 雨音が激しくなる。

 倉庫内の湿度が高まる。

 涼がブラウスのボタンを二つほどはずした。

 鎖骨が見える。

 どちらが先かは知らないが、ほとんど同時に指先を伸ばす。絡める。

 空は、涼の顔を覗き込んだ。

 涼が首を傾げながらわずかに近づいてくる。

 その薄紅色の口唇に自分のそれを重ねた。

「……不純異性交遊だ」

 空がそっと離れたあと、涼はそう言った。

「でも、誰も見ていませんよ」

「そうだね。誰も見てないね。私達以外は」

 その『私達』に僕と律が含まれているのかいないのかはわからなかったけれど、二人の共通の背徳が増えたことに変わりはなかった。空は涼のことが好きなのかもしれなかった。空のフリをしているのは僕なのに、僕は僕の気持ちがよくわからなかった。もしかしたら本物の空が降りてきていたのかもしれないと思った。


 実行委員が意外と頑張ったおかげで、戦争を勝ち抜いて僕らの教室は第一希望のクレープ屋をやることになった。

 ベニヤ板を塗料でカラフルにしていきながら、僕は綾瀬に話しかける。

「部活忙しい?」

「忙しいよ。でも楽しい」

 律は言葉少なだった。そして顔を上げる。

「イツキはなにか楽しいことないの」

「僕? 僕は特に……。強いて言うならこうしてアヤセとか友達と話したりするのが楽しいかな。空だったら読書が好きだって答えてただろうけど」

 僕は自分の言葉で自分の胸を傷つけた。

 空はもう居ないのにどうして考えてしまうのだろう。

「あ、そろそろ部活の時間だから……じゃあまた後で」

 ひらひらと綾瀬に手を振ってから自分の作業に戻ると、美術班の男子がわらわらと集まってきた。

「イツキ、お前アヤセといい感じじゃん」

「そんなことないって」

「アヤセが男子とあんなに喋ってるところ見たことねーし、絶対脈アリだって」

「そんなんじゃないんだって。僕とアヤセはー―」

 僕と綾瀬は。

 何なんだろう。

 ふたりともなくしてはいけない片割れを亡くしてどうしていいのかわからなくなって、体が半分になってしまったかのような、あるいはシャム双生児が二つに分かたれてしまったかのような気持ちになって。だからこそ僕らはそれぞれの片割れを体に憑依させてままごとを続けている。

 先日のくちづけを思い出した。

 その感触を覚えている。

 あの行為は何だったのだろうか。

 空だったら本当にあんなことをしただろうか。

 あれは少なからず僕が望んだ行為のような気がしていた。

 空の体裁を借りて涼の口唇を盗んで、僕は、許されないことをしたんじゃないか?

 空に対しても涼に対しても律に対しても。

「僕とアヤセは?」

 我に返って、僕は人差し指を口元に立てた。

「……もーちょい、複雑な関係」

「なんだよそれー」

「こらそこサボんな!」

 鈴原委員様の声が飛んできて、僕らはおとなしく仕事に戻った。


 それからも似たような日々が繰り返された。

 僕と綾瀬の関係も続いていた。

 ただ、一抹の不安があった。こうして日々を繰り返すことで、本来の空と涼のことを忘れていってしまうのではないか、上書きしてしまうのではないか、という不安だ。

 忘れることは怖かった。

 これ以上喪うことが怖かった。

 けれど、それ以上に本物の空と涼を損なってしまうことも怖かった。

 しかし僕たちはそれを辞めることが出来なかった。


 文化祭準備と並行して授業も当然行われる。体育の授業で、僕も綾瀬もバレーを選択していた。

 そしてなんとバレー部のやつまでもがバレーを選択していた。

 うちはバレーの強豪校である。そいつが入ったチームが絶対勝つに決まっている。

 僕と綾瀬は壁際で見学をしていた。

「最近演奏の調子がいいの」

「努力が実ってるんじゃない? 良かったな」

 綾瀬と他愛もない会話をしていると、バァンという音と「危ない!」という声が聞こえた。そちらを見るとスパイクがバウンドしてこちらへ――綾瀬の方へ向かって来ていた。

「アヤセ!」

 僕は反射的にアヤセを庇っていた。こめかみに強い衝撃があり、僕は床に倒れ込んだ。

「イツキ!」

「イツキ、平気か!?」

 駆け寄ってきた体育教師が僕の目の前に指を二本立てた。

「これ何本に見える?」

「二本です。アヤセは無事ですか」

「私はなんとも無いよ」

 頭の直ぐ側から綾瀬の声が聞こえた。しゃがんでいるんだなとわかった。

 綾瀬に怪我がなくてよかった。

 もしも綾瀬が怪我をしていたら、きっと正気では居られないから――ああ。

 バレーボールの衝撃でやっと気がついた。

 僕は綾瀬のことが好きなのだ。

 綾瀬の誰が好きなのだろう。涼のことが好きなのだろうか。涼のフリをしている律のことが好きなのだろうか。律のことが好きなのだろうか。それとも綾瀬という存在自体が好きなのだろうか。

「少し意識が朦朧としているな。保健室に行くぞ」


 大事を取って僕は早退することになった。自宅へ帰り、空と二人で使っていた自室へ帰り、スクールバッグを二段ベッドの下段に放る。

 勉強をする気分でもなかったので、空の書棚から彼が好きだった一冊を手にとった。空が死んでから僕は空の読んでいた本を読むことがしばしばあった。この本の内容も覚えている。空は読んだ本のあらすじと感想を必ず僕に教えてくれたから。


 しばし読書に没頭していると、下の階から「帰ってるの―?」と母の声がした。部屋を出、階段からひょこっと顔を出すと、「ご飯できてるわよ」と教えてくれた。

「今日のご飯は何?」

「麻婆丼」

 僕の好物だった。

「学校から電話があったけれど、体育の授業で頭を打ったんですって?」

 無理もないことだったが、母は事故後僕の体調に関して過敏になっていた。

「少しでも具合が悪いと思ったら言いなさいね」

「わかったよ」


 夕飯を食べ終えて自室に戻り、iPhoneを確認すると綾瀬からLINEが飛んできていた。

『大丈夫?』

『大丈夫。心配ありがとう』

 すぐに既読がついた。

『私のこと、庇ったでしょう』

 綾瀬はそう打ってきた。

『たぶん。咄嗟のことで、よく覚えてないけど』

『気持ちは嬉しいけど、私の代わりに怪我されるのは嬉しくない。今度からはしなくていいよ』

『わからない、同じことしちゃうかも』

『やめてね。イツキくんが怪我したりして、涼みたいに居なくなっちゃうのは嫌だから』

 綾瀬は自分の片割れが居なくなったことと今日の僕のこととを重ねているようだった。

『わかった。もうしない』

 既読が付いて、会話が終わった。


 風呂の中で僕は綾瀬について考えた。結局の所、僕は綾瀬のどこが好きになったのだろう。涼は明るくて溌剌とした少女だ。律は心根が優しくて読書が好きな少女だ。綾瀬はそのどちらも持ち合わせている。

 綾瀬は、僕のことをどう思っているのだろう。

 あの日交わした、背徳のくちづけのことをどう思っているのだろう。


 涼と僕の秘密の倉庫で、僕らはあの日のように指先を絡めて二人床に座っていた。

「涼」

「なあに、空くん」

「涼は好きな人とか居ないんですか」

「なあに空くん、好きな人でもできたの?」

「できたような、できていないような……」

「好きな人ができたなら教えてね。そしたら私も身の振り方を考えないといけないから」

「できてません」

 反射で嘘が口から飛び出た。

「その、ちょっと気になっただけなんです」

 他の人が好きだと勘違いされて、距離でもおかれたりしたら一番困る。だって空は――僕も、綾瀬のことが好きなのだから。

「だから、えーっと、その」

 涼はペットボトルの炭酸飲料を一口口に含んで笑って、差し出してきた。

「そんな焦んなって! 一口いる?」

 僕はそれを受け取って飲んだ。体に悪そうな味がした。

「間接キスだね」

 涼は小首を傾げてそう囁いた。

「そうですね」

 僕の心臓はその一言で不整脈を起こした。

「空くんのことが好きな女の子が居たら怒られちゃうかな」

「今のところ、僕は涼に怒られなければそれでいいです」

「あはは」

 結局上手に躱されてしまった。

 でも嫌われてはいないとは思う。嫌いな人間相手に、こんなことはしないだろうから。

 嫌いな人間相手と、ここまで繋がれないだろうから。

 僕はもう少しだけ指を伸ばしてみた。涼もそれに応えて絡め返してくる。

 一生この時間が続けばいいのに。

 空もいて、涼もいて、僕もいて、律もいて、お互いの体温が感じられて、他に余分なものは何もなくて、僕らを傷つけるものは何もなくて。

 僕たちは夢を見ている。

 ひどく甘やかで優しい夢を。

 この夢から覚めないためならどんなものでも差し出せるのにと僕は思った。


 学校は夏休みに入り、文化祭の準備は着々と進行していった。基本的に午後の授業や放課後に行われているので、夏の大会を控えている部活の選手たち以外が主だって準備を勧めている。綾瀬は部活に行っていた。

「クレープの種類、何があったらいいかな」

 調理班の一人から尋ねられた。

「え? あー、どうだろう。いちごは必須じゃない?」

 僕はそう答えた。そして綾瀬のことを思い出した。

「あ、あとバナナも」

「やっぱりそのあたりは王道だよねー。でもさ、ロシアンクレープとか面白そうじゃない?」

「なにそれ……っていうか、クレープでそんなのできるの? 中身見えてるのに」

「包むタイプのやつだからそこは大丈夫! ロシアンクレープを買った人は、四種類の中から好きなクレープを選べるの。で、ハズレを引いたらおまけで美味しい普通のクレープを貰える」

「ああ、包むタイプなんだ。まあいいんじゃない? コスト的にどうかはわからないけど……委員様にお伺いを立ててみたら?」

「鈴原委員様がクレープならイツキくんが詳しいっていうからさ」

「え、全然そんなこと無いけど。鈴原のやつ……」

 綾瀬とクレープショップに行ったことを匂わせてきやがった。

 今度しめないと。

 その時、教室の扉が開いてどやどやと部活組のクラスメイトが入ってきた。

「一時間休憩入ったから手伝いに来たー!」

 律はタオルで顔を拭いてから、清涼飲料水を飲みつつ僕の隣に座った。

「どう、進んでる?」

「正直なこというと、あんまり」

「そう。じゃあ、手伝うから頑張ろう」

 律はペットボトルをおいて、代わりに刷毛を手にとった。

「クレープ、包むタイプのやつらしいよ」

「そうなんだ。食べやすくていいね」

 律は淡々とベニヤ板を空色に塗っていった。ベニヤ板のメインカラーを決めたのは律だった。それが空色だったことがどこか嬉しかった。

「イツキくん、手が止まってるよ」

「ああ、ちょっと塗る順番間違えちゃったから乾くのを待ってるんだ」

「そうなの。ごめんね」

「あやまんなくてもいいよ」

「そう?」

 律はクレープのイラスト(これは普通のクレープのイラストだった)のいちごにポスターカラーで着色し始めた。

「乾くまでそっち手伝うよ」

「じゃあイツキくんはバナナ塗って」

「オッケー」

 なんだかんだこうして律と作業するのは好きだった。律は余計なことは言わないし、かといって会話に困ることもない。居心地のいい存在だった。

 三十分ほど黙々と作業を続け、完成した板を持って立ち上がる。

「鈴原ぁ、ベニヤ一枚出来たからちょっと確認してくれ」

「おう! 今行く」

 調理班とロシアンクレープについて詰めていた鈴原がこちらに向かってきたとき、クラスメイトの女子が僕にぶつかってきた。

「あ、ごめん空く……っ、じゃない、ごめん! ごめんイツキくん……っ」

 僕は動揺で手に持っていたベニヤ板を取り落した。

「空、じゃ、ないよ。僕は」

 空は涼と二人きりのときだけ出てきてくれるのだから。

「……っ、空ぁ!」

 鈴原に肩を掴まれた。

 待ってくれ。僕は空じゃない。鈴原。

「俺、もう見てらんねえよ! 彼方はもう死んだだろ!?」

「鈴原、冗談やめろよ」

「冗談はそっちだろ? いつまで彼方のフリしてんだよ!」

 彼方のフリ? 僕が?

 僕は――僕は?

「鈴原くん」

 綾瀬が鈴原の腕に手をかけた。

「あとは私に任せてくれないかな」

「アヤセ……」

「大丈夫だから」

 鈴原の手が離れ、代わりに綾瀬が僕の手を握って歩き出した。

「アヤセ? 僕は」

 綾瀬は何も言わなかった。そして、下駄箱で靴を履き替えて、また僕の手を引いた。

「付いてきて」


 綾瀬に連れられてきたのは空の墓がある墓地だった。道中のどんな質問にも綾瀬は回答をくれなかった。

「涼? 律? アヤセ? なあ、僕そっちに行きたくないよ」

「大丈夫だよ。私がいるから」

 綾瀬は僕の手を引いた。引かれるがままに付いてゆく。本当のことに近づいてゆく。嫌だ。また喪うなんて嫌だ!

「私達、共犯者だね」

 綾瀬はそう言って立ち止まった。僕の墓の前で。

 伊月彼方の墓の前で。

「死んだのは彼方くんだよ、空くん。空くんはそれに耐えきれなかったから、ずっと彼方くんのフリをして過ごしていたの。でもあまりにそれが彼方くんの思考に忠実だったから、私達二人でいるときは逆になっていたんだね」

 ああ――ああ、ああ。

 そうだ。

 僕ははじめからずっと空だったのだ。

 そうだ、遺族の会で綾瀬と出会ったときから確かそう振る舞うようになったんだ。思い出した。どうして忘れていたのだろう。

「本当に、共犯者ですね」

「だから大丈夫」

 何が大丈夫なのかわからなかったけれど、その言葉に安心した。

 僕らは同じ罪を背負っていた。

 もう空は暗くなりかけていて、まるで明け方みたいなそらに月が浮かんでいた。

「涼。――涼。月が、綺麗ですね」

「うん、そうだね。貴方がそう言ってくれるなら、そう言えるようになったなら、わたし、死んでもいいと本当に思うの」

 涼はそう答えた。

 僕は頬を伝って流れる涙を止められなかった。

 終わりが来てしまった。

 お別れだ。

「さよならだね、空くん」

「うん、さよならですね。涼」

 薄ら氷を踏んで歩くような僕らのささやかな祈りは割れて砕けた。

「彼方くんと一緒に見守ってるから、安心していいよ。それじゃ、ばいばい」

 綾瀬はそう言って、僕の顔に手を伸ばし涙を拭った。

「空くん、これからも私と一緒に居てくれる? きっと私達は、友達にも、恋人にもなれないけれど」

 それでも僕らは連帯しているのだ。

 喪ったことは変わらない。

 一生背負って生きていこう。

「一緒にいます。一生、きっと、一生」

 空に月がのぼって、ひとりぼっちの僕たち二人を照らしていた。

 もう二度と二人にはなれない僕らを、照らしていた。

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