ヨミジミチ
「匠ちゃん、匠ちゃん!」
菊理に身体を揺さぶられ、意識が戻る。
世界がアカく、染まっていた。
菊理の全身を含め、俺の身体も染まり、見える景色から一切の色が奪われた感覚だ。それ以外の色と言えば黒だけで、たった二色で構成された視界のなんと目に悪い事か。真の怪奇現象とは俺の捏造を遥かに超える理不尽さを誇っていた。身体の輪郭が、アカい骨組みフレームとしか認識出来ない。
何が起こったか、全ての記憶を忘れかけていたが、菊理のお蔭で思い出せた。
俺の手を握っていたのは男とも女とも判断のつかぬ子どもだ。全身を五つのパーツに分けて、それぞれを二〇〇度ずつ捻じ曲げたような歪な怪物。指も目も鼻も口も平面的に延び、まるで落書きのように広がっていた。その、異様というしかない容貌に気を取られている隙に俺達は―――食われた。
奥行きの存在しない不気味な口が大きく開いて、その場に居た全員を呑み込んだのだ。
そして、ここに至る。
周囲には、菊理以外の人物が見当たらない。至近距離で食べられた俺が無事なら、他の皆だって無事な筈だ。
「もういいかーい」
「いーち」
「に」
「さーん」
「ッ!? 何だ、この放送」
「気にしてる場合じゃないよ、とにかくこっち来て! 隠れなきゃ!」
「待て、一体―――」
「早く!」
言われるがままに手を引かれ、辿り着いたのはアカい家。見覚えはある。ゲンガーを殺した家で、俺が最初に騙りを始めた場所。多少足元を取られる事も厭わず中に入ると、彼女は奥の押し入れに向けて俺を蹴っ飛ばした。
「しーち」
「山羊さんは!?」
「あたしは―――な、何とかするッ」
「出来るか馬鹿!」
この状況について一ミリの理解もしていないし、きっと出来るものではない。が、菊理の意図は分かる。自分を犠牲にしてでも誰かを助けようとする精神を『俺』は知っている。
だから許容出来ない。
手が届かなくなる寸前に何とか彼女の腕を掴んで引っ張り込むと、押し入れの扉を閉めて、息を潜めた。この家の小ささは筋金入りで、押し入れも身体の大きな人間が一人入れるかどうかというくらいだ。無理やりにでも二人入ろうとするなら、密着状態になってどうにかというところ。
沈黙と静寂。
これが平時なら、もう少し普通の反応が出来た。女子特有の柔らかさというものに多少なりとも感想を抱き、邪な感情に思いを馳せる事だって出来た。この胸に、この臀部に、このくびれに、この髪に、この瞳に。一つ一つに感想を述べては菊理の制裁を甘んじて受ける―――漫才とも呼べるようなやり取りだって出来た。
しかしながら、これは平時ではない。平時ではない。平時ではない。平時ではない。平時ではない。平時ではない。平時ではない。平時ではない。
本物の怪異。
草延心姫が幾度となく挑み、したためてきた事件の元凶。理屈なんて存在しない。人間の考える即興のデタラメよりも理不尽で筋の通らぬ害意。或は想像上の怪物を崇めるように、俺達はその存在に怯える事しか出来ない。
「…………」
「…………!」
足音が聞こえる。子供にしては甲高く、大人にしては小さく、そもそもヒトにしてはハッキリしすぎている。俺達は被捕食者の運命として、身じろぎ一つ取らずに死体になった。きっとこの近距離では息遣い一つでも位置を特定されかねない。人を騙すよりも遥かに慎重に、『他人事』では済まされない。
―――足音が遠ざかっていくのを耳で感じる。家の外に出てから完全に聞こえなくなるまで息を殺し、俺達がこの窮屈な空間を出られたのは体感で三分過ぎてからだった。
「あ、あれは何だ? 何であんな……『かくりこ』は本物だったって言うのかよ!」
「匠ちゃん。あたしの質問に正直に答えられる? 匠ちゃんはこれの事知らないんだね?」
「……おう。お前達にも言った通り、『偽物』が流したデマというか嘘っぱちだと思ってたよ。まさか本当だったなんてな……」
信じられなかったとしても無理はない。彼女は既に知っている。俺が一切の呵責を退けて嘘を吐ける人間である事を。結果的に善行とはいえ、その為だけに不和を煽り破滅を願った精神は看過されるべきではない。
俺の心は腐っている。
『俺』は自分を認めない。
菊理は何も言わず、頷いた。
「そう。じゃあこれはアクシデントなんだね」
「アクシデント?」
「良く分からないけど、『偽物』とは全く関係ないんでしょ。だったらあたしは信じるさ。匠ちゃんはこんな惨い真似をする人じゃないもんね」
惨いとは果たして何の話か。俺が意識を取り戻すまでの話を簡潔にまとめてくれた。
俺以外の人間は呑み込まれて直ぐに異常な状況を理解したが、固まって行動するという発想は出来なかったようだ。俺の手を掴む子供の姿を見た瞬間に殆どの人間が錯乱し、各々好きな方向へ散ってしまったそうな。そうは言ってもこの神社自体は狭いので少し歩き回れば何人かは見つかるだろうとも付け加えてくれた。
「待て。その状況だと俺は……詰んでないか」
「それはよく分かんない。あの子供が消えてからあたしはずっと匠ちゃんに呼び掛けてたんだよ。それで……今に至るのです」
「―――何で、隠れないといけないって分かったんだ?」
「それも良く分かんない。こっちは感覚が説明出来ないって意味だけど。何か分かるんだ、あの子供に見つかるのは駄目な事なんだって」
その生存本能はあたかも鼠が沈みかかった船を見捨てるかの如き。
俺にもまた違う理由で分かる。
姉貴は度々俺に言ってくれた。
『怪異は怒らせない方がいいよ。特に禁忌は……いや、関わらない方がいいんだ。どうしても触りたいなら本の中だけにしてほしい』
怪異に関わるな。
自分が積極的に首を突っ込んでおいてどんなダブルスタンダードだとツッコみたいが今なら分かる。経験があるとないとでは前提条件が違う。仮にも姉貴は十年以上……高校生の頃から関わりを持っている。きっと『かくりこ』の事も知っているし、こんなヘマも踏まなかった。俺には分からない。『かくりこ』なんて肝試しの話を知ってからネットで拾っただけだし、姉貴にも相談しなかった。どうせゲンガーを殺すだけなのだから、協力は必要ないと思った。救世人教の時と一緒だ。ゲンガーの方はこちらで勝手に解決出来ると思った。
「……どうしよっか。匠ちゃん」
「―――」
案が無い。
誰も頼れない。
朱莉も、レイナも、明亜君も、千歳も、誰も頼れない。誰か一人に少しでも知識があれば俺の浅い騙りなんて見破られていた筈なのだ。姉貴を呼んでみれば分かる、秒で計画は頓挫した。
「……お前と千歳を何があっても守るつもりだったけど」
「うん」
「…………どうしようもなくなったら」
言葉が詰まる。
人間とゲンガーは見ただけで判別が出来ない。それ故に俺も、人を殺す事に抵抗がない。果たしてそれは正しいのかどうかなど、怪異の前では無力だ。現実は俺達を助けてくれない。さよならだけが真実だ。
「……いや。何でもない。策はある」
「何さ? あたしに出来る事があったら何でもするよ! まずは合流、それとも一発で解決?」
「違う。携帯を―――」
「キ色どーこだ」
「いーち」
「にー」
発言が、変わってる?
「山羊さん! これって何!」
「分かんない! え、また隠れればいいかなッ?」
「絶対違う! 俺ニワカだけど、怪異は形式が大事なんだってのは姉ちゃんから聞いたマジだから! 黄色を? 何? どこって教えればいいのか?」
色自体は既に見つかっている。和室を構成する畳の一枚が蛍光色に、不自然にも色付けされているのだ。しかしこれをどうすればいいのかと言われると―――分からない。不親切すぎる!
「ろーく」
合流なんて考えてる場合じゃない!
「山羊さん!」
喋っている余裕もない。選択肢は無数にある。黄色を触るのか、外にほっぽり出して子供に教えてあげるのか、「ここだよ」と声に出して教えるのか、それとも―――
「はーち」
「きゅーう」
あああ!
クソがッ!
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