赤い湖とりんご短編集
燐裕嗣
丘の上のイノセント
王都より東、オーク村と言う小さな村。
周りはいくつかの丘に囲まれていて、その内、北の丘に伝わる話は、童歌と共に語り継がれていた。
「子供たちは土に 土は人形に
人形は仮面を被り 鬼となる
仲間を求めて 丘を彷徨う ……」
今日も穏やかな陽の差す村に、掛け声と剣のぶつかり合う音が響く。
「まだまだぁっ!!」
起き上がり、走り込み、剣を振るたびに二本の短剣がそれを拒み、弾き返す。
「ほらっ突っ込んでくるだけじゃダメって何度も言ってるでしょ!」
彼女は僕の攻撃をあっさり受け流し、バランスを崩した僕の体に脚を打ち込んだ。
一瞬宙に浮いて地面に落ちる。
土まみれになった体を起こして剣を拾う。
「今日はここまで。…風呂行ってらっしゃい」
背中に流れる栗色の髪を揺らし、彼女は家の中へと消えた。
僕も腹を押さえながら扉を開く。
迎えてくれたのは彼女の母。
「また随分やられたわねぇ」
「……」
僕が剣を片付ける間に、おばさんが風呂を沸かしてくれる。
日の昇る前から昼前まで、動きっぱなしによる空腹と、蹴られた痛みが合わさって、さっきから腹がぐるぐる鳴って痛い。
風呂よりも先に何か腹に入れておきたいところだが――。
テーブルの上のカゴには、果物が盛られている。
そのすぐ目の前で、僕の腹を蹴った張本人がお茶を飲んでいた。
ゆったりと椅子に座る彼女が、突っ立ったままの僕を見る。
僕が慌てて目を逸らしたちょうどその時、おばさんに呼ばれた。
「フィズー。お湯沸いたわよー」
腹を押さえていた手を握り締め、無言のまま早足でその場を離れた。
いつもの事……分かっちゃいるけど……。
「フィズ、食べ終わったら出掛けるよ」
「……うん」
僕はパンをちぎりちぎり、少しずつ口に押し込んでいく。
そんなに食べるのが遅かっただろうか。
僕が食べ終わった時には、テーブル周辺に彼女の姿はなかった。
「……ルル?」
先に行ってしまったのかと思い、表に出ると、
「フィーズー! 早くー!」
通りの向こうに小さく見える彼女の姿。大きく手を振っていた。
急いで追い付く。
「…ルル……食べ終わるまで、待っててくれるんじゃなかったの?」
「だって遅いんだもん」
ルルはひとつに纏めた三つ編みをいじりながら言った。
「それに、食べ終わるまで待ってるなんて、私一言も言ってないわよ?」
マルルゥー――通称ルル。
僕の師匠であり、姉……みたいなもの。本当の姉ではない。それだけははっきりとしている。
前を行くルルの三つ編みが楽しそうに揺れている。
そう言えば、どこに行くのかまだ聞いていない。
「丘だよ。北の」
丘……って。
歩く速度が遅くなる。
でも彼女は気付いていないのか、どんどん先に行ってしまう。
「覚えてる? 初めて二人だけでこの丘に来た時のこと」
もちろん覚えていた。
* * *
まだ男女の差が出る前のこと。いつもは大人同伴で来るこの丘をルルと二人で登った。
緩やかな坂を競うように駆け登り、頂上の木の根元で、家から持ってきたビスケットを分け合った。
* * *
ルルはあの時と同じ、楽しそうに笑いながら丘を登る。
くるりと振り向いて僕を見た。
「…元気ないね。もしかしてお腹、強く蹴りすぎた? 食べ終わるまで待たなかったこと、まだ怒ってる…?」
「怒ってなんかないよ」
ルルはまだ知らない。
* * *
遊び疲れて、ルルと木の根元で眠り込んでしまい、気がついた時にはもう、日が西に傾いていた。
ルルの寝息がすぐ近くに聞こえる。
土を掘る音と、何か柔らかいものを潰す音を聞いて、僕は肩に寄り掛かっていたルルの頭を木の幹に預け、音のする方を見た。
逆光で誰かは分からない。
でも、オレンジ色の光の中、確かに見た。
潰した何かを――捨てるように――埋めていたのを。
風が運んだ異臭に、鼻と口を押さえた。
土を戻す音が止んで、すっかり静かになってからルルを起こした。
それまでは動けなかった。
『ルル、ルル! もう帰ろう。今すぐ帰ろ!』
彼女は半泣きの僕を見て、『夜が怖いの?』と笑ったが、それ所じゃなかった。
丘で見た事は恐ろしくて、大人にも誰にも、言えなかった。
* * *
それからずっと、この丘には登っていなかった。
木は変わる事なくそこに立っていた。
ルルが髪を解くと、まるで初めから編まれてなかったかのように、真っ直ぐ風に流れた。
そしてフィズの気も知らず、爽やかな笑顔でこんな事を言う。
「そう言えば昔、相次いで子供が消えるって事件があったわね。消えるのは決まって、この丘に来た子」
だから大人は子供だけで丘に行くことを許さなかった。
「子供だけで北の丘を登ると神隠しに遭う」と言って。
僕はまた物思いにふけって、ルルの声も聞こえなくなった。
――どうして僕らは助かったんだろう。
二人だけで丘に登り、あんなものまで見たのに、成長した僕らがここにいる。
誰かに話すべきだったのかもしれない。でも、この五年間の沈黙が僕らを守ってきたのかもしれない。
丘の上には二人だけ。
――ルルには話しておこう。
そう思った。
決意して振り向いた時、そこに彼女はいなかった。
ついさっきまで確かに隣にいた――はずだったのに。
――《大人は子供だけで丘に行くことを許さなかった》。
違う。僕らはもう子供じゃない。ルルが連れて行かれたはずがない。彼女は僕より強いから。
……そうだ。かくれんぼだ。昔よくした遊び。
それが現実逃避だということは心のどこかで分かっていた。
それでもルルを探す僕は、木の陰からでも彼女がからかうように笑いながら顔を出すことを期待していた。
見付からない。
「…ルル」
五年前の恐怖が戻ってくる。
僕は夢中になって彼女の名前を呼んだ。
「ルル! マルルゥー!!」
返事はない。声は風に掻き消された。
日暮れが近い。記憶が近付いてくる。
逃げ出したい。
――ルルを探さなきゃ。
逃げたい!
――ルルは!?
ここにいたくない!
――どこに行ったんだ!!
土を掘る音がした。
叫び出したい気持ちが喉元で止まる。
オレンジ色の光の中、五年前と同じ、土を掘る音。
振り返るな。そのまま村まで逃げろ。
直感がそう言っているのに、体はその命令に背く。
――いた。
栗色の髪をした彼女の周りには二人の男がいた。
片方が地面に穴を掘り、もう片方がルルを押さえている。
「マルルゥー!!」
叫んだ。何も知らずに。
叫んで、何を考えるでもなく走り出していた。
柵を飛び越え、ルルを押さえている方に飛び掛かろうとしたところをシャベルで横薙ぎに殴られた。
「痛ぅ…」
そこら中が痛い体を起こして、相手を見上げる。
二人とも、鬼の面をつけていた。
「ルルを放せ!」
鬼の面は顔を見合わせ、首を横に振った。
シャベルが頭上に翳される。
とっさに背中へ手をやったが、そこに剣は無い。
振り下ろされたシャベルを紙一重で避け、周りを見回す。壊れかけた柵の根本にもう一本、シャベルを見つけた。
ほとんど四つん這いに崩れながらも柵の根本まで走り、落ちているそれを掴んだ。
体の震えを押さえ付け、恐怖に負けまいと相手を睨む。
いつもルルには負けてばかり。相手は彼女よりも強いかもしれない。でも、そんなのやってみないと分からない。
策なんて無い。
柄を握り締め、相手の懐に飛び込む。
振り上げたシャベルの頭が消えて、一拍遅れて後方で鉄の塊と土が落ちる音がした。
ささくれた柄を持ったまま、相手との距離を置く。
逃げ出したい気持ちはまだあった。
――今僕が逃げ出せば、ルルが埋められる。
逃げる事は出来ない。
助ける事も出来ないかもしれないけど。
――失ってからじゃ…何の意味もないんだ。
僕はそれほど腕が良いわけではない。ほとんど自棄だった。
夜がすぐそこまで迫っている。
横薙に振られたシャベルを跳んで避け、鬼の面目掛けて柄を打ち込んだ。
面にヒビが入り、広がって――割れた。
男は面を落とさないように、手で顔を覆った。
光が消える。と共に男達の姿も消えた。
一体何だったんだろう。
彼らが掘っていた穴の中に明るい茶髪が見える。
「ルル!」
穴に崩れ落ちた彼女の元へ駆け寄ったものの、それは――初めっから生きてなんかいない――人形だった。
ぼろぼろになってまで守ろうとしていたのは、偽物だった。
もしこれが夢だったとしても、僕はしばらく立ち直れないだろう。
丘を登ってくる小さな明かりを見つけた。走っているようだ。
「フィズー、ごめーん」
長い髪を躍らせ、走って来たのはマルルゥーだった。
「ちょっと忘れ物取りに行ってたの…」
忘れ物って……。
「取りに行く前に一言声掛ける位してよ。どれだけ心配したと思って……っ」
「心配してくれてたんだ。ありがと」
そんな風に笑わないでよ。文句も言えなくなる。
ルルが僕の後ろにあるものに気付いた。
「それ何?」
「これは……」
僕は人形を隠そうとした。簡単に見つかったけど……。
ランプが照らした足元の人形を見て、ルルはあからさまに嫌な顔をした。
「うっわぁ……ヤダ。何これ」
この反応は仕方ないよ。自分の等身大の人形が、捨てられたように穴の中に落ちてるんだから。
僕が今までの事を話している間、彼女は信じられない――というより信じていない――顔で聞いていた。
「フィズ――」
ルルが僕の顔を覗き込む。
「――あんた、夢でも見てたんじゃないの?」
やっぱり言われた。でも、
「じゃあこの人形は何なのさ!?」
僕だって信じたくないよ。
でも、服も体も傷だらけで、叩かれた所やぶつけた所は痛いし、足元には証拠だと言わんばかりに人形が転がっているし……。
今まであったことを否定すれば、この痛みも否定することになる。
―一体何だったんだろう。
「あ。流れ星」
ルルはさっさと話題を変えてるし……。
僕も地面から目を逸らすように空を見上げた。
「また流れた」
星が流れるたびに無邪気な笑顔を見せる彼女は、昔と変わらず可愛かった。
その時の僕らはまだ知らない。
数日後、僕らが流れ星を見ていたまさにその場所で、二人分の人体白骨が見つかる事になるなんて――。
終
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