第109話 『夜の教会』
*
その夜。ベルチャーナはトミタに、家を出ることを告げた。
「お世話になりました、って……こんな時間に?」
ベルチャーナはもう一度「三日もありがとうね」と礼を言って深々と頭を下げ、それから顔を上げた。
「行かなきゃいけないところができたから。それに、ずっとお世話になるわけにもいかないよ」
「私は、いつまでいてもらっても構わないのだけれど……ベルチャーナさんには色々手伝ってもらって、むしろ助かったくらいだわ」
「あ、この服も、改めてありがとうね。これ、ベルちゃんもすっごく気に入ってる……けど、ホントにもらっちゃっていいの? 大事なものなんでしょ?」
自身のまとう、黒いレザーのジャケットを指して言う。修道服——厳密にはシスターのものとは若干意匠が違うのだが——を地底世界に置いてきたため、薄手のインナー一枚だったベルチャーナに、トミタが渡してくれたものだ。
ベルチャーナが来る前、トミタはこの家に独りで暮らしていたが、ずっとそうだったわけではない。
夫がいて、娘がいた。
だが夫は若くして病死、娘は方舟の戦闘班だったため戦死した。
ベルチャーナの服は、そんな娘が家に置いていった、遺品だった。
「前にも言ったけれど、使ってもらう方があの子も喜ぶと思うから。ベルチャーナさんにもらってほしいのよ」
「トミタおばあちゃん……。大事にするね」
「ええ、ありがとう。寂しくなるわね——もしなにかあったら、いつでも戻ってきていいのよ」
「——うんっ」
大きくうなずいて、ベルチャーナはトミタと別れた。
夜の街並みを移動する。
方舟を離れるほど——外縁部に近づくほど、建物の密度、電線の数、それから治安といった色々なものが減っていく。とはいえ夜闇に乗じて暴漢に襲われたとしても、ベルチャーナであれば難なく切り抜けられるだろう。
空には未だ、厚い雲がわだかまる。星は見えず、月の光はかぼそい。
ただの少女となったソニアが、イドラの足を引っ張る。自身とイドラを危険に晒す——そうした事態を防ぐには、ソニアの心を折らねばならないのだとあの黒衣は言った。
そうすれば、ソニアはイドラを諦める。無力で、非力な自分を受け入れ、不死殺しの隣に立つのをやめる。
隣が、空く。
(……わたしは、元々レツェリ元司教のお目付け役だもん)
胸中でつぶやくのは、ただの言い訳なのだろうか?
拘束のないレツェリが、この世界でなにをしようとしているのか。ベルチャーナには、それを見極め、いざとなれば止める責務がある。そのはずだと、本人は思った。
だがもし、あの男が言う『機会』が訪れたら。単なる甘言ではなく、本当にベルチャーナにそのチャンスをもたらすのなら。
頭の芯は冷えている。堂々巡りだった思考は、今や落ち着きを見せている。
(もし、単にわたしを惑わせようとしてるだけだったら……こっちだって、手はあるんだから)
その胸元に、銀のリングはなく。
(あのミロウちゃんが負けたんだ。油断できる相手じゃない、けれど。今のわたしには——『鎖』がある)
不意を突けばあるいは。
確固たる足取りで、ベルチャーナは教会にたどり着く。門を叩くと、さほど間を置かず開いた。
「決断と行動が早いのは、君の美点だ」
「褒められてもうれしくないですよ——わたしはただ、レツェリ元司教を野放しにはしておけないというだけです」
「ほう?」
現れたレツェリ。その表情に驚きの色はなかった。
教会に足を踏み入れて、ベルチャーナがまず驚いたのは内装だ。
外から見た限り、それこそ暗闇の中でもわかるくらいには、放棄された年月を強く表す荒れ具合だった。しかし、内側はそれほどでもないらしい。
布の敷かれた講壇に、壁面のステンドグラス。並べられた長椅子……長椅子のひとつだけは、なぜか背もたれの一部が鋭利な刃物に斬られたかのごとくなくなっていたが、目につくのはそれくらい。
埃ひとつない清潔さとまでは言えないが、拠点とするには十分すぎるくらいだ。
「それで、元司教はここでなにを企んでるんですかぁ? ロトコル教の宣教?」
「葬送協会を追放された私に、そんな使命はない。……あの時は、立場的にもう少し抵抗できるものかと思っていたが……ミロウ君の素早い根回しのせいで身動きが取れなかった。やはり手放すには惜しい人材だったな……」
行儀悪く、長椅子の背に尻を置くベルチャーナ。探りを入れてみるも、レツェリは眉をしかめて独り言じみたつぶやきを漏らすばかり。
「だから、じゃあなにをしてるんですか。自分を崇める新興宗教でも立ち上げる? それとも、方舟を乗っ取ってミンクツを支配する?」
「……君の中で私がどのようなイメージなのかは知らないが、どちらも考えていない。今はただ、この地のことを調べているだけだ。方舟やミンクツ、それにアンゴルモアのことをな」
未知の世界の調査をしている。そう聞くと、ごくまっとうな返答だった。
ベルチャーナたち地底世界の住民にとって、この世界には知らないことが多すぎる。
単に方舟やアンゴルモアのことだけではなく、文化や歴史といった、根柢の部分から。
(言葉は通じるけど、文字は全然違うみたいだしね……)
ベルチャーナがトミタの代わりに配給券を持って方舟の配給を受け取りに行くとき、文字が読めず、職員にいくつか質問せざるを得なかった。
もっとも識字能力を欠いた人間というのも、稀ではないようだったが。おかげでさして不審に思われはしなかった。
「……ん?」
ふと、講壇の奥のドアの方からぺたぺたと足音が聞こえ、ベルチャーナは振り向いた。職業柄、かすかな物音でも彼女は聞き逃さない。
「あ……」
すると、一人の少女と目が合った。
十歳くらいと思しい、茶色い髪をした少女。細い体に不釣合いなくらい大きなカバンを肩にかけ、服は目に見えて生地が傷んでいる、一目でミンクツの生まれ——それも方舟から離れた困窮した地域の者だとわかる佇まいだった。
「おねーちゃん、だれ……?」
少女は、おっかなびっくりベルチャーナを見つめていた。
そこにあるのは『知らない人がいる』という困惑のみで、警戒のようなものはない。純真で、まだ人を疑うことを知らないのかもしれなかった。
「……レツェリ元司教、この子——」
驚いたのはベルチャーナだ。
「——誘拐してきたんですか? なんてことを……!」
「違う。断じて違う」
「ソニアちゃんの一件といい、こういう年齢の子が趣味なんですか? 見損なったよレツェリ元司教、元から最低評価だけど!」
「違うと言っている……! それは、行くあてがなくて付きまとってきているだけだ。私はなんら強制していない」
「……ほんとに?」
ベルチャーナは、こちらを見つめる少女に問う。
少女は、突然水を向けられびくりとしたが、すぐにうなずきを返した。
「うん。おじさん、たまに怖いけど……わたしがいても怒らないし、ご飯だってくれるんだよ。お姉ちゃんは、おじさんのお友達なの?」
「そうなんだ……。わたしはベルチャーナ、レツェリ元司教とは友達——では絶対にないけど。あなたとは、お友達になりたいな」
「いいの?」
少女はぱあと表情を輝かせ、近寄ってくる。素直でかわいらしい様子にベルチャーナはつい頬を緩める。
「わたし、
「こちらこそ。ふふ~、アマネちゃんは元気でかわいいねぇ」
「わわわっ」
頭をくしゃくしゃとなでると、くすぐったそうにする。人懐っこいワンちゃんのようだ、とベルチャーナは思った。
「しかしいいタイミングで来たな、ベルチャーナ君。ちょうど出るところだ」
「出る? どこかへ行くんですか? こんな時間に?」
「いかにも。黒神会の話を覚えているか?」
「昼間話してた……確か、この教会を使ってたとこ?」
「そうだ。内部資料が色々と残っていてな……正式名称は
「…………すみません、ちょっとなに言ってるかベルちゃんさっぱりなんですけど」
「心配するな、私もまるで理解できん。要は、アンゴルモアにむざむざ殺されるのが教義のカルト集団だ。ハッ、滅びるのは道理だな」
嘲笑を浮かべ、吐き捨てるように蔑む。レツェリはシンプルに異教が嫌いだった。
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