第102話 『守りたい誰かのために』
誰もが、泥のような疲労から、緊張感を呼び覚ます。
だがクイーンが動く間にも、周囲のアンゴルモアは『片月』の一同を取り囲もうと蠢き、端から対処を求められる。その混沌と動乱の中を縫うように、クイーンが接近する。
狙いはソニア。やはりアンゴルモアも、なんらかの基準に沿って獲物を選択しているのか——その答えは神のみぞ知る。
「こ、来ないで!
向けられる紅の
ワダツミのやや反りのある刀身、厳密にはそこに彫られた
「避けられっ……!?」
身をよじり、クイーンは軽々とそれを避けてみせた。
ワダツミのスキルは優秀だが、扱いには難がある。ソニアの水流操作の腕では、終末の使者相手には通用しないようだった。
イドラは助けに入ろうとするも、横合いから飛び出たハウンドに阻まれ、まずはそちらを斬り伏せねばならなくなる。
しかし横目に確認したところ、まだ二者間には手を伸ばしても届かない程度の距離がある。
——ソニアとクイーンは、まだ直接的に触れ合える間合いではない。
そんなイドラの目測は誤りではなかったが、しかし手の届く間合いでなくとも、一足一刀の間合いではあった。
一足一刀。すなわち。
クイーンが腰を沈め、深く一歩踏み込む。
その手にひと振りの刀があれば、踏み込みとともに相手を斬り伏せることができる距離。
カラであるはずのクイーンの手のそばに、黒い切れ目のようなものが浮かぶ。
それは空に開き、アンゴルモアを地上へ投下させる地獄の門、
——ただし、極小の。
「——————ウゴクコト」
クイーンの唇が小さく開き、アンゴルモア特有の機械音声に似た奇妙な声が、真っ黒い口内から発せられる。その発音は、他のアンゴルモアに比べるといくらかはっきりとしていた。
「——————ライテイノ、ゴトシ」
極小のポータルから黒い柄が現れる。先にやや大きな
クイーンはためらわず——アンゴルモアがためらいを覚えることなどありえない——その柄をつかみ取り、引き抜く。
色こそ星のない夜空を湛えるような暗黒だったが、それは確かにひと振りの刃物だった。
古く、この地より海を隔てた大陸で長く用いられた、柄の
「アンゴルモアが、武器を——!?」
カナヒトさえ、目に映る光景が信じられないとばかりにまなじりを裂いた。
環首刀を手にしたクイーンは、それを無造作に振り下ろす。
刀がある以上、そこは既に相手を殺す間合いだった。
「——っ!」
頭蓋を割られるすんでのところで、ソニアはワダツミを掲げ、上段の一撃を防ぐ。
ともすれば、地底世界生まれのソニアはアンゴルモアに馴染みが薄いぶん、それが武器を持ちだしたことへの驚愕が小さくて済んだのかもしれない。あるいは、その身に宿す不死の残滓が向上させた身体能力が、ぎりぎりで反応を間に合わせてくれたか。
だが残滓は所詮残滓に過ぎず。ソニアは今や、人外の戦場に踏み込むには、あまりに人間過ぎた。
人ならぬ者の
「え……あっ?」
クイーンの腕が閃く。その挙措はアンゴルモア特有のいびつさを孕んではいたが、同時に人間特有の、理念のもとに洗練された一個の体系に基づく技術——
理論と論理が交錯する、
つまり、『型』があり『構え』があった。
上段から振り下ろされたクイーンの環首刀は、ワダツミに止められたものの、そのまま斜めにスライドさせる形で下方へ振り抜かれ、そこから一瞬にして翻された。
返す一刀。怪物が行うにはあまりに究められた一閃に、ソニアは一切反応できず。
両断された左腕が、軽く宙を舞ったのだった。
「ぁ————あぁっ、ああああぁ……ッ!?」
切断面からあふれ出る真っ赤な血液が弧状の軌跡を描き、先ほどまでソニアの左ひじの先についていたモノが、ぼとりと乾いた草の上に落ちる。
当のソニアは、一瞬なにが起きたのかわからなかったのか、ぽかんとした顔を浮かべていたが、短くなった腕を見ると悲鳴を上げて
「——起きろッ、コンペンセイター!!」
その頃には、イドラは己のギフトの能力を起動させていた。
「ソニア君!」
「ソニアちゃん……っ!」
「くそッ——芹香と灯也はハウンドを処理しろ! クイーンは俺が抑える……!」
ソニアの負傷により陣形が崩壊し、戦況は大きく不利に傾く。だが、カナヒトたちの奮闘により、すぐさまなだれ込むアンゴルモアたちに押しつぶされるということはなかった。
その間にイドラは、片腕を失くし、ワダツミを取り落として倒れるソニアのもとへ駆け寄る。
既に
補うべき欠損は目の前にある。あとは、捧げるだけ。
「ソニア……っ! 今すぐ治してやる、少しだけ我慢しててくれ……!」
骨肉を断たれた強烈な痛みからか、それともあるべき器官を失った精神的な動揺からか、あるいは単に失血によるものか、ソニアは青白い顔で額に大粒の汗をにじませていた。その切断された左腕の肘から、ぼたぼたと止まらない血を流しながら。
——こうならないよう、守るはずだったのに。
血の滴る肘の先からは、生命の生々しい光沢を帯びた真っ白い骨が覗いている。根本で断たれた
胃の中いっぱいに溶けた鉛を流し込まれたような、ひどい後悔がイドラの胸中に広がる。
ハウンドなど捨て置いて、真っ先に駆けつけるべきだった。いや、そもそも、この子とともに『片月』に入隊し、作戦に参加したこと自体が——
堂々巡りに等しい無為な思考をぐるぐると頭の中で駆け巡らせながら、ともかく、イドラは痛々しい切断面へとコンペンセイターを近づける。
刀身は赤々と輝き、流れ出る血の温かさに負けぬ熱を帯び始める。
だが——
「待って、ください。イドラ……さん」
残った右手で、ソニアは、イドラの手首をつかんで制した。
「ソニア……? どうして止めるんだ! このままじゃ、ソニアの手が……」
一生、失われたままになる。
そんな先のこと以前に、たった今さえ、出血多量で命が危ない。
「このギフトは、使っちゃ、だめです。また……イドラさんが、倒れちゃう」
「——っ」
それなのにソニアは、荒い息で、かすれゆく意識で、イドラを止めようとした。ソニアの片腕を『補整』したのち、イドラに降りかかる代償を嫌って。
イドラも、ウラシマと交わした約束を忘れたわけではない。
コンペンセイターの能力は使わない。
そう、確かに口にした。
しかし。
「ごめん、ソニア」
——ごめんなさい、先生。
「キミを失うくらいなら、僕はどんな『代償』も受け容れる」
とうに迷いは除かれている。
ソニアを、ずっとそばで支えてくれていた大切な少女を、なによりも優先すると誓った。
ウラシマと交わした約束よりも、重く。誰に言うでもなく誓ったのだ。
ならば、当人であるソニアにさえ、それを止めさせはしない。
イドラは、意識がかすれてほとんど力が入っていないソニアの手を、優しくにぎり返した。コンペンセイターを持つ逆の手を止められないように。
そして、赤い刃先を、血の滴る傷口へ突き刺した。
「————ッ」
意識どころか、魂が抜け出ていくような感覚。
あまりに強烈な虚脱感。
手元が燃えていると錯覚するほど、
捧げられた代償に、喜びの
(気絶、だけは……!)
消えかかる意識をかろうじてつなぎ止め、イドラは地面に両手をつき、倒れこむのをなんとかこらえた。
……そのわずかな間に、ソニアの腕は治っている。『戻っている』と言うべきか。
腕が元通りになり顔色もよくなった。自身も和らいだ心地になるイドラだったが、ここで緊張の糸を緩めてはならない。
なにせ——ここはまだ、無慈悲な戦場のただなかなのだから。
意識の感覚を強く保つ。
今回も『代償』は重かったが、しかし前回は三日間の昏倒だったことを思えばずっとマシだろう。
そして、この結果はイドラの予想通りだ。地底世界をさまよう意識を引き上げてくるよりは、今そこでちぎれた片腕を再生させる方が、かかるコストは小さいはずだと踏んだ。
幸いにしてはそれは当たっていたが、二度目を行えばまた一日か二日は意識が飛ぶだろう。
(だが、それでも……)
能力を使わないという約束は、もう破った。
守りたい誰かを守るために。この能力は——コンペンセイターは必要だ。
そして、ならば、捧げるべき代償も必須となる。
痛みなくして得るものなし。
遠い地底の揺り籠を抜け出して、この宇宙のルールをイドラは知った。
「イドラ……さん」
午睡から目覚めたような
「方舟で、ウラシマさんと話してるのを見て気が付いたんですけれど……たまに他人のことをキミって呼ぶの、あの人の影響だったんですね」
「……最近は、あんまり言ってない気がしてたんだが」
「でも、今さっき呼んでましたよ」
花のような笑み。戦場には似つかわしくなく、だからこそ、張り詰めた心に清涼な風を吹き込ませる。
それから、ソニアもはっきり目を覚まして状況を把握したのか、「すみません」と申し訳なさげに短く謝る。イドラに再び、コンペンセイターのギフトを使わせてしまったことを悔いているのだろう。
「このくらいの代償なら平気だ。それより、動けるか? カナヒトたちを援護しないと」
「……はいっ」
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