第2部1章プロローグ プライベート・オラトリオ
第74話 『自由なる眼球』
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——。
「——ここはどこだ?」
意識の断絶が実際にどれほどだったのかレツェリにはわからなかったが、覚醒とほとんど同時に彼は身を起こして周囲を見渡した。
そこは地平世界では目にしたことのない、妙につるりとした石の部屋だった。広さはあるが天井がそこまで高くなく、窓からの明かりも乏しいため、レツェリはエンツェンド監獄をどことなく思い出す。だがあそこのような肌寒さはなく、不気味なほどに周囲は静まり返っている。
とにかく状況の確認が先決。立ち上がると、ずしりと手元に重みを感じた。
「む……」
そうだった、と言わんばかりにレツェリは窓の方を向き、ガラスの表面に映る自身の姿を確認する。雨や紫外線に長らく晒されたガラスは、曇ったように白く、キズも多かったものの、軽い姿見代わりにはなった。
そこに映るのは、金属でできた重厚な手枷に、同じく金属製の眼帯を着けさせられた黒髪の男。
この拘束があった。
「邪魔だな。まずはこれを外すか……」
まだ状況を把握できたとは言い難いが、ここが元の世界でないことは確かだろう。
レツェリが今いるのはずいぶんと高所らしく、窓の向こうでは荒廃した街並みが窺えた。
空には、地上を塞ぐようにわだかまる灰色の雲。地面も、そこに立つ建造物たちもおおむね同じ色をしていると言ってよい。
地面に立つ墓標のような、巨大な棺じみた建物が、いくつか目についた。レツェリも今、まさしくその無数の廃ビルのうちの一つの内部にいた。地上十三階。
雲の上に神はおらず。ここにも、神の国とは呼び難い荒涼たる静寂が満ちるのみ。
だが——
「起動しろ。
眼帯の奥で、真紅の瞳が起動する。
「——?」
妙な感覚があった。普段とは違う、違和感。
実体と非実体の壁を超え、その性質にはいささかの変化がもたらされていた。言わば『適応』か。
レツェリは右目を閉じ、左目の細い視界を頼りに、窓に映る自身を凝視する。
眼帯の表面には一点の穴が穿たれていた。無論、初めから空いていたわけではない。
クラーケン……船上での戦闘の際、眼帯を一時的に外した。その時に気づかれないよう、眼帯の表面にごく小さな『箱』を展開して作ったのだ。
よくよく見ればイドラたちも気づいたかもしれないが、あの騒動の中ではそうもいくまい。そして難が去った後は、眼帯側を見せないようにレツェリは船の左舷に腰掛け、疲労を理由に休んだふりをしていた。
眼帯に被せて、『箱』が展開される。実体のない、彼の脳内にのみ存在する仮想的な立方体。その範囲の中の時間が刹那の間だけ遷延する。
硬い金属は音もなく破断し、眼帯だったものは二つにちぎれて床に落ちた。
続いて、開けた視界で手元を見る。手枷にも、手と被らないよう注意しながら立方体を被せた。またしても破壊に成功し、分かたれたパーツがコンクリートの地面にごとりと落下する。
「地位を失い、枷とともに監獄へ押し込まれた身だが……それさえもなくなった。今度こそ自由の時間だ」
役職も鎖も脱ぎ捨てて。身一つとなったレツェリは、そばに落ちる黒い外套を拾い上げ、袖を通した。左の眼窩には赤い天恵。
奇しくも、この世界においてもそれは『ギフト』と呼ばれていた。
黒い大王、終末の使者に対抗するための——人類への
「イドラにソニア……それとベルチャーナはどこにいる? 別々の場所に飛ばされたか……あるいは私だけがはぐれたか」
レツェリにとってもここは未知の世界であり、あらゆることが不明だった。
だがとりあえず、向かうべき場所は定まった。高所で目覚めたのが幸いした。
窓から見る荒廃した景色の中で、明らかに人の住んでいそうな地域が窺えた。山のそばだ。山の上にもなにか大きな建造物があるようだが、そのふもとにも石やトタンの家屋のようなものが密集していた。
「デーグラムの街並みに比べれば、どうにもごみごみとしていそうだが……」
——今の私にはその方が似合いやもしれん。
未知と自由。百年を超えてもなんら変わらず、衰えぬ執念を燃やしながら、レツェリは楽しげに口の端をつり上げた。
階段をいくつも下り、廃ビルを後にする。それから曇天の下、劣化したアスファルトを進む。
水も食料もないのは問題だったが、早足に進めば一日とかからずあの集落らしき場所まではたどり着けるはず。最悪、文明の亡骸に這うようにして建物の壁や地面にへばりつく、植物の葉でも食ってみればいい。監獄の飯に比べれば上等だ。
「……む」
しばらく歩くと、何者かの気配を感じて、レツェリは足を止めてそちらに顔を向けた。
とうに廃墟となった百貨店。白を基調とした清廉なデザインはとうに劣化し、つる性植物に侵食されて久しい。その角の向こうから、ヒトの舗装した道路を悠々と闊歩する、黒い異形が現れた。
「なんだ……イモータル……ではないな。だが動物とも違う」
「ォ——オ、ォ、ォ、ォ」
金属光沢のようなものを帯びる黒い体表に、レツェリのそれとも違う血の赤の色をした眼。シルエットは巨大な虎のようだったが、ただの動物でないことは明白だった。
呼吸をせず、血も流れない怪物。プログラムされた無機質な殺意を以って、赤い眼で見据える人間を殺戮する。
それは地平世界における、不死の怪物に似ていた。
「ォ、ォ——オハ、オハヨ。オハヨ、オハヨー」
開けっ放しの黒い口腔から、人語めいた言葉が漏れる。しかし意味もなく音として繰り返しているだけで、対話のできる雰囲気ではなかった。
黒い虎は獲物を見つけると、わき目も振らず突っ込んでくる。ぼうっとしていれば、爪で裂かれるか牙で食い千切られるかして、レツェリはこのアスファルトに赤い臓物をぶちまけることになるだろう。
「世の中、どこにいっても怪物はいるらしい」
なすがままにされる義理もないため、レツェリはとりあえず殺害を試みる。
そうと決まれば、景気よく胴体を切断してみることにした。
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