第9話 世界の果てのマイナスナイフ

「——ッ!?」


 家を揺らすかのような衝撃。容赦ない破砕の音がして、硬直するリティのそばに原型をなくした鎧戸や、壁の破片が飛んでくる。

 雨の音が戻る。壁に穴が開いた分、その雑音は大きくなる。

 家族二人の慎ましい団欒を一瞬にして裂いた、一切の前触れなく訪れた襲撃者は、穴の向こうに四本の足で佇んでいた。壁の穴から全貌を窺うことはできないが、先日の魔物と形は似ているものの、大きさは二回りほど大きく、また不自然に姿勢が低い。それから顔が不自然に抉れて鼻がなく、耳は反対にアンバランスに巨大で、象のそれのように垂れ下がっている。

 さらに雨に濡れそぼった体毛も皮膚も真っ白く、そんな生物としてあまりに異質な姿の中でも特に際立つのが、不気味に光る黄金色の両眼だった。


「……イモー、タル」


 イモータルがいても気づかないかもしれない? 馬鹿も休み休み言え。白と黄金の鮮烈な色彩は、激しい雨中であってもよく映える。

 視界に映る光景からその状況を脳が正しく認識するまで数秒を要し、イドラはようやく目の前に現れた存在が、父を殺したのと同じモノであると理解した。これに比べれば魔物など魔法器官を持つだけで、少し狂暴な動物と変わらない。そう思わせるほど、眼前の怪物はどう見ても生命としての正しい枠から外れていた。


「————ォ——」


 喉奥から声ともつかぬ声が漏れ、雨音に混ざる。同時に、満月を思わせる両の眼がイドラたちを捉えたと思うと、突如そちらへ飛び掛かった。頭や肩が残った壁の木板に引っかかり、バキリと音を立ててへし折れる。


「っ!」


 咄嗟にイドラはリティを横へ突き飛ばし、自身も逆側へ飛び退いた。我が身を顧みない、砲弾のような突進が目の前を過ぎる。標的を潰し損ねた前足の暴虐の憂き目に遭ったのはすぐそばにあったテーブルで、時折表面の傷は増えつつも十数年使い続けてガタつき一つなかった頑丈な食卓は、思い出とともに紙細工みたいに簡単にぺちゃんこになってしまった。

 異形の怪物はテーブルだったものの残骸を踏みにじりながら、濡れた白い尾を逆立たせる。そこでイドラはイモータルの姿勢の低さの理由に気が付いた。


 足が短い。前足で言う橈尺骨——橈骨とうこつ尺骨しゃっこつの半ば辺りで、その先がぶつ切りになったように消えている。後ろ足も同じだ。だから立った時の高さが低くなる。

 つまり、手首足首もなく、肉球も爪もない。

 ぞっとした。手足や鼻のようなあるべきものが欠け、あってはならない体に見合わぬ巨大な耳を持った、生物としての不完全さ。それから、そんな有り様でありながら、敏捷に動いては力に溢れた破壊を撒き散らす不自然さ。


「……ひっ」

「————ッ」


 なんておぞましい。

 恐れを抱いて後ずさるイドラに、一対の黄金が向けられる。リティと離れ、今度はイドラのみを標的に定めたらしい。その事実だけで呼吸がうまくできなくなる。


「イドラッ!!」


 ほとんど悲鳴に近い呼びかけは、リティもまた白と黄金の乱入者が、まずはイドラを殺そうと定めたことに気付いてのものだろう。

——そうだ、母さんから遠ざけないと。

 混乱する思考の中、明白だったのは、自分たちの骨や肉はイモータルに紙細工同然に叩き潰されたテーブルよりも壊しやすいという事実。怪物の脅威のみ。

 母を守らなくては。リティの声が呼び水となり、使命感がパニックになりかかったイドラを救い、呼吸を思い出させた。


「外に……!」


 狭い家の中に、もはや逃げる場所などあるまい。イドラはイモータルの黄金の眼が自身をしっかりと捉えていることを確認し、今しがた新しくできたドア、要するにイモータルが開通させた壁の穴から外へ飛び出た。

 途端に土砂降りの雨がイドラの体を打ち付ける。しかし雨の冷たさは、未だ混乱の氾濫しそうな頭をいくぶんか冷静にさせてくれるように思え、不快ではなかった。


(……甘い匂い? どこから?)


 ふと雨のにおいに混じって、花のような香りを感じた。が、すぐに降り注ぐ滝の雨に掻き消されてしまい、気のせいだったようにも思える。

 振り向くと、狙い通りイドラを追ってイモータルも穴から這い出てきていた。これでリティは、少なくとも当面は安全のはずだ。

 視線を一瞬だけ外し、地面に目を凝らす。雨でぬかるんだ土に刻まれた四足の、肉球や爪のない大きな丸い足跡。その痕跡は森の方角から続いていた。

 森——先日魔物が入ってきた山の方角とは正反対。村を挙げての警戒も無駄になるわけだった。十分すぎるほどに目立つ異形だ、この雨さえなければ、距離があっても気づけたやもしれないが。


「ォ、ォォ————」


 ゆっくりと、歪な足で怪物が近づいてくる。

 遅々とした動作が嘘であることを既にイドラは知っている。先の突進は魔物のそれと変わらない速さだった。見た目がアンバランスなら動きまでちぐはぐで、速かったり遅かったり、統一された意思を感じない。


「どうしよう……どうする」


 リティからは離した。それはいい。

 だが、その先は。ここからどうする。黙って食い殺されるのは死んでも嫌だ。死ぬから嫌だ。

 人を呼べばどうだ。一番頼りになる、とても優しくて、遠い壁の向こうで輝く星のような、あの人を——

——無理だね、ワタシが向かってもまず殺される。


「ダメだ、ダメだっ……!」


 ウラシマに頼れ。魔物の時と同じように、颯爽と助けてもらえ。

 安易かつ、もっとも適切に思える解は、思い出した言葉が否定した。否定せざるを得なかった。

 単純にイモータルを連れてウラシマの家まで村を歩き回るのが、自身と周囲にとってあまりに危険なのもある。台風と散歩をするようなものだ。

 だがなにより——心優しいウラシマであればイモータルと面した時、敵わないとわかっていても村の人のために立ち向かうかもしれない。それは村の外の人間にさせてはいけないことだ。

 イドラの個人的な感情としても、ウラシマが死ぬなどとても許容できない。一瞬の間想像するだけで幼い胸が張り裂けそうになる。


「僕がなんとかするんだ、ひとりで」


 可能性はひとつだけ。

 あの日、ウラシマは葬送協会が行うイモータルの無力化——葬送についても軽く話してくれていた。曰く、殺せない怪物は地中か海中に沈めてやるのだと。

 地中は無理だ。そんな都合のいい穴は地面には開いていない。

 海。村を出て森を越えて、海辺へと誘導し、なんとかして海中に沈める。それしかないだろう。

 村の中に留まれば留まるだけ、標的が移りかねないリスクに晒され続ける。そうなれば見知った誰かの死体が増える。ウラシマやイーオフの。

 結論が出ると同時に、イドラはイモータルがついてきていることを確認しつつ、泥はねも気にせず森の方角へと駆け出した。


(聖水もなしにできるのか……!?)


 葬送とは本来、それを本職とする協会のエクソシストたちが何人か集まり、地形などを考慮した綿密な戦略を立て、葬送檻穽そうそうかんせいや聖水の事前準備をしっかりとして、そしてそれでもどうにもならない危機を無事に超えられるようロトコル神に祈りをささげてから臨むべき作戦行動だ。

 優れた人員も、策の具体性も、道具も経験も、なにもかも足りていない。ついでに言えば信仰も。


「はぁ、はッ、はぁっ——」


 早鐘を打つ心臓。葬送の真似事など、言うまでもなく十三歳の子どもがひとりでできるものではない。

 成功する確率が限りなく低いのは考えるまでもなく明白だが、それでもやるしかなかった。とにかくこの怪物を村の外に連れ出さねば、たちまち愛する村は蹂躙されてしまうだろう。

 酷い土砂降りの中を疾走する。まだ昼下がりだというのに、視界はけぶる雨で著しく悪い。振り返らずとも、足音からあの白と金の怪物が追ってきているのがわかる。

 視界が悪くとも生まれ育った土地だ。方角くらいは感覚でわかる。夢中で体を前へ前へと動かす中、イドラの頭をぐるぐると回るのは『本当にこれでいいのか』という答えの出ない疑問ばかりだ。焦燥と混乱が堂々巡りの迷宮へと思考を誘う。


 だが、イドラは比較的適役ではあるはずだった。

 年齢的な小柄さからすばしっこく動けるし、最悪なにか怪我を負ってもマイナスナイフで治せる……はずだ。重い負傷なんかで試したことはないから、実際のところはわからないが。

 でも、できる。可能なはず。

 深手を負ったとしても、マイナスナイフですぐに治せる。だがそもそも、そんな傷は負わない。うまくやれる。森を抜けて海辺に出て、崖になってる岩場かどこかを探し、追ってきたイモータルだけを突き落とす……。

 難しくとも、きっとできる。村を守る。母を、友を、ウラシマを守る——

 そんなイドラの願望と決意は、森に入ってすぐに呆気なくへし折られた。


「——、ぁッ」


 森に入ると同時に、白くけぶる周囲に突然太い柱のようなものが浮かび始める。乱立する木々の幹だ。息を切らして疾走するイドラにとってそれは紛れもない障害物であり、それを避けるべく減速したことが間違いだった。

 背を殴りつける衝撃。イドラが思うよりも間近に張り付いていたその怪物は、減速の隙を逃さずイドラの体にそのままぶつかった。子どもの足で距離を保てるはずがなかった。

 甘い目論見だけでなく、背骨まで折られなかったのはまだ不幸中の幸いと言うべきだろう。軽々と吹き飛ばされたイドラの体は、数メートル先の別の細い木の幹にぶつかって止まった。


「づ、ぐ——っ、うわあっ!?」


 痛みにもだえる暇もなく、ガサガサと昆虫めいた動きで再度迫ってくる怪物が視界に入り、必死に横へ跳ぶ。イドラの濡れた茶色の後ろ髪を掠ったイモータルの短い前足は、周囲の木よりは細いと言えどイドラの胴体とそう変わらない幹を巻き込み、小枝に触れたかのように叩き折った。まさに間一髪、少しでも遅れていればイドラの首は今頃、枝先に実る果実をもぐかのごとく転げ落ちていただろう。

 しかし、激しい動きをしたせいか、低姿勢の化け物は倒した木の上に前足を乗せて追撃を止めている。あるいは不死のイモータルでも息を整えるため、休憩くらいは必要なのか。


(…………いや、息、してない)


 よくよく見れば、それは口を開いてはいるが、呼吸そのものはしていないらしかった。息を荒げるイドラと違い、その怪物は肩を上下させたりはしていない。

 呼吸さえ要らない化け物が、疲労など覚えるものなのか。

 不死——

 それはどの程度、生命が従うべき原理を超越しているのか。

 イドラにはわからない。今は、ただ、海へ向かわねば。森を抜けて。


「っ、ごほ」


 だが立ち上がると同時に、強い目まいがイドラを襲った。同時に吐き気とも違う、胸からなにかがせり上がるような感覚がして、一度咳をする。わずかだが血が上ってきて、鉄の味が口に広がった。

 背にぶつかられた際に、内臓がいくらか傷ついていたようだ。目まいの方はその直後に木で止まった時、頭をぶつけたせいだろう。


「ォ、ォ——」


 黄金の両眼が、ふらついたイドラを視線で射抜く。

 誘導のチャンス、そして逃走のチャンス。その唯一とも言える機を失ってしまったことを、イドラは理解せざるを得なかった。

 もう逃げきれない。完全に標的として定められた以上、これ以上距離を開くことは不可能に違いない。

 だったらどうすればいい。魔物とは違い、相手は絶対に死なない化け物。倒せない怪物。

 結論など考えるまでもなく出ている。ウラシマでも殺される窮地を、イドラが切り抜けられる道理が一体どこにあるのだろう?

 気づけば、白い暴力が眼前に迫っていた。恐怖が思考と動きを鈍らせる。一歩遅れて飛び退いたイドラの左腕を、鞭のように振るわれた尾が弾いた。


ッ、ぁああっ!?」


 掠った程度だと思った左腕は、肘がねじれてあらぬ方向へと折れ曲がってしまっていた。皮膚が裂け、吹き出た赤い血の中に白いものが覗いている。肘頭ちゅうとうが外に出てきてしまっているらしい。

 どう見ても大怪我だ。もう完治はすまい。

 一生、片腕を使えない——その事実は、あるいは眼前に突きつけられている死の暗闇よりも、確固たる具体性を伴っていた。ほとばしるような痛みにも苛まれ、平静さを失ったイドラは動く右手を腰に伸ばす。

 かすかな音を立てて、鞘から青い刃が引き抜かれた。


「治れ……っ! ぐぅッ」


 自らのギフトを信じ、マイナスナイフを壊れた左腕に振り下ろす。刃が肉を破り、神経を断つ激痛が走るも、元々肘がねじれた痛みで痛覚は飽和しており、感覚的にはさして変わらなかった。

 マイナスナイフは傷を治す。しかし、その能力の詳しいところまでイドラは試していない。だから、ここまで機能を損傷した腕を治せるかと問われれば、冷静に考えれば怪しいところではある。

 が——痛みに耐えるイドラの視界には、時が巻き戻ったかのように、ねじれのない正常な姿を取り戻した自らの左腕があった。


(……治った。重い怪我も、このナイフなら簡単に——)


 唯一残った血液も、激しい雨が洗い流していく。瞬く間に腕は元通りになった。それに従い、痛みもゆっくりと引いていく。

 無残な形に成り果てた腕が元に戻ると、冷静さもいくぶん返ってくる。

 マイナスナイフは、重い怪我でも治せるようだ。しかし結局、その『重い』がどれほどなのかは特定できない。今回は腕がねじれる程度で済んだ——と言ってもイドラにとってはこの十三年間で間違いなく一番の大怪我だったが——ものの、ならば腕がちぎれ飛んだり、血が多量に吹き出た状態でも治しうるのかは疑問が残る。

 けれども、少なくとも腕がねじれて骨が突き出るくらいであれば、問題なく即座に完治させられることはわかった。


「諦めちゃ、だめだ……! 僕がなんとかするんだ、こいつを」


 想像以上の回復力は、折れた決意まで補修してくれた。不死を相手に耐久力を張り合うなど馬鹿馬鹿しいことこの上ないが、いくらかの時間的猶予は稼げるはず。

 そして、隙を見つけて、今度こそ海に向かわせて葬送を試みる。


「————ォォッ!」

「くっ……!?」


 立て直しを図るイドラと、させまいと前足を振り上げる怪物。イモータルは個体差が大きいものだが、大抵、目の前の獲物が突然傷を完治させようが気に留めるほどの理性はない。ただ淡々と人間を殺す。生命としての使命が欠落した怪物は、それだけを行う。

 ただ、このイモータルは足が短い。イモータルに多い機能的欠陥だ。それゆえに、殴打するように振るわれた足先の軌道を読むことは、いかに敏捷な怪物の動きであっても不可能ではなかった。

 手に持ったナイフで、咄嗟に斬るようにして弾く。


「——ッ」

「——?」


 その時、不可解なことが起きた。

 マイナスナイフの刃に触れられ、浅く斬られたイモータルは、小さくうめくような声を出して飛び退いたのだ。それは反射的な、まるで初めて火に触れた子どものような反応に見え、イドラも疑問を覚える。

 距離にして五メートル。間合いが開き、両者が動きを止めていた。疑問を覚えていたのは双方とも同じだったのかもしれない。

 前足の傷口から、さらさらとした血液……ではなく、白い砂が流れ落ち、雨に濡れて地面で固まる。

 イモータルに血は流れない。では、あの砂は?

 不死の怪物が傷を負った? それはつまり——


「…………え? 効いたのか、今の」


——マイナスナイフの刃は、不死性を損なわせている。

 509年間。これこそ長きにわたり、聖封印を除き人類が葬送という手段でしか対処できなかったイモータルが歴史上初めて、人知れず世界の果てで傷を負った瞬間だった。

 そしてこの日が、正真正銘最初の、不死の怪物が殺される日になる。

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