第8話 リティ

 魔物たちが山から下りてきてから、村はピリピリとした警戒態勢に入っていた。

 シスター・オルファによる魔物除けの聖水も普段より多く一帯に散布され、さらに万が一の襲撃に備えて突貫工事で簡易的な見張り小屋を建てて、そこへ武器を携えた男性の村人が交代制で入り、村の入口を見張るようにした。また、なにとなれば村を捨てて北に逃げる、最悪の事態を想定した取り決めも村長を中心になされた。

 ウラシマの誘いを受けようと決心したイドラではあったが、そんな村の雰囲気からここを出るとは言いづらく、軽い見回りなんかに協力しながら過ごしていた。


「また雨かぁ……」


 魔物の襲撃から五日。村を包む緊張と二日連続の雨とで、倦んだ気分で居間のテーブルにつっぷした。木の表面がわずかにひんやりとして気持ちがいい。が、そんなものは慰めにもならない。

 ずっとこのままでは、村を出る決心さえ鈍ってしまいかねない。

 自身よりも歳上の、生まれてからずっとこの部屋にある厚い机の木目を指でなぞりながら、イドラはどうにもならない焦燥感を持てあましていた。


「憂鬱そうね。ママは可愛い息子といられて楽しいわよ?」

「朝から恥ずかしいこと言わないでほしいかな、母さん」


 机の上に二つ、熱いお茶を置いてリティは向かいに座る。湯気を立てる淡い黄金色の液体は、それぞれリティお気に入りの黒い陶器に注がれていた。

 食器を作るのがリティの趣味でもあり、イドラも何年か前に勧められてやってみたことがあったが、どうにもデコボコな代物しか作れずイドラは自身の不器用さを悟った。母はこれはこれで味がある、と言ってくれはしたが。


 茶を啜り、イドラは開けられた鎧戸の窓の向こうで降りしきる、バケツの水をひっくり返したみたいな降雨を見るともなしに見る。雨なのに窓を開けているのは万が一魔物が村に入ってきた時、それを知らせる声を聞き逃してしまわぬようにだ。鐘の一つでもあれば窓越しだろうが雨の雑音にかき消されることもないのだろうが、簡易教会さえない小さな村ではそれもない。

 もっともこれだけ雨がひどければ、見通しが悪すぎて魔物どころかイモータルがいても気づけないかもしれないな……。熱い液体を喉に通しつつ、イドラはそう思った。


「魔物が入ってきたって聞いた時はびっくりしたけど、もう五日経ってもなんともないし、雨が上がった頃には村も元通りになりそうね」

「母さんは楽観的だ。そりゃあ僕も、そうなればいいって思うけどさ」

「イドラの方こそ臆病すぎ……ううん、そうでもないか。例の魔物、倒したんだものね。ひとりで」


 三匹のうち、ウラシマが二匹を瞬く間に倒し旅の力量を見せたが、一匹は驚くべきことに『ザコギフト』などと普段からからかわれ続けてきた村のイドラが倒した。このことは、一瞬にして村中に知れ渡っていた。ニュースに乏しい村だから耳目を引く話題が伝播しやすいというのもあったが、イーオフが広めているのも要因だった。

 これまでイドラは、村の人たちにはよくしてもらっていた。だがそれはどこか同情的でもあった。

 幼くして父を亡くし、母と二人きりでつつましく過ごす大人しい子ども。ギフトも弱々しく、魔物どころか動物にさえ狩れず、文字通り歯が立たない。


 そういう評価だ。かわいそうな子、という前提あっての気遣いだと、イドラもわからないほど鈍感ではなかった。

 それが今やどうだ。被害を未然に防ぎ、勇気を持って魔物に打ち勝った、まるで勇者のような吹聴をされてさえいる。これまでの反動なのだろうか、明らかに過大評価だと、イドラは諸手を挙げて喜べない気持ちだった。

 村のそんなある種偏った見方を、母はどう思っているのか。イドラが顔を上げると、リティは一度目を閉じ、どこか懐かしむように言う。


「……ママね。イドラのギフトが役に立たないって聞いて、嬉しかった」

「嬉しかった?」


 突然の告解にイドラは目を丸くする。

 当時のことはイドラも覚えていた。十歳になって、天恵が文字通り空から降ってイドラのもとに届いた日。マイナスナイフを初めて手にしたあの誕生日に、イドラはすぐにリティといっしょにオルファのところへ向かった。

 天恵試験紙では、最高値のレアリティに欣喜雀躍きんきじゃくやくした。だが、そしてすぐに、紙も切れない事実に気づいて落胆した。


 その消沈のほどは、下手にレアリティが高すぎたことがかえって深さを増し、情けないことに涙さえ流した。

 ところがリティはそんな時、笑って励ましてくれたのだ。むしろ喜ぶように。

 イドラはただ、母は自分が十歳の誕生日を迎え、なんであれロトコル神の恵みたるギフトを手にしたことが嬉しいのだと思っていた。たとえそれがハズレで無価値なザコギフトであっても。

 だからもしも、役立たずのマイナスナイフではなく、イーオフのプロミネンスのように派手で強力なギフトだったら、母はもっともっと喜んでくれたのではないか……そうイドラは自然と考えていた。

 しかしそれが誤りなのだと、リティは告解を続ける。


「だって。そんなに弱いギフトなら、イドラは家を出て行かない。あの人みたいに、王都に行って働こうだなんて思わない」

「かあ、さん」


——それは紛れもなく、この家にいない父の話だった。

 イドラに父はいない。

 ずっとそうだった。記憶もひどくおぼろげで、顔さえ憶えていない。

 イドラに父はいない。

 気づけば亡くなっていて、家にいないのが当たり前で、話に出すこともなかった。どこか家庭内におけるタブーのようになっているとも、イドラは感じていた。

 イドラに父はいない。

 しかし、人はギフトのように、空から落ちて産まれはしない。


 人が生まれるには、間違いなく母がいて、そして父がいるのだ。父のいない子など、この世のどこにもいはしない。

 その名はヤウシュ。リティの夫であり、イドラの父親だった誰か。

 名は無論知っている。だがその顔や人となりを、イドラはまったくと言っていいほどわからない。

 けれど——いないなんてことは、ない。ヤウシュがいるからイドラがいる。普段は意識できなくとも、それだけは揺るがしようのない事実だった。


「イドラは知らないだろうけれど、十年くらい前……イドラがまだこんなに小さかったころ、北のテシプ連邦とこの国は危うく衝突しかけていたのよ。その関係で募兵があって、あの人は王都に行った」


 まるで初めて聞く話だ。

 北の国のことも、自身の国——ウドパ王国のことも、イドラにとっては父と変わらない。

 名前だけ知っている、程度の存在。今現在の自分の生活では、特別関わったり、意識したりすることのないもの。


「大陸をほぼ二分する国同士の戦争……そう言えばおおごとでしょ。でも、だからって国境から正反対の、こんな大陸の端っこの村とは大して関係ない話だって思わない? ママは思って、あの人に言った。イドラのそばにいてあげたら、って」

「そんなことが……父さんはなんて返したの?」

「笑って言ったわ。イドラに色んなものを見せたり、不自由なく暮らせるようにしたいんだって。ママもあの人もこのメドイン村で育ったけれど——あの人の黒々とした目は、いつも村の外に向いていた。いつかの昔、こうも言ってたわ。のどかさ、平穏さっていうのは、緩やかに絞まる鎖なんだって」


 緩やかに絞まる鎖。リティが「てんでわからない」と無理解をにじませながら口にしたその表現は、イドラの胸にはすとんと落ちた。

 同時に、自分と同じようにプレべ山の彼方、頂きの白を眺める顔も知らぬ若き父の背姿を想像する。

 イドラがこの穏やかな村の四方に、世界と隔絶する高く険しい壁を感じていたように。ヤウシュもまた、この村で重ねる日々の和やかさに、自らの首に巻き付いて絞まる鎖を幻視したのかもしれない。


「……本当は、三年もすれば戻ってくるはずだった。割りのいい兵役をこなして稼ぐだけ稼いだら、たくさんの土産話を持って帰ってくるはずだった、のに。あの人は帰ってこなかった! 骨のひとつもッ!」

「——。聞かせてほしい、母さん。これまで父さんのことは中々訊けなかったけど、父さんは、どうして死んだの?」

「イモータルよ。国境近くに現れたイモータルが、あの人を殺した。全身の骨を粉々に砕いて」

「イモータルが……? 骨を? どうして」

「理由なんてない、あったとしても人にはわからない。いい? イモータルっていうのはそういうものなの。物も食べず、睡眠もとらない、異常行動の不死の怪物。あなたが見ようとする世界には、そんなのが自由に歩いてる」


 そう言ってリティは立ち上がると、家族二人で使うには多すぎる食器が収められた棚の上から、小さな、横に長い箱をそっと持ってきた。


(あんなところに箱? 知らなかった)


 ことん軽い音を立ててテーブルに置かれたそれは、なんの装飾もなければ文字も書いていない、簡素な木の箱だった。イドラはその存在さえ知らなかったが、棚の上にあったにしては、表面にほこりは薄っすらとも積もっていない。


「なんて、引き止めたって無駄でしょうね。あなたの目はあの人とおんなじだもの」


 薄い微笑を貼り付けながら、リティは箱の蓋を開ける。


「これは……ナイフ?」


 収められていたのは奇妙な刃物だった。短剣に分類されるのだろうが、握りやすそうに窪んだ柄からはその両端に刀身が伸びている。双刃——これではせっかくの短剣も取り回しが著しく悪くなる。

 へんてこで使いづらそうだ、とイドラは率直に思った。まず誰かのギフトだろう。おそらくは、父の。

 しかも左右対称に伸びる刃は、翼のように広がった形をしている。ギフトは決して壊れない性質を持つからよいが、もし普通の金属でこのような形状を取ろうものなら、たちまち端から割れたり欠けたりしてしまい、観賞以外の用途に耐えられはしないだろう。無論、壊れなくとも扱いづらさは推して知るべし、と言ったところだろうが。


(でも——綺麗だ)


 箱に仕舞っているのがもったいなく思えるほど、その薄く透き通る刃は美しかった。

 まるで幽玄さが満ちる人知れない秘境を舞う蝶のはねのような、翡翠の色をした刀身。もしかするとギフトではなく王都か、葬送協会のあるデーグラムとかいう大きな町辺りの工芸品なのではないか、とイドラは本気で疑い始めた。

 それにどこか似ている。腰に差す、マイナスナイフの青い刃と。


「翠蝶、帰ってきたのはこのギフトだけ。北の国からやってきたイモータルはあの人のいる基地を荒らしたあと、やってきた葬送協会に埋葬された。あらましを聞かせてくれたのは協会の人だったわ、犠牲者は両国含めて十人以上出たそうよ」

「十人以上も……父さんはそれに巻き込まれた」


 イモータルとは一種の災害のようなものだ。

 そもそも死なないので、食事も睡眠も必要としない。生息しようと思えばどこにでも生息でき、そのくせ人を見れば基本的に襲うため、いきなり現れては殺戮の限りを尽くす。

 509年前初めて世界に現れたとされるイモータルは、葬送協会と名を冠する前のロトコル教会が、聖封印と呼ばれる最初の葬送を行うまでの丸三年間大陸を荒らし続けた。それほど凶暴で強力、かつ巨大なイモータルはそれ以来現れてはいないが、大きめの魔物サイズのイモータルでも束になった人間を易々と殺しうる。


「そう。イドラは、そんな怪物に出会うかもしれない旅を始められる?」


 リティの問いは、しかしイドラの決意を迷わせるものではなかった。

 ロトコル大陸にいる限りイモータルの恐怖はついて回る。旅に出ようが出まいが同じことだと、イドラは考えていた。

 そのことを察したのか、リティはわずかに表情を曇らせて、さっきより力のない声で続けた。


「……わかってる。今更、よね。ウラシマさんに出会って、あなたの決意は完全に固まってしまった」

「ごめん、母さん。僕はこの村のことが好きだけど、もっと色々なものを見てみたいんだ。だから——」

「いいわ。あなたはあの人と同じ。……ママがイドラにとっての鎖になってちゃ、あの人に怒られるわね。どこへなりとも行きなさい」

「いいの……!?」

「もう決めたこと、なんでしょ。私の都合でイドラを縛り付けるなんてどうしたってできない。しちゃ、いけない」


 箱に収められた短剣の、蝶の翅のような翡翠の刀身を愛おしげに指で軽く撫でる。


「ただし、これだけは守ること。たまには戻ってきて、元気な顔を見せる。あの人と同じ道を辿っても、同じに結末にだけは至らせない」

「……うん。わかってる、僕まで殺されたりなんかしない。幸い、僕のギフトは傷を治せる。まだ詳しい検証はしてないけど……絶対また帰ってくるから」

「よろしい。それから、もうひとつ——もしも旅先で、どうしようもなく困ってる人がいて、助けたいと思った時は必ず助けること」

「人に優しく、ってこと?」

「平易な言い方をすればそうね。いい、イドラ? 私たちは、ロトコル神からの恵みに感謝して生きていかなければならない。けれど、神は人に恵みを与えるもので、救いを与えるものではないの」

「……? それって、違うこと?」

「同じになることもある。でも、違うこともある。大きな言い方をすれば、大地を創ったロトコル神は私たちに生を恵んだ。そして生まれた以上は歩まなくてはならない。けれど、神が与えるのは長い道の始まりだけ。あくまで、生という前提のみ」

「??」


 リティの話はまだ十三歳のイドラには難しかった。そもそもどうしていきなり神様の話題になったのかさえわからず、とんだ飛躍に疑問符を浮かべる。

 リティはその反応に、もとより伝えきれると思っていなかったのか、くすりとだけ笑った。それから箱の蓋を閉じ直すと、息子のそばに寄る。


「とにかく。こんな世界で旅をするのは簡単なことじゃないから、目に映るすべての人を助けるなんてのは、きっと神でさえできないことよ。でも、だからこそ——本当に助けたいと思った相手だけは、なにがなんでも助けなさい」


 母の手が、そっとイドラの頬に触れた。

 その言葉もまだ少し難解ではあったが、自身とは色の異なる茶色がかった愛する母の目から、言わんとすることは伝わってきた。


「大丈夫だよ、母さん。僕は母さんに育てられてきた息子として、恥じない行いをする。どんな場所でも」

「——。そうね。あなたは優しくて、真っ直ぐな子だもの。ただ、それだけに折れてしまわないかが心配……ううん、ウラシマさんがついていてくれるならそれも平気かしら。過保護ね、ママも」

「そうそう、先生も……って、あれ? 言ったっけ、僕? 旅の時ウラシマ先生についていくのって」

「ママね、実はもう聞いてたのよ、そのこと。感謝祭の前日、ウラシマさんが朝からやってきて……息子さんが必要だから旅に同行させてほしい、って。いやあ、いきなりすぎてもうママびっくりしちゃったわぁ」

「ええーっ!?」


 大人としての誠実さというか。ウラシマは、感謝祭の夜にイドラへ選択を突きつける前から、リティにその旨を話して筋を通していた。

 そんなことをまったく知らなかったイドラは、だから感謝祭の日の朝、ウラシマと話したことのある素振りだったのか、などと遅れて納得をすることしかできない。


「ふふ。やっぱり、湿っぽいのはやっぱりママには合わないわ。どうせもうしばらくは村にいるんでしょ?」

「あ、うん。ウラシマ先生も僕が大きくなるまでは待ってくれるって。二年……いや、一年もすれば出て行こうと思う」

「一年って。よっぽど家を出たいようねぇ、イドラ? そんなにママと暮らす日々に嫌かしら?」

「そっ、そういうわけじゃ……」


 狼狽える我が子を見て、朗らかにリティが笑う。

 たった二人きりの家族。しかし悲壮感などまるでない、いつも通りの朗らかで和やかな空気が戻ってくる。

 旅に出たいのはイドラの本心だったが、同時にこの家に帰ってきたいと願うのもまた本心だ。一つ目の約束通り、ウラシマとの都合もあるかもしれないが、できる限りちょくちょく戻ってこようと強く思う。


「冗談よ。だったらこれからの一年間は、しっかり家のために仕事してくれないとね。なにしろこんなに綺麗で優しいママをひとりにするんだから! 家にいるうちにたっくさん親孝行してもらうわよ」

「う……わかった。これからは洗濯とか、僕が川の洗濯場まで行ってやってくるよ。家の掃除とか、料理も」

「ふふん、いい心がけね。ま、慣れないうちはママが教えてあげるわ。旅に出ればきっとどれも必要な——」


 その瞬間、イドラは外の雨が止んだ気がした。

 しかしそれは気のせいで、実際は雨の音が轟音にかき消され、聞こえなくなっただけだった。そうしてイドラは、テーブルの向こうの鎧戸が壁ごと呆気なく吹き飛ぶのを見た。

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