第百七十一話 黒硝子の懐剣


―_-◆_+★_*+-【 千里 目線 】-+*_★+_◆-_―


「……分身の大鴉が死んだ」

 

 私達が座る紫電の鳥籠は、花筏流れる渓流に浸る。薄紫の春夕と境界を分かつ、薄青の空に輝く虹の日暈ひがさを眺めるのを止めた私は、隣の黒曜を振り返った。憂いを帯びた睫毛が開かれると、その端正な横顔の輪郭に艶やかさの深みを知る。黒曜石のまなこ透明感クリアを与えていたのは、澄んだ角膜。かつて瞋恚しんいの熔岩だった、生ける黒硝子は内なる信条に従い真っ直ぐに、まだ見えぬ敵を鋭く射る。

 

 研ぎ澄まされた光は、臆病な濡羽姫わたしには強すぎた。眼下を躊躇いに一瞥すると、鳥籠の中の炎陽は腕を組んだまま瞼を閉ざしていた。


「翠音は無事なの? 」


「ああ。だが、私達にとって状況は芳しくないようだ。私達の居場所に気づいた彼らは、ここへ辿り着くだろう」


 胸が裂かれたような衝撃に、私は状況が一変した事を知る。『友人』だった翠音が、智太郎達の協力者になった可能性があるのか。

 

「なら、この『春夕の隠世』を保たないと。翠音が智太郎達と連れ立つ狙いが分からない以上、炎陽の根源が奪われる可能性があるから」


 炎陽を愛し守ろうとしていた翠音が、炎陽を危険に晒すとは思えないが……警戒は必要だ。炎陽の根源ごと、智太郎の『救済』をに、隠世の心象風景イメージを強く創造しなくては。未熟なわたしに出来る事は努力しかない。


 だが……ふと、不安が襲う。翠音が智太郎達の味方についたのは、私が翠音にことが出来なかったせいではないか? 智太郎達は、人に恩恵をことが出来る熱情の気質がある。

 私は差し出した両手の内へ、さらさらと 真砂まさごのように恩恵を与えられてばかり。私を守り続けてくれた、大切な人達へ温かさを返すすべをまだ知らず。それは、約束を交わした黒曜に対しても同じだった。


「ねぇ、黒曜はさ……私との約束を、今も守ろうとしてくれているんだよね」

 

「……智太郎が千里の命ごと断罪する気であれば、『人を殺めない』という約束は守り続ける事は出来ない」


 顔を上げると、まなこを僅かに揺るがした黒曜には躊躇いの残滓があった。私は彼の躊躇いが潰えぬように祈りたくなった。

 

 黒曜の過去夢で刃を翻されて雪が憎悪と共に命を奪われた『前世』も、結末を変えることが出来ずに雪を眼前で救えなかった、己穂わたしの『崩壊した過去夢』も……癒えない傷魂しょうこんを掻き回し続けているから。


「勿論、私はかつての雪のように、黒曜に智太郎を殺めて欲しくは無い。憎悪に溺れ、後悔のふちに共に沈むのは嫌なの。だけど、今私が言いたいのは……『妖と人との対立を終焉へ導く約束』のこと。妖となった私は約束を守れなかったから。運命さだめも変えれず、約束を破った私を恨まないの?」


「私がいる限り、その約束はまだ破られていない。それに、約束と身勝手な渇望に縋るままに千里の魂を瞋恚しんいの夜に堕とし、妖にしてしまったのは私だ。千里に恨まれても、私が千里を恨むことなど有り得ない」

 

 春夕の穏やかな花冷えに、薄紅桜の花弁舞う。迷いなく答えてくれた黒曜に、艶やかな漆黒の翼で包まれた私は鼻先がツンとする。魂に染み入る温もりとゆるしに、もうすぐ涙が滲むのだろう。

 

「そっか……やっぱり、私は黒曜の優しさが好きだから……最後には貴方を恨めないよ。私、黒曜に大切な事を言っていなかった。約束を今まで守り続けてくれて、ありがとう。だからこそ、私は黒曜の本当の願いを叶えたい。貴方の願いと私の願いは同一なの」

 

 ――私の願いを叶える神は居ない。なら、私自身の手で願いを叶えなければ。


 

「私、黒曜を人に戻してあげたい」



 黒曜の想いへの恐怖フォビアごと、私は浮世離れした美しいかんばせに向かい合った。揺らいだとしても、黒曜石のまなこは彼に名を与えられた事を誇りに思わせて、私は涙が零れるままに微笑した。

 

「まさか……炎陽と私の話を聞いていたのか」


「そうだよ、ごめんね。方法なんて、まだ分からないけれど……黒曜にはもう瞋恚しんいの焔に焼かれて欲しくない。安寧の中で『人の愛』を知って、穏やかな時間を過ごして欲しい。これは己穂の頃から変わらない、私の願いだよ。黒曜の魂の受諾だけじゃ……返すことの出来ないと約束の対価にはならない」


 黒曜は傷を負っていた事を自覚したように秀眉を寄せると、滑らかでひんやりとした掌で私の手首に触れて引き寄せた。瞬く私が触れていたのは、彼に捧げられた黒い焔の心臓だった。白い躑躅つつじが咲く、強い鼓動から伝わる熱に私は躊躇いで手を引きかけたが、重ねられた掌の力は強い。

 黒曜は切望を瞬いた睫毛の奥……青紫と紅紫色の光芒を水面の反射光ごと、黒硝子のまなこ透明クリアへ映す。惹き込むような鋭い瞳孔に、僅かな怯えを思い出した私を逃さない。

 

「己穂が……千里が生きていてくれるだけで良いと思っていたのに、私は高望みをやめられない。人に戻りたいと願うのは、千里も同じだろう? 千里は、妖である忌まわしさに苦しみ続けているのだから」

 

「私は、智太郎を『呪い』で救い続ける為に、妖で在り続けなくてはならない。妖として在り続ける理由が無くなるが来て、人に戻れる方法があるならば……私も妖である夢から覚めるのかも。独りの未来を想像するのは、ちょっとだけ怖いけど」


 私は臆病に睫毛を伏せる。智太郎が『人』として幸せな生を終えた後に、墓石へ花束を捧げる未来なんて、本当は考えたくなかった。

 妖として永い時を生きた末路に『過去夢』の中で最期を終えても、永い時の末に人として妖の忌まわしさから解放されて新たなせいを得ても……明け方の空から星達が消えるように置いて逝かれる事は変わらない。恐れ続けていた虚ろな孤独は、私を待ち望んでいる。

 

「私達が人に戻る時は同じであるべきだ。千里が居てくれるなら……例え人に戻る願いが叶わずとも、私はどんな選択も恐れないでいられる」


「そうだね。戦いが終結したら、人に戻る方法を一緒に探しに行こう。だから、お願い。もう『雪』を……智太郎を殺めないで。私を黒曜への憎悪に、


「私は千里を独りにはしない。だが……」

 

 懇願するように顔を上げると、黒曜は……葛藤に瞼を震わせながら、自らの心臓に引き寄せていた私の手を緩める。私は小さな絶望に我慢ならず、滑らかでひんやりとした掌を追いかけるように掴んだその時。


 ――私の翼の耳を、甲高い耳鳴りが貫く! 見上げた薄紫の春夕が幻惑であることを暴かれたように、朧に乱れ始める! から干渉されているのだ。

 

「俺の出迎えが来たようだ」


 眼下の鳥籠の中、嵐を待ちわびたように笑みを深めた炎陽が緋色の双眸を開いた。

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