第百七十話 翠と紅の慈雨
――*―*―*―〖 智太郎目線 〗―*―*―*――
「やけに静かだな」
影茨が消失したとはいえ、美峰に頭を撫でられる綾
それでも綾人が戻ってきてくれた事に、美峰は安心したように微笑していた。彼女の膝上で、治りかけの傷にぼんやりとする綾
「また影沼かっ!? もう呑まれるのは勘弁してくれ!」
寝たきりの綾
約束通り、影沼は弾けた。透明になって、逆さまに降るのは何だろう。一度高く天へ捧げられたと思った雫は、陽光の元に甦る。
若葉の色と桜と
音僅かに肌を濡らす慈雨は、冷たいはずなのに。
慈雨を連れてきたのは一人では無く、手を繋いで翡翠の双眸で向かいあう二人。波打つ紅の長い髪の彼女は、鏡合わせのように紅の
「このっ……陰険くのいちが!
憤る綾
「師匠の眼前で妹を詰るなんて、活きがいいじゃないの。直ぐに治るように、無駄なエネルギーを消費する口を黙らせてあげましょうか? 」
「ヒィッ……沈黙の
冷たい笑みを浮かべる紅音に、顔を強ばらせた綾
「貴方はもう、私達を襲う気は無いの? 」
「
紅音の後ろから、臆病に翡翠の瞳を覗かせる翠音への答えに俺達は窮する。疑いよりも、思わぬ共感のせいで。大切な人が欠ける事の無い日常を過ごしたいという俺達と翠音の願いは同じなのに、結び方を間違えば再び対立してしまう。
「翠音の『家族』を繋ぎ止めたいという願いに、
自嘲した紅音は伺うように、『共謀者』である俺の答えを待つ。もし、紅音が炎陽への復讐を捨てる判断をするならば、炎陽の根源を得る為に彼女と手を組んだ俺はどうする?
千里の自分勝手な救いを破棄し断罪する為に、妖に戻るのが今の俺の目的だが……炎陽の根源を得ずとも叶える方法はある。俺の根源に刺さる、千里の紫電の針を抜けばいい。
原初の妖である千里に刺された紫電の針は、同じ原初の妖にしか抜けないだろうが、千里と鴉は頷くはずが無い。交渉の余地があるのは炎陽だけだろう。
「紅音達と同じく大切な人と日常をもう一度過ごしたいのは、俺達も同じだから怒る必要なんて無い。俺は炎陽に紫電の針を抜かせて、妖に戻れればいい。根源を得ずとも寿命を伸ばす方法について、炎陽が知っている可能性もあるから、交渉時に聞き出すつもりだ」
「私は張り合いが無い『共謀者』なのに、智太郎は優しいわね。形が変わったとしても、
地を
「
「なら、紅音と俺達の協力関係はまだ終わっていない。翠音も含め、炎陽に会わねばならないのは同じだ。……俺を庇うために、千里は炎陽を追いかけていった。あいつらは今何処にいるのか、翠音は知っているのか? 」
「
「俺は真実を確かめない限り、千里へ復讐を遂げるべきかすら分からない。それは、炎陽へ会わなければならない紅音も同じだろ? 俺達が千里と炎陽を殺すと判断した時、翠音が俺達を殺すつもりなら……監視者になればいい」
千里を守る為に、俺を監視する青ノ鬼と同じだ。俺は自ら敵候補を増やしている気もするが……今の俺に出来る最前の判断をしているだけだ。
「……
やがて、睫毛を伏せた翠音は小さく答えた。
「曖昧な蒼穹の一部を、薄紫の春夕が染めていた。……あれは何だ? 」
「あれは妖にしか見えない幻の空です。『隠世』とは、筆頭の妖が配下の妖を守る為に作り出す防御壁でもあります。誰かが誰かを守ろうとしているのでしょう。炎陽様の隠世の中に新たな隠世を作るだなんて……まるで敵対者が近くにいるようです」
翠音はそれきり答えない。彼女が与えられる手掛かりはここまで、という事か。
「鴉は隠世を持たないんだったな。炎陽以外に隠世を作れるのは……一人しかいない」
千里はあの薄紫の春夕の下にいる。敵である俺達から炎陽を守る為に『隠世』を作り出した。そういう事だろう。
「なら、薄紫の春夕の方角を目指そう。……『友人の隠世』にノックくらいはしてくれるだろ、翠音」
「
「素直じゃないわね、翠音は。
紅音はヤレヤレと首を横に振ると、心配そうに綾人達を振り向く。
「
「つまり美峰の膝上でデレデレするのを止められないって訳ですね。恥ずかしい女装男です」
「変態みたいに言うな、翠音! 誰のせいで寝たきりだと思ってるんだよ! 」
がなり散らす綾
「伊月家兄弟には警戒しておけ。姿を消したあいつらの目的がまだ読めない」
「分かった、
「うるせぇ。妖に戻ったら一番に
「怖えぇ! 鬼畜の性分は『人』でも『妖』でも変わんねぇな! 」
「もう、綾人が余計な口を回すからでしょ。……行ってらっしゃい、尾白くん。気をつけてね」
微笑する美峰だけが、まともに俺達を見送ってくれる。彼女に小さく勇気づけられ、安堵した俺は頷いた。
「……行ってくる」
一時の慈雨が止んだ空を、俺は双子と共に見上げた。何処までも繋がっているはずの空は、薄紫の春夕の幻により分断されている。都合のいい夢から千里を目覚めさせる為に、歩み出した俺は覚悟を決めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます