第百五十六話 呪わしいほど


 ふらふらと。軽すぎる足取りは覚束無おぼつかない。血肉への欲という苦しみを忘れたはずなのに…… 『せい』の実感が希薄だ。幽霊にでもなってしまったかのよう。それでも、暗い廊下へ差し込む光源を目指す。躑躅つつじの花迷路の庭に戻れば、少しでも『人の世』と繋がれる気がして。


 だが『猫屋敷』の暗い部屋と廊下ばかり歩んでいた私は、眩しい日差しに視界を突き刺され、真っ白に塗り潰されてしまう。凶暴な光は、私に頭痛をもたらす。痛くて、掻き消えてしまいそう――。


 身体がかしいだその時……誰かが私を受け止めてくれた。この優しいかいなは誰だろう。眩しさが痛くて、瞼を開く事が出来ない。


「黒曜……? 」


 彼に下した『私を暫く独りにして』という命令を保てないくらい、私の意思が脆弱になってしまったのだろうか。もう別にいいのかも……。私の『欲』は、青紫の躑躅つつじと翡翠の煙管キセルで眠らせることが出来たはずだから。


 

 ――私を抱きとめてくれた誰かにお礼を紡ぐ前に、意識は光に掻き消された。


 

 誰かの膝の上。やわい毛先が、横たわる私の頬をくすぐった気がした。誰かの静かな吐息が温かくて、躑躅つつじの甘い香りが濃く香る。覚醒に導かれて瞼を開くと……ぼやけた視界は、を捉えた。


「起きてしまいましたか」

 

 整った白皙のかんばせで苦笑し唇を歪める黎映に焦点が合った私は、現実が染みていく。縁側に横たわる私は、黒を交えたさらりとした白髪を『隠世』の甘い風になびかせる黎映の膝の上に寝かされていた。私は黎映に酷い言葉を吐き捨てたはずなのに、今の彼は躊躇うどころか……いつも通りの柔和な印象を感じられない。

 

「何を……」


「私でも千里に生力を渡せるかもしれないと、だけです」


 一瞬、理解が追いつかなかったが。先程の静かな吐息と黎映の言葉が重なった。 生力は愛する人からでないと、で渡すことは出来ない……。私は冷静に瞬く黎映の深緋と白の双眸に、頬が熱で染め上がる。逃げるように起き上がろうとする私の鎖骨に、黎映は触れた。何気ない力なのに抵抗できなかった。


「千里が私を助けてくださった時と逆ですね。今度は私が千里を止めなくてはならない。……原初の妖でありながら、貴方は人である私にすら抵抗出来ないくらいに、弱っている。それが如何に異常な事なのか、理解していますか? 」

 

 激情を孕んだ深緋の右目にドキリとする。黎映は隠せない怒気を、声音に滲むのを抑えていた。私より下位の妖であるはずの翠音の捕縛から、逃れられなかった事実が舞い戻る。『飢餓』がついに私を殺しかけていたのだ……。

 

「弱っても、私は死ぬことなんて無い。ちょっと日差しに立ち眩みしただけ。大袈裟だよ」


 私は虚勢を張る為に、星屑のように嘘を散りばめる。黎映は原初の妖が『飢餓』で死ぬことを知らないはず……だったのに。

 

「貴方は不死だ。絶対に死なない、と確証は出来ません。事実、『飢餓』は貴方を追い詰めている。千里が生きていなければ、智太郎は生き続ける事が出来ないのでは無いですか? 」


「……誰から聞いたの」


 穢れた血肉への欲から目を背ける為に、逃げ続けていた現実に胸を刺された私はまなこを見開く。私が智太郎から妖力を奪うために呪い続けている事実を知り、黎映に伝える可能性があるのは……。


「黒曜です。貴方は彼へのを解こうとしませんでしたね。彼が、恋敵である黎映わたしを頼るなど余程だと思いませんか」


 黒曜が黎映を頼った理由はただ一つ。黎映が――『人』だから。彼らの目的を理解するに連れて、私は血の気が引いていく。黎映から今すぐ逃げ出したいのに、弱った私は起き上がることすら叶わない。


 黎映は直ぐにも『実行』するかと思ったが……彼は私に猶予を与えるかの如く、静かに語る。


「兄さんから『安寧の地』を得る為に、人を犠牲にした真実を聞きました。私は、自らの正義の為に守るべきものを間違えるところでした。私が生きて欲しいと願うのは『妖』である兄さんと千里。千里が告げた通り……私は穢れるのをいとうべきではない」


 誠は黎映に真実を告げる覚悟を貫いた。黎映も残酷な真実を受け入れた。――覚悟が出来ていないのは、私だけ。


 

「千里。黎映わたしの血を喰らい、呪ってください」


 

 懇願する言葉とは裏腹に、重く言い切った黎映は有無を言わせない。玲瓏な覚悟の輝きは、『人』の私の心を殺そうとする!


「そんなの、やだよっ……!『人』である黎映の傷は簡単には治らないし、凄く痛いはず。 金花姫として、妖に呪われた人を嫌という程見てきたけれど……みんな……苦しんでた」


「構いません。千里を生かし続ける事が出来るならば」


 黎映は私を起き上がらせると、私を優しいかいないだく。喰らうべき、甘い首筋を眼前に突きつけて。私は最後の抵抗に、首を緩く横に振ることしか出来ない。やわいのに真っ直ぐに透き通る彼の香りの中の、脈動する命の甘い香りに……泣きたくなる。


「貴方は何も悪くない。妖となる運命さだめが決まっていただけ。生きる為の『欲』を否定しないでください」


 私の頭を優しく撫でる儚く温かい掌に、胸を締め付けられた。眼窩に宿った切ない刺激は、それでも私を救ってくれる。涙で反射する光の世界は、キラキラと綺麗だったから。私が焦がれる『人』の世は、生きていないと戻れない。会いたいという想いは自然と、涙と弱音を零させた。

 

「本当はっ……智太郎に罪を明かした時に、そのまま私を殺して欲しかった! そうすれば、私はのうのうと生きる苦しみに絶望なんかしなかった。だけど、智太郎を助けるためには死ねなくて……。生きていると、どうしても願ってしまう。智太郎に許して欲しいって。智太郎が告げてくれた『一緒に生きたい』という言葉に今も縋ってしまう自分に吐き気がする」


「貴方は……今も智太郎を愛しているのですね」


 私を抱くかいなに力が入った気がした。私を想ってくれている黎映には残酷だって分かっていても、決壊した奔流は止められない。


「他の人を愛せていたら……罪を犯すことも、ここまで堕ちて妖になることも無かった! 人の心は喪われていくのに、何で愛は解けない呪いみたいに変わらないの? 」


「愛は呪いですか……。最もかもしれません。私もまた、呪縛から逃れらずにいるのですから。もう逃げるのはやめましょう。千里が生きていなければ、私は片思いすら喪う」


 躑躅つつじの甘い蜜の濃い香りは、眼前に生きている。怖いのに誘われるように、熱を帯びた白皙の首筋へ口付けると。誰の牙の跡も無い、綺麗な鼓動。黎映は小さくため息をつき、私を包む温かい身体が強張る。

 

「ごめんね、黎映」

 

「……私は寧ろ嬉しいのです。千里と『呪縛』で繋がれるのですから。


 逡巡は無駄な痛みを生むだけだ。過去夢で牙を穿たれた己穂わたしには分かる。疼く牙の衝動のまま、私は一気に柔い首筋を貫いた!


「……っ……! 」

 

 黎映の僅かな声すら、暴悪な『欲』の波に掻き消される! もたらされる極上のあか甘露かんろに、信じられないくらいに理性を溶かされてしまう。『妖』だからこそ感じるこの甘さが、私は怖かった。私を残虐に作り変えてしまいそうで。


 決して『人』の意識を手放すものか。溺れそうな『欲』の奔流の中……呪うべき首筋に、青紫あおむらさき紅紫色こうししょくの螺旋の紫電を刺した!


 呪痕じゅこんから与えられる熱に、『隠世』での呼吸が軽くなった。私の心臓へ繋がった、若葉色の光が視える。この生力は……黎映の命だ。


 牙を離すと、私が穿ってしまったついの痕に胸が傷んだ。傷から流れるあかと黎映の痛みを、私は獣のように舐めて慰める。耐えるように黎映は甘い息を吐くのに、重なる鼓動は強く打つ。


「嘘で良いから……ずっとこのまま、私の腕の中に居ると言ってくれませんか。こんなにも満たされるだなんて、知らなかった」


 私はすぐに言葉を返すことは出来なかった。優しい嘘では、黎映を救えない。


「今だけは、嘘じゃない」


 小さな微笑の吐息を震わせた黎映は、私を離さなかった。私が黎映に救われたはずなのに……今は私に黎映が縋っているよう。彼に返せるべきものを持たない私は……黎映の背を小さく抱き返すことしか出来なかった。

 

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