第百四十三話 魅力を演ぜよ、獣達


「駄目、駄目、駄目。全然、分かってない! 」


 埃を指先で拭いとる姑の如く、女師匠:紅音の厳しい指導が入る。炎陽の『魅了』対策を講じる為、進軍を一時停止中だ。木漏れ日に満たされた翡翠ノ森は、ピリピリとした緊張に葉をざわめかせる。

 

「一度、自分の性を忘れて白紙にするんだってば! 自分では無い『理想の女』を演じなさい。綾人はどんな『女』なら抱きたいのよ! 」


「まだ抱いた事ないんで分かりません……姉御あねご


「女らしくウルウルしても、口答え厳禁! やり直し! 」


 仕草の再指導が入った綾はグスンと、酒を注ぐイメージ動作をやり直す。その内俺の方にも火花が飛んでくるだろう、と覚悟を決めていると案の定。


「智太郎。手が止まってるけど? 」


 翡翠の猫目を鋭く細めた紅音は、冷気を漂わせる。俺より強気な女子に会ったのは初めてかも知れない……。寧ろ血の繋がりがある故に、気性が激しいのか。


「……正直、普通の鍛錬とは違い過ぎて、行き詰まっているかもしれない。『魅力』の掴み方が分からない」


 対妖戦の鍛錬であれば知り尽くしているが、今回はまるで別格だ。自信は削られていく一方で、吐くまいと決めていた弱音を遂に零してしまった。俺は、刺し殺すような翡翠の双眸に向かい合う。紅音は意外にも張り詰めたかんばせを、ふっ……と和らげた。華がより、満開へと綻んだように。

 

「『魅力』と言うのは外見だけじゃないの。内面から滲み出る仕種の力でもある」


 一呼吸の間。滑らかな動きで紅音の指先が俺の肩に触れたのに、初めから触れられていたように。不思議と嫌悪は存在しない事に、俺は目を見張った。呼吸のリズムすら読まれて、計算あわされている。

 荒々しい気性が嘘のように、紅音はゆるりと長い睫毛を瞬く。彼岸花の花糸かしが揺らぐように、哀感あいかんすらのせて。


「智太郎は『彼女』に? 」


 『魅力』を体現した唇からの誘惑的な囁きは、疼くような欲求へ沈めるようだ。甘やかな無意識に沈んだ先……俺は自らがいる事を知る。地下牢に繋ぎ止められた黒い渇望に、千里を見たように。


 俺は他の女を選ばないんじゃなくて、んだろう。選択肢なんて、そもそも存在しない。

 十年間、共に居た。千里とこれほど離れてしまう事なんて今まで無かった。幼馴染にしては互いの傷を舐め合う程に、近すぎたんだ。埋め合った複雑な欠片ピースは、一対しか世界に存在しない。俺の渇きは、他人よりも濃厚な甘露で溶かす千里あいつでしか満たされなくなっていた。

 

 ――その『欲』を仕草に取り入れればいい、ということか。但し、される側として。


 

 欲は、言わぬが花。

 雪華の睫毛を、躊躇いに伏せる。

 薄紅を引いた『唇』に、名残惜しく手袋グローブの指先で触れかける。その紅差し指で頬を撫で、白銀の絹糸を梳いて耳に掛け……。やがて小指は、白皙の『首筋』に触れて、指し示す。

 

 俺が欲しいものは、


 

「やれば出来るじゃない。……、味わい尽くしたくなるくらいに」


 翡翠の双眸を細めた紅音は、唇から美しい牙を小さく覗かせる。象牙を削って形作ったようだ。吐息が生む、唇の僅かな隙間――。そこには演技ポージングが作る『憂い』の命がある。


 ――紅音が演じるのは『魅力』なのか、それとも妖としての『渇望』か……ゆっくりと俺の認識が溶けかけた時。

 

 

「なななな……っ!! 二人とも何してるのっ!? 」


 

 幸か不幸か。現実へと引き戻す美峰の声が、翡翠ノ森に響き渡った! 振り返ると、黒い棗型の双眸は恥じらう手の隙間から瞬いていた。短眉を寄せた純情乙女の真っ赤な頬が隠しきれてない……!?


「いつの間に、青ノ鬼ヤツたんだ!? 」


 我に返った俺は、サッと羞恥に放火される! 『魅力』を追求するあまり、距離感すら失う所だったぞ!?

 クスクスと上品に笑う紅音から、慌てて距離を取る。 悪戯な翡翠の猫目と目が合った。


「青ノ鬼が『飽いた』って言うから、休憩も兼ねて顕現を解いたの……。目覚めたら、突然の麗しくて妖しい雰囲気に呑まれかけたけど」


「美峰!? っ!! 」


 仕草の鍛錬を放り投げた綾人は、人目もはばからず美峰に抱きつく! よっぽど紅音あねごの指導が堪えたらしい……。


。よしよし……ここが『翡翠ノ森』? 」


 綾人の頭を撫でる美峰は、翡翠ノ森をキョロキョロと見渡した。自然な二人の挨拶に美峰が内なる青ノ鬼とのバランスを保ってる事を意識して、俺は安堵する。妖が支配する猫屋敷では青ノ鬼の内側に、人間の女である美峰を隠さねばならないから、今は僅かな息抜きになる。

 

「そうだよ。新たな鬼畜、じゃなくてっ、姉御による『魅力』の鍛錬中……」


「何か言ったかしら? 不出来な弟子A」


 うっかり真実を口から滑り落とした綾人に、冷笑を浮かべた紅音の燃え上がる制裁の危機が近づく!


「空耳です、姉御! 綾人モブの存在は忘れてください……」

 

「何勝手に掻き消えようとしてるの……せっかく私がのに」

 

「そうよ。愛する美峰モデルが戻ってきたならば、なお一層鍛錬に励みなさい」

 

 女子二人、互いの事は青ノ鬼に聞いていたに違いない。初対面のはずなのに何故か息ピッタリの美峰クイーン紅音あねごに、為す術の無い綾人は茹でダコ状態だ。


「あああ、愛するとか、美峰の目の前で言わないで貰えます!? そゆのは自分の口から……」


「言うのか? 」


 思わずニヤリと口を挟まずにはいられなかった。俺も含めこのSっ気メンバーでは、三匹の猫に丸毛糸を与えるかのように綾人は玩具である。


「ダァァアアッ!! ここでは言うわけねーだろっ!! ふざけんなっ!! 」


「美峰を『誘惑』出来たら、合格にしてあげようかしら。智太郎は『鍛錬』から先に抜けたわよ」


 どうやら俺は『合格』していたらしい。炎陽の前で『千里』の仕草を再現出来るか不安だが……やるしか無いだろう。俺がイメージ出来るモデルは、千里あいつだけなのだから。


 真理にたどり着かない内に、紅音に難関を与えられた綾人は美峰の肩に赤い顔を埋めて隠す。


「衆人環視なんですか……それ……」


紅音わたしの前で演じられないようじゃ、炎陽の前でなんて無理だわ。美峰を守りたいんでしょ? 」


「爆ぜるよ、マジで」


して来てもいいけど」


 面白がる紅音に掌で転がされている綾人は、ゆっくりと顔を上げる。流石に美峰は頬を染め、躊躇いに目を泳がす。潤う棗型の眼を眼前にした綾人は、キッと何故か俺を睨みつけた。


智太郎おまえ、半径五メートル以上離れて背を向けろ! 練習なんてしたらコッチの身がもたん、一発本番で決めてやる! 」


 戦闘時も綾人は追い込まれる程に本番に強いタイプだったような、と雑念が掠めるも。従ってやるしか無さそうだ。

 

「精々ガンバレ、綾


 存分に皮肉って、合否発表を待つことにしよう。


 ――俺が背を向けて、数分後。


「恥じらいがあるだけで、実力は有る。わね」


「何で女装してるのに破壊力あるの……寧ろ、それ故に……? 」


 振り返ると、帰ってきた二人。感心する紅音とまだ頬が赤い美峰を見るに、どうやら綾扮する『黒豹の彼女』は空恐ろしい『魅力』に目覚めたようだ……。

 気になるが男友達に見られる程、更なる地獄は無いだろうから好奇心は封じておいた。どうせ炎陽の前で見る事になるのだ。


「やっと、『鍛錬』から抜けたぁっ! 死ぬ気になればなんとかなる……」


 ガクガクと綾人は『合格』の判を手に入れたのだった。真の本番で失敗する事は許されない。美峰を隠しながら、炎陽の隙を掴んだ瞬間に……紅音の復讐を始めるのだ。俺は姿を偽ったまま、千里を探さねばならない。

 

 戦闘になる前に千里を説得出来たら、と脆い願いを抱く。だが仮に『猫屋敷』から千里を連れ出したとして……俺達は何処へ行けばいいのだろう。帰るべき桂花宮家は千里を殺す。帰るべき場所が無いと言うのは、空虚で足取りがふわふわとして覚束無い。『隠世』を持たないというあいつは……ずっとこんな思いをしてきたのだろうか。

 

「復讐が終わったら……紅音はどうするんだ」

 

 俺は自然と問うていた。帰るべき場所を持たないのは、紅音も同じだから。


「仮に生き残れたら、か。そうね……こんな狭い世界じゃなくて、もっと広い人の世を見てみたい。人間達が来るまで、私の知見は狭すぎたから」


 木漏れ日の隙間の空を見上げた紅音が、復讐の焔の奥に希望を抱いている事を知る。生き残れる奴は生に執着していると、俺は妖狩人なかま達を弔ってきたから分かる。本来、紅音は無意味に復讐へ身を焦がすような女では無いのかもしれない。


「私は人の世に憧れを抱いたけれど……、真逆な奴らも。耳の聞こえなかった私に、わざわざ地面に字を書いてまで『猫屋敷』へ向かう目的を告げたの。私を助けようとして、兄に止められていたお人好しが」


 追憶した紅音に俺は弾かれたように、ある男の姿が浮かぶ! 自ら隠世へ向かう兄弟。千里と同じお人好しである片割れを、俺は良く知っている。

 

「その男、黎映りえいと名乗らなかったか。ほぼ白髪はくはつで、右眼だけが深緋だったはずだ」


「名前は名乗らなかったけど……特徴は一致するわね。兄は気配的に、半妖。滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの瞳孔と、鮮やかな紺青こんじょうに一筋の白の髪。斑の鱗があった」


 やはり間違いない。兄は、大蛇と同化した誠だ。人の世では無い『安寧の地』を求めて、伊月家兄弟は『猫屋敷』に辿り着いたらしい。


青ノ鬼ごせんぞさまが『千里を頼む』って、黎映に伝えたから……『猫屋敷』を探してくれたんじゃないかな」


 綾人は小さく呟く。


「だが、黎映は兄である誠に従うかもしれない。現に、紅音を助けずに『猫屋敷』へ向かったじゃないか 」


 彼らが居るとなると、事態は変わってくる。伊月家兄弟が敵に回るか、味方になるかで……俺達の勝率は変わるのだ。彼らを殺せ、と命じた正治の姿が脳裏に掠める。誠は、全ての擬似妖力術式系の家門の根源たる妖の封印を握っている。正治に従う気は無いが、『安寧の地』を求める以外の思惑があるのなら、非常に厄介だ。

 

「知り合いだったのね。敵になるかもしれないのなら、早めに伝えるべきだった。意識が混濁してた時だったから、うつつか暫く確証が持てなかったの」


「仕方ないよ。紅音はてたんでしょ? 」


 紅音を心配する美峰は、青ノ鬼から良くも悪くもそのまま伝えられたのだろう。紅音は複雑そうに微笑する。


「間違ってないわ。青ノ鬼の器の美峰は、本当にただの優しい『人』なのね。……喰われないか心配」


「足手纏いにはならないから。青ノ鬼が暴走しないように手網たずなは握っておくよ」


 微笑した美峰の思わぬ『人』の強さに、紅音は翡翠の双眸を丸くする。


「貴方みたいな『人』が、外の世界には当たり前に居るのかしらね。私は外の世界へ行った、人混じりの妹を素直に心配出来なかったけれど。咲雪に再会したら、今度こそ姉らしい事をしてあげなくては」


 俺は紅音の何気ない一言に、彼女は妹の死をまだ知らないんだと気がつく。慈愛を纏った紅音の微笑に、俺は苦いものが込み上げる。


咲雪かあさんは、死んだんだ。十年前に」


 俺は紅音を直視出来なかった。

 

「そう、なの。……これだから人混じりの半妖は 。だから翠音みおと止めたのに。妖力をコントロール出来ないくらい弱いんだから、貴方は『人の世』で一人で生きられる訳が無いって……」


 震える静かな声音から紅音の愁傷が伝わってきてしまう。

 

「俺は咲雪かあさんの死の真実を知る為にも、『猫屋敷』へ向かわないといけないんだ。本当の真実を知るのは、千里あいつだけだから」


「……いいわ、『案内』してあげる。地獄であろうが、求める燈があるのなら追うだけだから」


 鮮やかな紅の髪を翡翠ノ森の風に靡かせて、紅音は猫耳をピンと立て先導する。翡翠の双眸に宿った震える強さが垣間見え、胸を突かれた。焼き切れた孔雀の尾羽に、彼女を覆い尽くした幻の炎が見えるようだ。

 

 ――導かれた先、俺は千里あいつを望む。例え、帰るべき道を知らずとも。


 俺達はまだ見ぬ『隠世』への進軍を再開した。獣道は進む度に荒々しく行く手を阻もうとするが、躊躇いなど抱くことは無い。


 

―*―*―*―《 智太郎目線 end 》―*―*―*―

 

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