第百三十話 罅割れた殻


 墜ちる雨粒は時を奪われたように、ゆっくりと地面に弾ける。その中には、地面に墜ちる事も出来ずに黒い焔で蒸発する雨粒も。

 止みかけた疎雨そうすら焼き尽くす黒い焔の巨大な鴉は翼を広げ、呆然と立ち尽くす雪に死の影が近づく!

 駆け出した私は、疾走する為の生力すら残されていない事に伸ばした指先が痙攣した。


 ――鬼が改変してくれた過去夢の事実は、『雪に、死までの猶予を与える事』。


 その猶予の間で、私は雪の運命を変えるはずだった。だが死に物狂いで足掻いても、変えれぬ運命が振りかかろうとしていた。生力が枯渇した今。私が出来る事は、雪に黒い焔の鴉が喰らいつく前に、この身で防ぐ事しかない。命を救うには、命を対価にするしか無いのだ。

 意を決して雪の前に飛び出そうとした私は、迫り来る熱風による恐怖で鼓動が空回り、自らの心臓が自分だけの物では無い事に気がつく。

 

 今の私は己穂と千里の混沌。前世かこの存在でもあるが、現代みらいの存在でもある。過去夢の正しい結末以外で死ぬ事は、になるかもしれない。

 

 千里わたしが死んだら、智太郎から妖力を奪い続ける。智太郎が半妖の死の運命さだめへ、再び呑まれてしまう!


 雪を救うために必要な対価は、私の命だけじゃない。人の生死に関する未来の改変は、対価である可能性が高くつく。同じ魂の未来の可能性を削らねばならないという、かれの告げた事実が私を呪縛した!

 

 黒い焔の鴉の鉤爪は、ギリギリで踏みとどまった私の腕を灼熱と共に掠め、恐怖を銀のまなこに焼付けた雪の腹から胸を引き裂いた! 鮮やかな鮮血と黒い焔が容赦なく散る!


 

「嫌ぁぁぁあああああああアア"っ!!! 」


 

 身体から迸る悲痛を叫んだ私は、白銀の耳と尾が淡く消えて倒れる雪を受け止める事すら出来なかった。駆け寄った私は、雪を割いた残酷な傷を掌で抑えたが、温かいあかが澄んだ水溜りに流れ出るのを止められない。痺れた自らの腕の傷から流れた血が混ざる。


「駄目、嘘、なんで……死ぬなんて……嘘だよ……」


 混乱のまま瞼を閉じて生力を雪に注ごうとするが、枯渇した私の生力は若葉色に光らず、役立たず。雪の身体がより深い闇に染まっていくのを視てしまった。逆らえない『死』を視るのは初めてじゃないからこそ、息は凍りついた肺を逆流する。

 死の視界から私は目を開けた。触れた残酷な傷はまだ温かい。それなのに、生命いのちは流れ出て失われようとする。


「わたし、が、躊躇ったせいで……」


 今更後悔したって、雪の致命傷は治らない。私は最後に、智太郎と雪の命を天秤に掛けてしまったのだ。生まれ変わりである智太郎と雪は、魂と面影が繋がっている。どうしても重ねてしまうのを止められない程。だけど全くの同一人物では無いからこそ、私は雪を救えなかった。

 

 それなのに、雪はふわふわとした白銀の髪を疎雨に濡らされ、智太郎とよく似た繊細で整った容姿で弱々しく微笑する。雪華のような睫毛を瞬き、雲間から金の陽光を吸い込んだ銀の双眸で私を逃さない。


「聞いて、己穂。雪はね、他人を救おうと犠牲を厭わないのに……『死にたくない』と叫んだ貴方に惹かれたのです。他人の命の重さを知っている、貴方の命も綺麗で尊い。だから、自分を責めないで」


「私より、他人より、雪の命の方が価値はあるんだよ! 少なくとも私にとっては! なのに……」


 私の口元へ触れた雪の優しい指先に、噛んだ唇を離す。

 

「お願いがあるの。もう命も魂も、貴方の存在を貶めないで。貴方を大切に想う人達にとっても、貴方という存在は何よりも価値があるから」


 雪の言葉に、鼓動が真っ直ぐに整えられたような気がした。私が智太郎を雪原で説得した時、智太郎も千里わたしに価値を見出してくれていた。自分より相手に価値を見出すからこそ、私達の道は分かたれてしまったが。

 雪が大切に想ってくれている己穂わたしが半欠けである事を、今なら伝えられる。智太郎にも雪にも、隠し事はもうしたくない。震える口角を引き上げ、私は無理やり微笑を作る。


「本当はね……雪が大切に想ってくれた私の半分は未来の存在なの。訪れる死から、大切な人の前世である貴方を救いたかった。嘘みたいでしょ、笑ってもいいよ」


 雪は笑わなかった。銀の双眸は潤む。白夜月のように透き通る白皙のかんばせから本当に血の気が失われていく事に、私の心は引き絞られて視界が涙で歪んでしまう。雪はまだ生きていたかった。私も雪に生きていて欲しかった。私達が真実を、想いを語るには……時間が足りなすぎる。

 

「なら、雪はまた未来で貴方に会えるのかな? 最期じゃないって信じてもいい? 」


「信じていいよ。貴方の未来を、愛してごめん……」


 雪華の睫毛をゆっくりと仕舞い、瞼を閉ざした雪は……下手くそな私の言葉を聞き届けてくれただろうか。もう言葉を交わす事ができない雪の唇には優しさが湛えられていると、私は信じたい。

 

 茫洋と顔を上げた私は、疎雨そうは止み、天気雨ですら無くなっていた事に気がつく。頬を伝うのは、雨粒なんかじゃない。

 いつの間にか黒曜も妖達も居なくなり、妖狩人達は戦いの終焉に疲れ果てて座り込んでいた。黒曜が居なくなったのは、雪を殺めるという目的が果たされたから?

 違う。黒曜は……突き刺さった罪悪感から逃避したのだ。黒曜の過去夢の通りならば。改変出来なかった過去夢は、前世のレールへ引き戻されてしまった。

 

 やがて蒼穹になるはずの、光芒が降りるそらは過ぎる時を私に突き付けて置いてけぼりにする。


 眠ったように見える雪は残された肉体すら、やがては土へと還る。雪の亡骸は冷えていく。


【私が、雪を救えなかったせいだ】

 

 金の光が導き続け、過去夢で目覚めるまでずっと己穂わたし雪を救えなかった事を後悔していたんだろう。黒曜の本当の想いに気づけず、雪を殺めた彼を止められなかった事も。


 それなのに、かれに与えてもらった前世かこをやり直す好機を無駄にしてしまった。もう二度と私はやり直せない。

 

 瞋恚しんいへと重く鼓動する心臓は、内なる紫電の牙でわたしを貫いた!硝子の破片に骨を裂かれるような激痛が私を襲う!

 

「ごめん雪。私は、私を許せない。自分を貶めないなんて……出来ないよ!! 」


 腕の傷は急速に

 

 黒曜を愛するえらぶ事が出来なかったから、私は人で有り続ける事が出来ない。最後に智太郎を選んだ私には……黒曜に『人』の愛を教えてあげられなかった。


 自身の内から青紫あおむらさき紅紫色こうししょく紫電しでんが放電する度に、そら。あの空は偽物だった訳じゃない。

 

 私が前世かこをやり直すために、人で有り続けるために、過去夢に縋るのを諦めたから……生まれ出ずる者が内から殻を割るように崩壊していくこの世界は、現代みらいに繋がらないただの夢になってしまったんだ。


「……随分精巧なだった」

 

 自嘲した私が追いかけるべきは、過去夢の黒曜ではない。

 雪を殺しただ。


「生まれ変わってから、やっぱり許さないなんて……都合がいいかな」


 生まれ変わってから、未来の雪を愛した私も随分と勝手だ。『来世』で黒曜を愛し続ける事が出来なかったくせに、『来世』で雪と再び会える事を信じさせるなんて。


【ばいばい、『人』の私】

 

 夢から、私は瞼を閉ざす。まるでもう一つの夢に墜ちるように。過去夢が崩落し、墜ちる私は金の明星が瞋恚しんいの夜に染まる新たな夢を視る。

 

 ――『生まれ変わっても愛してる』なんて。所詮、愛を信じる寓話が生んだ夢物語だ。


 

―*―*―《 崩壊する過去夢 end 》―*―*―



  

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