第百三十一話 濡羽ノ目覚


 

―◆★*+【新たな夢、見知らぬ現実】+*★◆―


 

 ふわふわとした現実感。自分が誰なのか、記憶はあるのに自らの概念を崩されたような。意思を無視され、増やされて、削られる。皮膚の下へと這いずるように、私の体温を貪欲に喰らおうとするくせに、どろりとした虚無という器に引き摺り込もうとするのは闇の手触り。黒い水が煙るように、私に溶ける。おぞましい感覚に侵食されたが作り替えられていく気がした。

 

 突然紫電の激痛が脊髄を貫き、強制的に覚醒させられる! コントロール出来ない青紫あおむらさき紅紫色こうししょくの稲妻が、暗雲に脈を走らせるが如く暗い部屋を鮮やかに駆け巡る!

 

「千里! 」

 

 『無意識』に操られるままに起き上がると、丸窓障子に夜桜の背景を冠する黒曜と視線が交差した。安堵を驚愕に化して駆け寄る黒曜は、一体どれだけ私を待っていてくれたのだろう。

 現代いまの黒曜は、過去夢の彼とは違い千里わたしの事を知っている。ただそれだけなのに……縋るように芽生えた、切望にも似た甘えは乾いた私の身体を勝手に突き動かす。犬歯の先を舌で撫でるのは案外心地よくて、癖になったらどうしようか。


 食い破る夢現ゆめうつつ。 期待とは違いちょっぴり苦い味が口内に流れ落ちる。切れた唇を舐めた時みたいに、ちゃんと。舌の上に新鮮に踊るのは、温かい蜜のような甘さだと思ったのにな。嫌いじゃないけど。

 それでも満たされた温かなものを嚥下した瞬間、白檀と血の混ぜられた香りと重なる鼓動に気づく。黒曜を引き寄せてその首筋にを認識し、戦慄が走る。私は……『』?


「……人では有れなかったんだな」


 黒曜は、その首筋から呆然と牙を離す私を突き放すどころか抱き締める。私を包み込むかいなと漆黒の翼に、過去夢の彼に牙を穿たれが蘇る。重なる鼓動は過去夢と同じ、黒い瞋恚しんいの焔の心臓だった。今牙を突き立てたのは私なのに、恐怖症フォビアに追い詰められるのは黒曜では無い。理不尽さは心髄を刺し貫く!

 

「なんで私の中に、己穂を蘇らせたの。黒曜が『貴方を愛した千里わたし』を殺したくせに! 私に、雪を返してよ!! 確かに目の前で生きていたのに、過去夢で前世をやり直せたはずの私は……雪を救えなかった…… 」


 手負いの獣のように傷口から流れだす感情が止められない。声が震えて、涙を流せる私は妖なんかじゃないと思いたいのに、私を襲う全てが否定した。吐き気がするのに、感覚は冴え渡るようで雑音ノイズが消えない。ただ何もかも憎い。


「謝罪する事で、雪を蘇らせる事が出来たらどんなに良かっただろう。憎悪されると分かっていても、待ち続ける事を止められなかった。愛を消す事は出来なかったんだ。己穂を想い続ける私は千里を想う自分と同じだったから」


 耳元で優しく囁かれた声が、頭の中で五月蝿かった雑音ノイズ透明クリアにしてしまう。求めていた静けさには、懐かしい安寧の中で消えてしまったはずの切望があった。

 かいなを緩め、私を見つめる黒曜は浮世離れした美しいかんばせに慈愛とは異なる微笑を浮かべる。 身の内に刺さる針を隠したようで、溶けるように深く優しい微笑に、幼い頃の様に甘えたくなる自分を苛立ちと共に引き裂きたい。


「今更、貴方の愛を受け入れられる訳が無い。那桜が殺されたあの時、千里わたしを連れて行ってくれていれば、ここまで行き違う事も無かった! 本当の愛を羨んだ貴方は結局、人の愛に満たされていた己穂の魂が欲しかっただけなんでしょ。優しい言葉で誘惑したって無駄。残念だけど、夜に堕ちて魂の色を奪われたとしても貴方に私の魂なんてあげない。……せめて最後は雪との約束を守るよ」

 

 黒曜を選んだ前世のように、私は過去夢で秋暁の野へ黒曜を追えなかった。それは、私が黒曜への想いに答えを出したから。

 魂を引き渡し、自分の価値をこれ以上貶める事を雪は望まない。大切な人が想ってくれた自分を守る必要がある事に、私はようやく気づく事が出来たのだ。

 

「己穂と千里の魂に惹かれるあまり、道をたがえてしまったのは私だ。憎悪を果たす為に、私の命が欲しいならそれでもいい。今の千里なら可能だから」

 

「私はもう誰かが死ぬのを見たくない。目の前で大切な人の死に抗えない辛さは、黒曜が一番知っているでしょう? 己穂と千里の混沌である今の私には、智太郎の前世である雪を殺めた黒曜を許すことが出来ないのに、貴方に死なれるのは耐え難いんだよ」


 過去夢を完全なる夢だと切り捨てる事など、無くしてしまった前世の感情を思い出した私には出来ない。現代いまに繋がらない夢だったとしても、確かに前世かこにて存在した感情だったのだから。雪や爽太……時が乖離してしまった大切な人との、手放すことの出来ない絆も。

 

「……私を愛さなくてもいい。恨んだっていい。せめて私の魂を連れていってくれ。永い時に置いて逝かれる孤独には、もう耐えられないんだ! 」

 

 千里わたしが抱いていた孤独は、大切な人に置いて逝かれた黒曜も抱き続けていた物だった。美しいかんばせを張り裂けそうな悲痛で歪め、極光を吸い込んだ涙を抑えることの出来ない黒曜に、私は彼を置いて逝ってしまった己穂じぶんの罪を思い知る。


「……私が黒曜の魂を引き受ける事で、救いになるのならば。黒曜に『約束』を押し付けてしまった、私のせいだね。妖となってしまった私は『約束』を叶える事すらもう出来ない。私達はお互いを、愛と憎悪で雁字搦めに縛り付けてしまった」


 私は、自嘲するように微笑した黒曜の心臓に手を伸ばす。彼の根源はよく知っている。黒い焔の心臓は瞋恚しんいを私達に与え続けたのに、黒曜に唯一の体温を与えてきたのだ。そのかいなの温かさは、恐怖に捕らわれても最後まで恨む事が出来なかった。


 睫毛を伏せた黒曜の心臓より前に浮かび上がる、黒い焔が成す刃の翼は、茜色に反射していた。『茜色』は……妖である黒曜に生まれた『愛』の色だ。黒い焔に新たな色を与えるように、私は自らの妖力である青紫あおむらさき紅紫色こうししょくの蔦を絡ませた。黒い焔に一輪咲いたのは、純白の躑躅つつじ。生まれ変わっても、初恋は貴方だけだった。


 ―― 十一年前、黒曜に置いて行かれたことで生まれた孤独は歪な形で満たされた。私は黒曜の魂を隷属させ、彼のあるじとなったのだ。


 私を憎悪しているはずの智太郎はきっと、原初の妖へ化した私を殺しに来る。不完全な不死は憎悪で壊されるかもしれない。

 殺されてもいいと思っていた。それで智太郎の憎悪が果たされ、私が終われるのなら。だが皮肉な事に、今の私は、智太郎を生かす為に妖力を奪い続ける呪いを保っている。私が死ぬという事は、智太郎が死ぬという事だ。私は死にたくても、死ねない。半不死では無かったとしても。


「罪を償いたいなら、私を守って。私は智太郎を生かす為に、殺される訳にはいかないの」


 小さく微笑した黒曜は艶やかな睫毛の奥、深い夜の双眸に青紫と紅紫色の光を宿す。もう明星の光芒が彼の瞳に宿ることはないが、私達は新たな関係で結ばれたのだ。


「叶えよう。私は千里の新たな翼となり、刃となったのだから」


 頷いた私は、ふと気配を感じて振り向く。鏡の中の少女と目が合った。目覚めたこの場所はまだどこか分からないが、その全身鏡は私の為に誂えられたのかもしれない。私が着付けをする時に使っていた鏡と似ている。

 

 金花姫と呼ばれ、金木犀の甘い香りがするという血で得られる膨大な生力を宿していたわたしは、妖達にとって熟れた果実だった。今の私には、黒曜と同じ苦い血が流れている。甘い蜜では無く、血の味がするのは同じしゅの証なのだ。

 自分を映す鏡に手を伸ばす。智太郎に妖力を奪い続ける呪いをかける前に、私は雪原で夢幻ゆめを視た。夢幻で追いかけた先、闇のベールを捨てた彼女がそこに居た。


 

――*_-◆_+★_*+-【挿絵】-+*_★+_◆-_*――

 

https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/Wvek6BUC

 

―*_◆_+★_*【鏡の中のわたし】*_★+_◆_*―


 

 腰まで流れる濡れ羽色の髪は、鮮やかな青紫あおむらさき紅紫色こうししょくに艷めく。金属光沢を纏う髪は、不思議と硬質に見える。

 

 変彩金緑石アレキサンドライトのような杏眼も、紅紫色の中に青紫を宿す。目の端に千里わたしとよく似た金の瞬きが残るが、明星は堕ちたのだ。菱形の星の瞳孔は間違いなく、妖の物なのだから。

 濡れ羽色の小さな翼の耳も、『人』では有り得ない。鳥籠に閉じ込められた小鳥のように、『孤独』に怯え続けてきた私には相応しいのだろう。

 思えば雪原で視た夢幻は、鏡に向かい合う今に似ていた。『孤独』を染めたような、小さな暗い部屋も。

 

「これが、私」


 鏡の中の彼女の唇から紡がれる声は、千里わたしの声だった。まるで自分では無いような気がするが、よくよく見ると顔の造作は変わらない。己穂との混沌の存在になっても、自身無さげに揺らぐ双眸は同じだった。


 ――やる気の無い、乾いた拍手が沈黙の部屋を支配する。


「新たなる原初の妖の生誕、て訳か。面白い。現人神だった時代から噂には聞いていたが……まさか鴉を隷属させるとはな」


 隣に立つ黒曜の声では無い。闇から現れた見知らぬ男の声に、私はさっと顔が強ばる。


「誰なの? 」

 

「お前と鴉に居場所を提供してやっている、屋敷のあるじだよ。美しくも恐ろしいなかまの生誕を祝して、俺が直々に妖名ようめいを授けてやろう。……青紫あおむらさき紅紫色こうししょくに艷めく濡れ羽色の髪か」


 突然現れた男は、動けない私の髪筋を掬いあげる。白銀の猫の耳と尾を顕現した男は妖だった。その風貌に私は鞭打たれたように、まなこを見開く。


 私は過去夢から戻るべき時を間違えてしまったのかと思った。時を経た未来の智太郎と再会したのだろうか、と錯覚してしまう。

 繊細で整った容姿の存在。美しい人形ビスクドールの様なかんばせは奇跡の様に完璧な造形を保つが、その風貌はかぐわしい獣のような色香がある男。彼は掬い上げた私の髪筋に口付ける。

 冬を思わせるはずの白銀の髪は気性を示すような荒々しさと、満足そうに細められた緋色に燃え盛る双眸により裏切られる。

 

「お前は『濡羽姫ぬれはひめ』。……生力の視界を持つ人間がほとんど生まれない以上、最後の原初の妖になるだろう」


 随分と勝手な男だ。智太郎と容貌が似通っていても、纏う雰囲気からしてまるで違う。


「千里に触れるな! 」


「早速主を守ろうと言う訳か、鴉? それとも永い時を経た執着のせいか」


 顔を顰めた黒曜が嘲る男に刃を向ける前に、男の指先を振り払った私は彼の正体を推測して睨む。

 

「貴方は、原初の妖『猫』? 」

 

 男は愉しむかのように、牙を見せて開けっぴろげな笑みを返す。

 

「ご明察。だが、それでは洒落っ気の欠片もありはしない。俺の事は『炎陽えんよう』と呼べ! 」


 『太陽』が恐ろしいと、雪が己穂わたしに語った事を思い出す。雪は、炎陽から自らに継がれた妖力の根源を恐れていたのかもしれない。雪や咲雪、智太郎と同じ色であるはずの白銀の髪は、……内に秘めたる妖力があまりに灼熱である故に、白銀なのだと知る。彼は『太陽』の化身であるようだ。

 そして……智太郎の母である咲雪は、炎陽を父にもつ。炎陽は、雪という子孫どころか娘すらも、冷酷な程に関心が無いのだと黒曜の過去夢で知った。

 

 ――炎陽は、智太郎の紛うことなき祖父である。


紅音あかね! 」


 私の動揺は、炎陽の声によって叩き落とされる。瞬く間に影より現れて片膝をつく少女に私は驚愕する。


「恐れながら。紅音はもう居ません。……先日、あるじが追放されましたので」

 

「……そういや、そうだった。ならお前が、濡羽姫のお付きをすればいい。大切な客人だ、丁重に扱え」


 顔を上げて私を見上げる彼女も、炎陽と同じく猫の耳を顕現していた。但し、その尾は美しい翡翠の孔雀の尾羽だ。

 琥珀の髪を短く切り揃えた彼女は、鮮やかな翡翠の猫目で私の視界を奪う。表情を変えないまま淡々と彼女は告げる。

 

わたくしの事は翠音みおとお呼びください。……人の世から隠遁いんとんされた、この『猫屋敷』のご案内をさせて頂きます」


 彼女の言葉によって、黒曜と私は今隠世かくりよに居るのだと知り息を呑む。


 ――妖狩人達の知らぬ、妖達の隠遁の地。かれらは現代まで身を隠してきたのだ。


 

―*_◆_+★_*+【千里視点 end】+*_★+_◆_*―

 

 

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