第百二十七話 闇より出づる


【 嫌な予感は的中するものだ 】

 

 固形墨こけいぼくを擦り、手記を綴る為にすずりに筆を浸す。七月二十一日、と書いた自分に冷えた鼓動が空回る。翔星とうさまから己穂の手記を見せてもらったのは一度だけ。朧気な記憶ではあるが、炎暑と共に日々緊張が強まる中での既視感であった。

 

 この字……何だか胸がざわざわする。

 

 己穂として手記を綴るのは日課になっており、己穂の字など見慣れていたはずなのに。


「己穂、居るか!」


「爽太? どうしたの、そんなに慌てて」


 珍しく障子を乱暴に開いて部屋に飛び込んできたのは、額に汗を滲ませ肩で息をする兄。己穂わたしは筆を置き、追い打ちをかけられた心臓を抑える。


「妖の軍勢がこちらへ向かっていると、早馬で知らせがあった! 」


 現人神わたしを映す鶯色の瞳は、『人』に与えられた唯一の明星を宿す。嘘偽りなど有るはずは無かった。もう、鬼灯の白い五弁花は咲いてしまった。

 まさかと逃避したくなるのに度々訪れていた黒曜の様子は、爽太の言葉を肯定してしまう。最近は、ふいに現れて穏やかな時を過ごすのみで、以前程己穂わたしを妖との戦いから逃れさせようと説得をしなくなった。……逆に言えば、もう心を決めてしまっていたのだ。

 私は書きかけの手記を残し、白い刀を腰に差して立ち上がる。つかの感触に掌が馴染んでしまっている事に、怖気がした。


んだね」

 

 今の私は青ノ鬼のように、混沌の存在なんだと思う。過去夢を視始めた時から、千里と己穂の意思は混ざり合い……望む願いも一つになっていった。過去夢に阻まれていたのは、きっと……意思が同一で無かったせいでもあるはず。

 鬼が未来を改変し、与えてくれた僅かな時間。私はようやく、自分自身の意思で前世かこの後悔を正す事が出来る。私を過去夢に導き続けていた金の光は、己穂わたしの後悔に繋がっていた。


「どういう事だ、己穂。って……」


「説明してる時間は無いの。かれらの目的は己穂わたしの行動を封じたのち、雪や爽太、妖狩人達を殺す事。……だから、お願い。雪を連れて、妖狩人達と共に屋敷ここから逃げて 」


「逃げるって……己穂は一体どうするつもりなんだ」


 困惑に眉を顰める爽太に、私はただ微笑した。


「私は現人神だから死んだりしない。皆が逃げる時間くらい稼げる」


 私が一人で妖達と戦おうとしている事を理解した爽太は芽生えた怒りに身を任せ、荒々しく私の肩を掴む!


「一人で屋敷ここに残るつもりなのか! 己穂は現人神なんかじゃない、ただの人間だ! たった一人の妹を、残して逃げられるはずが無いだろ! 」


 その力が痛い程なのは、家族の愛情があるから。千里わたしには無かった物だ。じんわりとした嬉しさが胸を突いた。

 

「大丈夫。私には妖達かれらを説得できる言葉があるから。無謀なのは分かってる。それでもお願い、私の大切な人を守って。……妹の我儘、叶えてくれないかな」

 

 祈るように私は乞う。逡巡している時間は無いと、唇を噛み俯いた爽太も分かっている。揺らいだのは、私の意思では無く……爽太の双眸だった。喜びと悲しみを綯い交ぜにして、爽太あには複雑に微笑する。その声は震えていた。


「可愛い妹の我儘にしては、たちが悪すぎる。もっと早く……普通の我儘を言って欲しかった。そんな風に頼られたらさ、兄として叶えてやらない訳には行かないだろ」


 私の覚悟を問うように、爽太は黒茶の瞳で射抜く。妖に立ち向かう覚悟の強靭さよりも、共に逃げる脆弱さを期待して。

 

「…… 雪を安全な場所に送り届けたら、合図の狼煙を送る。それでも己穂が戻らなければ、妖狩人達と屋敷ここに戻る。それだけは絶対に譲れない。本当に妖達を説得できるんだな? 」


 私は内に残る臆病な甘えを切り捨てる為に、爽太あにを睨むように見つめ返す。

 

「できるよ。妖達かれらが私達を急襲する真の理由を、私は知っているから」


「……兄として、己穂の事を信じて待ってる」

 

「ありがとう、お兄ちゃん」


 爽太あにの言葉に己穂わたしの張り詰めたかんばせほどける。信じてくれる兄弟が居るだけで、私は一人じゃない気がする。

 だけどここは過去の世界。爽太とは……時さえ乖離している。置いて逝かれるのは、千里わたしのようで己穂わたしじゃない。身を翻し、私との約束を守る為に駆け出した爽太とはどちらにしろ二度と会えない。

 今すぐ爽太を追いかけて、先程の言葉は偽りだと叫びたくなる自分を必死に縛り付けるように、私は鯉口を切る寸前まで白い鞘を握る。


 ――私は何の為に『現人神』になったの? 大切な人を守る為でしょ。今逃げたら、前世かこと同じ惨劇が繰り返されてしまうんだよ。


 肺に溜めた弱さを吐き出した私は、障子越しから伝わる黒い影と低い唸り声に凍りつく。抜刀した刀に金の稲妻を顕現した一瞬、障子を両断した!


 切り開かれた障子の先に、私は飛び出す! 見慣れたはずの庭は既に、魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこする異質に侵されていた。暗い影から転じたもの、見るに堪えない醜さで蠢くもの、得体の知れない不気味さを練ったように底知れないもの……。

 かつて千里として生力の視界で視続けてきた闇の根源達は、はらわたに巣食う恐怖を捻じ上げた。


 右下から肌を逆立てる気配! 刃から金の稲妻を放ち貫くと、背後と左前から襲い来る唸り声を右回転の一閃で払う! 刀に纏う金の稲妻により、妖の肉が焼尽される嫌な匂いに眉を顰める暇も無く、新たな気配が私を取り囲む。

 

「人の言葉を話せるものは居ないの!? おまえ達の目的である、現人神わたしは逃げも隠れもしない。姿を現わさねば望む願いは叶えられないと、おまえ達の主に伝えなさい! 」


 眉根を寄せて妖達かれらを見渡すも、現人神わたしの声に答えるものは居ない。人の姿とは乖離した、低俗で卑しいものしか屋敷ここには居ないのか……。妖達は生まれ方が違えば、私と同じ人だった。その事実が呑まれてしまう程に、本能的嫌悪が私を蝕んだ。


【願いだと? 何故現人神のお前が原初様に干渉するのか】


 希望が潰えかけたその時、ようやく答える声が現れた。巨大な牙を持つ妖だった。姿に反し、理知的な事に安堵する。


あなた達の主は現人神わたしを殺さないで足止めをするように言ったはず。妖狩人達を殺そうとしても、もう無駄。彼らは貴方達には把握出来ない場所に居る。私はあなた達の主の、真の願いを知っている。……従わねば主に殺されるのはおまえ達の方なのではないの」


 闇から蔓延る妖達は怯えるように、不快な声音をたてはじめる。原初の妖は、下級の妖達にとって支配者なのだろう。利益を与えてくれる事もあれば、気ままに命を奪う事も安易。


【何方にしても受けためいを果たさねば、われらは殺される。現人神おまえの言葉など無意味だ】


「その判断は早計だと思うけど。あなた達と同じ存在になるかもしれない私の言葉を、何故主が聞かないと思うの? 」

 

 牙の妖は次ぐ言葉を躊躇った。現人神である今の私はかれらにとっては敵。だが私が望み、原初の妖と化せばかれらの新たな主となるのだから。


【……承知した】

 

 唸るように牙の妖は承諾すると、天を穿つが如く咆哮した! 見上げたそらには、呼ばれた暗雲が渦巻き始める。私の頬を濡らしたのは、涙なんかじゃない。生温い疎雨そうは、振り払えない慈愛を連れてくる。

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