第百二十五話 辿り着いた事実


 かれがくれた僅かな猶予があれば、己穂わたしは雪を救えるかもしれない。雪の死の刻限は、鬼灯の白い五弁花が咲く夏だったはずだ。

 今はまだ黒曜と出会ったばかりの春。だけど、季節なんてあっという間に巡るのはよく知っている。それは、過去夢だろうと現実だろうと変わらない。

 

 ――黒曜自身を変える事が出来れば……雪を殺めるという行動そのものを打ち消せるのに。

 

 だが己穂の内で過去夢を視る千里わたしは、同じ『時』の能力である未来五感を持つ鬼の前で無い限り、自分自身の意思で行動出来ない。黒曜や雪、爽太に真実を話そうとすると、かつての己穂の言動との矛盾が私を拘束する。

 手記ならどうか、と筆をとってみたこともある。だが変わらなかった。寧ろ、かつて千里として翔星とうさまに見せてもらった己穂の手記通りに、私は日々を綴っていて絶望は深まるばかりだった。結局、私は黒曜が雪を殺める直前にならないと行動が出来ないのだ……。

 

 不意に、部屋に吹いた柔らかな風が手記をめくる。風に僅かに靡く金の髪を耳に掛けた私は、ある予感に引かれて庭を振り向いた。


 満開に咲く薄紅桜は、麗らかな陽光により時間ときを止めた。漆黒の翼は優しく春風を撫でて舞い降りたのに、薄紅桜と同じく私の恐怖症フォビアも支配している。

 艶めく漆黒の黒髪。浮世離れした美しいかんばせは、今私が居るのが『過去夢』なのか『現代』なのか分からなくなる程に時を忘れさせた。憂いを帯びた睫毛の奥……黒曜石の瞳が捉えたのは、己穂わたし。まだ彼が『千里』の事を知らない事実に、複雑な寂寞を覚えた。


「もう来ては行けないと告げたのに」


 私は胸を刺す痛みに耐える。彼の名を知らぬ己穂わたしは彼を黒曜とは呼べないのだ。


「今は誰も屋敷に居ない。そうだろう? 」


 黒曜は、妖と人の戦いを終焉へ導く為の対話という口実で己穂わたしに妖との戦いを放棄させようとしていた。彼の本当の目的が己穂の魂を瞋恚しんいの焔が支配する夜に堕とし、自らと同じ原初の妖にする事なのだと千里わたしは知っている。


「確かに兄も狩人達も出掛けている。だけど直ぐに付き人は戻ってくるし……雪も……帰ってくる」


 黒曜は、私が躊躇いながら最後に告げた名に秀眉を寄せる。黒曜は私が雪を大切に思っている事を、私が人へ執着するしがらみだと思っている。

 過去夢を視る前は『人』を大切に思う己穂を理解出来なかったけれど、今なら千里わたしも分かる。 全ては無理でも手の届く範囲は……安寧の日々を生きる人達を守りたいという想いを。

 光芒を受けて輝く、黄金に広がる田園に感じていた己穂の郷愁は、穏やかな安寧の中で自らを愛してくれた過去の世界へ『帰りたい』という想いだった。まだ安寧の中に居られる人々に、妖と戦い続ける己穂じぶんと同じ『安寧との離別』をして欲しく無いのだ。


「人など……いつか妖となる己穂にはしがらみに過ぎないだろう」


 私は黒曜の居る薄紅桜の元に立つ。花吹雪は美しいのに、私には受け入れ難い。舞い落ちる花弁の一片いっぺん、一片の輪郭が嘲笑うかのように意識を不快に擽るから。

 

「もし妖になるのが避けられない運命さだめだとしても、私は大切な人達を守る。私の事を愛してくれた人達の事が私も大切だから。……貴方にもいつか理解して欲しい」


 不意を突かれたように黒曜は瞬く。僅かな寂寞と理解出来ない事への拒絶にかんばせを歪ませる。


「人への想いなど分からない」


「貴方もかつて人だったのでしょう? なら誰かに愛されていたはず」


「私は親のように慕っていた人に、信じていた愛情を裏切られた。人の醜さが無ければ、私は原初の妖にはならなかった」


 穏やかだった黒曜の双眸に瞋恚しんいの焔が宿る。憎悪で黒曜を妖へと変えた、比呂馬の事を言っているのだ。

 黒曜を原初の妖へと変えた憎悪は、やがて連鎖するように私と智太郎にも宿ってしまった。母のように安寧を与えてくれたのに千里わたしを否定し孤独の鳥籠に閉じ込めた『妖』である黒曜を憎んでいないかと言えば、私も嘘になる。『人』である私は胸に巣食う痛みを堪えて微笑を浮かべた。

  

「だけど私も同じ、醜い『人』なんだよ」  

 

「違う。己穂はただ『人』に縛られているだけだ。己穂はいつか必ず私のように裏切られ『妖』となる」


 黒曜は自分自身が私を裏切る事になるとはまだ知らない。その胸の内に、燻る種火があるとしても。

 迷いなく私を見つめた黒曜は、自らを原初の妖へ変えた『人』という醜い存在と、私の事を別の存在だと思っている。それは嬉しくもあり同時に辛い。

 私はきっと、大切だと思う人達の輪の中に『人』を受け入れた黒曜も居て欲しいのだ。妖だとか人だとか……分け隔てなく共通の安寧を得られたら。夢物語だとは分かっている。妖と人の対立は現代みらいでも完全に無くなる事はないし、私達の間に蔓延る憎悪も消えたりしない。


「人と妖は……憎み合わずに、共に生きられないの? 」


 その願いは、かつての己穂わたしが最期までいだき続けた祈りだったと知る。今の私は、己穂としても千里としても……同じ願いを抱いていた。


「妖が人を喰らう限り対立は無くならない。妖も生きる為に人を喰らわねばならない。……だが私達は打開策を模索する為に、こうして対話しているはずだ」


「……っ……」


 ならば、雪を殺さないで。その言葉は、やはり声にはならなかった。 黒曜に人の愛を教える事が出来れば、『人』は憎悪を与える醜いだけの存在じゃないと分かるはず。そうすれば私達の対立は生まれず、私を妖に転じさせる為に雪を殺す事なんて無い……。


【黒曜が唯一心を許している『人』は、過去も未来も私だけだ】


 私は気づいた事実に愕然とする。黒曜を変える事が出来るのは、己穂でもあり千里でもある私だけなのだ……。かつて己穂として黒曜を愛していた。だけど千里として生まれ変わった私が愛しているのは、雪の生まれ変わりである智太郎だ。

  

 ――千里わたしは『大切な人』を助ける為なら、自らの愛を裏切れる……?  


 かつての己穂わたしが無意識に、愛する人からならば血肉を喰らわずとも生力しょうりょくを得られるように『妖』を改変したのは……きっと妖である黒曜に『人』の愛を知って欲しかったからだ。

 死に逝く己穂わたしじゃなくても、誰かが黒曜に『人』の愛を教えてくれるはずだと思っていた。だが……今も黒曜が見つめているのは同じ魂だ。


「……どこか痛いのか」


 自らも痛みを内包したように秀眉を寄せた黒曜が、私の頬に触れたことで、泣いていたことを自覚する。ひんやりしているのに私の体温を受け入れるような、優しい指先は過去夢であっても変わらない。


「分からないよ。何で、私は泣いてるの? 」


 黒曜はただ、白檀の香りと共に漆黒の翼で私を包み込んでくれた。逞しいかいなに抱かれた私は、黒曜の強い鼓動に安堵する。柔らかな漆黒の翼が作り出した私を守る小さな空間から、慣れ親しんだ慈愛を思い出した。

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