第百十九話 さよなら
【午後八時二十八分】
千里 智太郎
杉林にて
《千里視点》
呆然と花緑青の双眸を瞬く智太郎は……私の言葉が、嘘か否か図りかねているようだった。だが、智太郎には分かるはずだ。私が、こんな嘘をつく必要が無いことくらい。
「……何を言ってるんだ。母さんは、半妖の死の
「違うよ。咲雪が死の
咲雪が私に殺して欲しいと望んだ事は言わなかった。告げる事で、罪の重さを軽くする事は私にとって罰にならない。智太郎に恨まれる事がどんなに怖くても……私はその罰を受けなくてはならないから。
銃口の恐怖が重く変わる。向けられた死は、覚悟していてもやっぱり心臓が捻れる程に恐ろしくて、今にも逃げ出したくなる。翼はもがれてしまったけれど。
「私を殺したいなら、そうしてもいいよ。だけど、今はまだ死ねない。智太郎を死の
「何故、母さんを殺したんだ」
震える銃口は、まるで智太郎の揺るがされた想いのようで、私は唇に暗い弧を描く。
「私と同じ孤独な子に、私の孤独を埋めて欲しかったから。……智太郎が私を好きになったのは、私がそう仕向けたからだよ」
「お前は……本当に俺の敵なのか……」
震える智太郎の声に……繋がれた絆が、切れた音がした。
私の心臓は器を破壊してしまう程に鼓動を打ち鳴らすのに、巡る血は凍えていく。役立たずの足は冷たい雪道に張り付いたまま、怖くても逃げられない。自分の乾いた唇からぎこちなく吐かれる白い呼吸音と、耳鳴りが煩い。
――智太郎の、麗しい少女のような
雪華の睫毛が羽ばたき、花緑青の双眸に焔が輪郭を成していく。愛を喰らう
私は寒風に乾いた
前触れも無く、苦悶で
何かがおかしい。妖力である花緑青の陽炎が、智太郎自身を喰らおうとしてるのは明らかだった。
―― 妖力の、暴走だ。
妖力の手網を握るのは心で、心の安定は想いに直結していると、智太郎が以前私に告げたではないか。
まさか、私が罪を告げたから……想いが憎悪で揺らいだ智太郎は、妖力の手網を手放してしまったのか!
「智太郎! 」
私は火傷のような内傷を負う足を引き摺るも、嘲るような雪に倒れ込んでしまう! 弾丸の擦傷による身体の麻痺は、解けるどころか強まっていた。
智太郎は花緑青の妖力に身を燃やされながらも、傍に倒れた私へ苦く微笑し瞼を閉じた。
焼き付いた智太郎の微笑に、私は無力さを痛感し唇を噛んだ。
私はまるで疫病神だ。智太郎から奪うだけ奪って、命すら助けられないなんて……生きている意味なんか無い。
智太郎を助ける為に
それなのに、どうして智太郎は死に向かっているの?
どこから間違っていたというのだろう。
原初の妖になっても構わないと決意した時から?
罪を告げた時から?
鴉を追うと決めた時から?
智太郎に想いを告げた時から?
智太郎を救うと決めた時から?
咲雪を殺めた時から?
地下牢で智太郎と出会った時から?
――違う、初めからだ。私が生まれた時から、全てが狂い始めていたんだ。
私が生まれなければ、きっと母様は生きていて父様は辛い想いをせずに済んだ。
那桜と省吾も影の妖に殺されなかった。
咲雪もまだ生きていたかもしれない。
智太郎は私なんか好きにならずに、桂花宮家から逃げ出して外の世界で暮らせていたかもしれない。
黒曜だって、己穂への想いを掻き乱されずに済んだ。
私の居場所なんて、初めから無かったんだ。
私は
身勝手な孤独に溺れた結果が、智太郎を救えもしない今の私。私が恨みたいのは黒曜じゃない。咲雪でも、母様でも父様でもない。
【私が一番憎んでいるのは、私だ】
――意識を闇に引かれて瞼を閉ざした私は、
若葉色の光のベールを捨てた私は、手招きされるままに、闇から現れた彼女の後を追う。
私が居なくなった世界の裏、
【皮膚の下へと這いずるように、私の体温を貪欲に喰らおうとするくせに、どろりとした虚無という器に引き摺り込もうとする闇の手触りが、侵食する】
鏡の向こうの貴方の事を、私は見たことがあるような気がする。
闇のベールを捨てた彼女は、腰まで流れる濡れ羽色の髪を、鮮やかな
目の端に、私とよく似た金の瞬き。
その菱形の星の瞳孔は間違いなく、妖の物だ。
濡れ羽色の小さな翼の耳も。
彼女の唇から紡がれる声を聞く前に、私は自身の内に輝いていたはずの若葉色の
だが、私を呼ぶ声に瞼を開く事が出来た。
「千里! 」
私を起こした、漆黒の翼を広げた男に焦点が合う。
彼は、浮世離れした美しさの
「無茶をしたな。流石に、これ以上待つ事は出来なかった」
「黒曜……? 」
綾人が、黒曜への言伝を果たしてくれたのだ。
――
「智太郎は! 」
「智太郎は気絶している。だが、もう一度目覚めれば、再び妖力が暴走するだろう」
半身を起こした私の隣で、横たわったままの智太郎は青ざめた顔をしているが無事だ。だが再び暴走するという黒曜の言葉に、重い鼓動が鳴る。
自身への憎しみと
自身の内から
意識が揺らぐ中、瞬いた私は自身の若葉色の生力が、かつての黒曜のように、流れ出て地に吸い込まれるように消失していくのに、内に残る若葉色の光は闇となって変質していくのが視えた。
「己穂の過去夢の中に逃げるんだ! このままでは完全に妖になる!」
黒曜の叫びに、激痛から漂流する意識を引き戻した私は、喘ぐように息を吸う。私は人と妖の狭間に立ち続けるどころか、かつての黒曜のように、妖へと向かっていた。
確かに過去夢に逃げれば、一時的でも妖化を食い止められるだろう。だが、私はまだ逃げる訳にはいかない。
「今の私なら、智太郎を救える。そうでしょ?」
「無茶だ……」
己穂から私が受け継いだ魂を
呆然と黒曜石の双眸を瞬く彼を置き去りに 、私は恐怖を視る。瞼を閉じた私の視界には、流れ出る自身の若葉色の生力と身の内で闇に変化し始めた妖力。
その向こう……倒れた智太郎は闇に輪郭が呑まれそうになっていた。
ずっと、智太郎を生力の視界で、深く視るのが怖かった。
咲雪のように、逃れられない事実を与えられてしまったら、絶望を確定させられてしまう気がして。
今まで闇にしか視えなかった妖力は、その輪郭をはっきりと成した。
智太郎の心臓は、器という人の檻に閉じ込められた白い太陽だった。妖力の根源である白い太陽は、迸る
私の罪は数多くあるけれど、その中でも決断さえすれば
――智太郎を、『私の味方』という立場から解放しなかったことだ。
地下牢から智太郎が追いかけてきたあの時、叫びに振り返らなければ。智太郎と約束を結ばずに、桂花宮家からお爺様の元へ保護してもらっていたら。
十年間、安寧に甘んじて、目の前に存在する罪を見逃してきた。智太郎の手を離す事は、何時だって出来たはずなのに。
私は遅すぎる後悔のまま、白い太陽に、
妖は人に自らの血肉を植え付けて、生力を奪い続ける呪いと成すが、私は真逆の事をした。
智太郎を救うため、
人と原初の妖の狭間に立つ、今の私だから出来たのだろう。智太郎が妖の
螺旋の紫電が刺さった、白い太陽の心臓は妖力を奪われ、異常な
「千里……? 」
意識を取り戻した智太郎の声に、微笑した私は瞼を開く。
冴えわたる月下、雪華の睫毛をゆっくりと瞬く智太郎は、茫洋と花緑青の双眸を向けた。雪原で目覚めた智太郎は心臓を押さえて違和感に眉を顰めたものの、自らに起こった変化をまだ知らない。
半妖の死の
どうか……私の事を風化させて。
智太郎から奪ってしまった時も幸せも、過去として返す事は出来ない。だけど私がいなくなれば、人として新たに紡ぐ事はきっと出来る。人としての幸せを取り戻した智太郎の隣に立つのは、智太郎に恨まれるべき罪を犯した私じゃなくても良いはずだ。
私の願いは叶ったはずなのに、何故こんなにも胸が押し潰されそうなのだろう。
「……さよなら、智太郎。もう人として会う事は無い。
私が己穂の刀を拾うと、黒曜は私の手を取って立ち上がらせた。私が握る己穂の刀に、黒曜によって白い鞘が滑らかに戻される。不思議と
私の身体を内から壊す紫電の痛みは、智太郎への
「人と妖の狭間に立ち続けられる方法が、己穂の過去夢の中にあるはず。千里が、まだ人で有り続けたいのなら方法を探すんだ」
張り詰めた
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