第百十三話 兄弟は、望む世界の乖離を知る


 【午後七時五十六分】


 黎映 

 癒刻時計塔前 雪原にて

 

 《黎映視点》


 

 ガス燈瞬く川沿いから、鉄紺てっこん色の正絹シルクのような星空へ、天灯を浮かばせた後……私は街中の闇へと消える一人の男を目にした。

 そのすらりとした立ち姿に、背筋をいかづちが走ったような衝撃を受けて追いかけると、踏み出した足は灼熱の痛みに鞭を打たれた!

 

 私の手足を捕縛する赫赫かっかくたる光の蛇を認知し、息は張り詰めた。横倒しになる視界に、襲い来る衝撃を予測して歯を食い縛る。雪の煉瓦道に身体を強かに打ち付けられて、乱暴に肺から息を奪われた。

 

 過ぎ去る誠は、闇夜に浮かび上がる妖の双眸で一瞥した。追いかけてくるのを予測していたのだ……。

 呼び止める為に、喉奥に火が付いたように叫び続ける私に、誠は止まる事は無かった。


 

 『ばく』の術式を解き、誠を追う為に深緋の炎を纏わせて雪原を疾走する私は、辿り着いた癒刻時計塔の扉が開かれているのを目にした。

 雪原に浮かぶ闇への入口は不自然で、得体の知れない重い不安に肺を支配される。既に戦闘になっているかもしれない。

 

 雪原から照り返される僅かな月光すら、闇に呑まれる時計塔内部に飛び込むと、床に開かれた隠し扉が目に入った。そのまま、地下へと岩肌が覗く階段を駆け下りる。

 洞窟内部へ到達すると、冬だと言うのに異常な暑さが肌を焼いた。吹き荒れる熱風に、私は顔を顰めた。

 

 

 茜を纏う黒い焔と、金の鱗を照らす滅紫の蛇達が喰らい合う中……男の怒号が洞窟内部を支配した!


 

 妖力を化した黒い焔を全身に纏わせるのは、誠の『ばく』の術式に、漆黒の片翼を捕られた男。誠がその強大な妖力に執着する、半不死の妖……鴉だ。

 鴉は赫赫かっかくたる光の蛇を、黒い焔で火達磨にした。その黒い焔が向かったのは、『縛』の術式である光の蛇で繋がっている誠だと認識すると臓腑が冷えた!

 

  黒い焔に支配され、ぴんと張られた縛の術式を、誠は解除できない!


「おのれ……ここまでか……」


 望みが絶たれかけ、誠は無念に眉を寄せた。黒い焔は誠を焼き尽くそうと轟轟ごうごうと唸りをあげた!

 誠が、人とは変わり果てた滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかみかづきの双眸を閉じようとした時……。

 自らの世界を脅かされた私は、本能が貫く衝動のまま右眼に生力を吸わせていた。深緋の炎の妖力を纏った鎖の一閃と化して、誠に繋がる黒い焔の導火線を断ち切った!


「兄さんは、死なせません! 」


黎映りえい! 」

 

 目の前の鴉と睨み合いになる私に……少女の声が届く!

 視界を掠めた、絹のような鶯色の髪に息を飲む。

 秋暁しゅうぎょうの空に輝く明星の様な金の杏眼を輝かせ、千里は笑みを弾けさせた。

 白い耳と尾を顕現させた智太郎に抱えられ、刀を持つ千里の無事な姿に溢れた安堵が、私の張り詰めた頬を綻ばせた。


「遅くなりました、千里!」


 思わず私は千里へ叫び返していた。振り返った智太郎は私に叫ぶ!


「俺達は雪原へ向かう! 鴉は俺達が何とかするから、お前は自分の目的を果たせ! 」


「はい! 二人は先に行ってください。兄さんは私が繋ぎ止めてみせます! 」


 私は頷いて、二人に誓った言葉を伝えると、千里を抱える智太郎は花緑青の陽炎が化した一陣の風となり、私が疾走して来た階段へ向かった。

 

 浮世離れした美しいかんばせを顰めた鴉は、黒曜石のような双眸で私を一瞥するも、『縛』の術式から解放された漆黒の翼を広げ、千里達の追跡を開始した!

 

 深緋の炎を纏わせた私は後ろ髪を引かれるも、彼らに背を向ける。

 舌打ちをした誠は両手を広げ、洞窟内の闇から滅紫の蛇を更に顕現させた。

 

 

 ――刹那、誠の姿はと合致し、現実を突きつけられた私の心臓は喰い荒らされた。


 

 鴉に敗れた後……大ノ蛇栄螺堂おおのへびさざえどうの暗い底で横たわる誠は、自らに与えられた一筋の光を見上げていた。

 堕ちた彼に、一片の黒い羽が降る。薄茶の切れ長の瞳に映る黒い羽を喰らうように、鴉に眠らされたはずの白い大蛇が突風と共に現れた!  

 

 妖の巨大な金の双眸をゆっくりと細めた大蛇からは、冷静な意志を感じる。

 大蛇は誠にこうべを垂れるかのように近づく。   

 誠の口の端は、望みが叶ったのように暗く吊り上げられた。

 大蛇は抵抗しない誠を、その巨大な赤い口腔と金の牙で呑み込んだ!

 大蛇が孕んだ赫赫かっかくたる光は、逆に大蛇の輪郭を掻き消すように、強く輝く!

 闇から滲むように蠢き始めたのは、金の鱗を照らす滅紫の蛇達。有るべきはずの眼が無い蛇達は絡み合い這いずり狂う。視る者の脳髄を侵すかのように、本能からの嫌忌を植え付ける。

 やがて……赫赫かっかくたる光は、すらりとした一人の男の姿となった。蠢く蛇達の上に立つ彼は、蠱毒に堕とされ深淵から這い出た者の様に顔を上げる。


 男の滅紫けしむらさきを貫く金の逆三日月さかさみかづきの瞳孔は、薄茶だった瞳の面影を残していない。一房に纏めて肩に触れる、紺を弾くようだった黒髪も、鮮やかな紺青こんじょうに一筋の白が這うようで禍々しい。白皙の肌には、大蛇の鱗がまだらに出現している。


 現れたのは、呑まれたはずの誠だった。

 

 誠を呑んだはずの大蛇は、誠の強欲にいた。

 その結末も……誠とよく似た姿の先祖である、伊月永進 えいしんを想う、大蛇の望みだったのかもしれないが。


 

 ――今、の誠は、過ぎ去った未来視通りの姿。茜色を纏う黒い焔が去った暗い洞窟内で、弟であるはずの私をめつける。


 

 だがこうして、痛い程の殺気を肌が感じるまで……私は兄さんが妖になった事を信じたく無かったんだと自覚した。

 私は苦々しい想いで、人では無くなった自らの兄と向かい合った。

 それでもまだ、誠を人に戻し、正しい世界へ繋ぎ止める可能性が有るはずだ。弟である私が、誠を説得しなければ、誰が兄を人に戻せると言うのか!

 

「兄さんには、問いただしたい事が山ほどあります」

 

「黎映に告げる事など、俺には無い。邪魔をするならば、お前も殺す! 」


 誠は逆三日月が宿る滅紫の双眸を猛々しく見開き、それ以上私に答えることは無い。

 代わりに、あるべきはずの眼が無い滅紫の蛇達を差し向けた!

 私は消えた安寧へ、突き動かされる切望のままに深緋の炎で滅紫の蛇達を焼尽した!

 妖力で化した蛇のはずなのに、生き物が焼ける嫌な匂いが鼻に纏わりつく。


「何故ですか! 私を殺すならば、 幾らでも機会はあったはずだ! さっきだって、兄さんは私を殺さなかったじゃないか! 」


「お前が殺すに値しない程、脆弱だっただけだ」


 情など感じさせない能面のような表情の誠は、冷えた声音で吐いた。自分だけは兄さんに家族と思われていたはず、という幻想を抱いていた事を知った。

 理解した今も、手放せる訳が無い!


「兄さんは、暗い欲望に堕ちた伊月家で、私の唯一の味方で居てくれたじゃないですか! 私もついて行くと決めたから、兄さんの手を取ったのに……どうして置いて行ったんだ! 」

 

 顔を歪めた誠は、鼻で笑う。暗い嘲笑は、共に過ごした時すら遠くに感じさせて、私は悔しくて唇を結ぶ。


「本当にお前は俺の事を理解していない。未来視の魔眼を持つお前は、俺にとって良い道具だったんだよ。兄のふりは、お前を使う為の暗示に過ぎない。大蛇の力を手に入れ、強者となった俺にとって、お前は要らない道具となっただけだ。お前は、父である弥禄みろくにだって散々使われて来たじゃないか」


 闇の中から這い出た滅紫の蛇達に、私は我に返る。

 再び深緋の炎を顕現して焼尽するも、際限が無い!

  洞窟を覆う、おびただしい滅紫の蛇達は金の鱗を照り返し、私を嘲笑うようだ。

 

「何もかも嘘だったと言うのですか! 魔眼を埋め込まれた私を世界に繋ぎ止めてくれたのは、兄さんだけだったと言うのに」


 私は深緋の炎を両手に纏わせた鎖と化し、滅紫の蛇達を蹴散らした勢いのまま、誠を捕縛する為に放つ!

 だが誠は、深緋の炎の鎖を、赫赫かっかくたる光の蛇で拘束した!

 そのまま深緋の鎖を引かれた私の眼前で、誠は怒りに牙を剥き出して咆哮した!

 

「全て、お前の幻想だ! 私にとって、お前は弱者を滅絶めつぜつし強者が君臨する世界を創造する為の、基盤の塵にも満たない存在だ! 」


 私の立つ世界を鼓膜ごと揺さぶられ、歯向かうように叫び返した!

 

「何故そんなにも力を追い求めるのですか! 弱者が滅絶めつぜつした世界に、何の意味があるって言うんだ! 」


「お前が一番理解しているはずだ。弱者は卑怯だ! 強者になるはずの存在の芽を摘み、足蹴にするのだから。姿が変わった途端、お前を捨てた母のらんを恨んでいないと言うのか! 」


 誠の告げた名に抉られた胸の内から、呪いたくなるような膿んだ痛みが噴出するのを自覚して歯噛みした。

 私の内にも、暗い感情は眠っていた。

 

「母さんは確かに私を捨てた……。恨んでない訳が無い。だけど、殺す必要なんて無かった! 罪を犯していたって、父さんの命を奪う権利も、私達には無かったんだ! 」


「弥禄は、真の強者足り得なかった! お前は、弥禄から解放される事を望んでいただろう。あのまま一生隔絶された檻の中に居るつもりだったとでも言うのか! 」


 赫赫かっかくたる光の蛇は、深緋の炎の鎖を遂に捩じ切る!


 灼熱となり自身の頬を掠めていく、弾けた火花の向こう……誠が居ない。

 

 背筋を怖気が撫でるも、左下から冷気が肌を逆立てる! 瞬時に背後へ避けるも、私の面紗の片端を溶かしたのは毒を帯びた蛇の牙の一閃だった!

 私の左目が見えない事を、誠は良く知っているのだ。

 面紗を捨て、洞窟内をくまなく右目で確認するも、その姿は見当たらず焦燥感に肌はジリつく。

 

「自由を望まない訳が無い。だけど、犠牲なんて要らなかった。父さんと母さんが生きている世界からでも、望んだ自由は得られたはずだから! 」

 

 私は右足で硬い地面を踏みつけ、深緋の炎の鎖の束で、放射線上に地面を抉る!

 洞窟内を蔓延る滅紫の蛇達は、轟轟と銀を照り返す深緋の大地に為す術なく呑み込まれた!


「だがお前は解放を、俺に望んでいただろう。自らの自由への渇望すら、俺に明け渡したお前には手段なんて選ぶ権利は無い! 」


 私は、誠の高らかな声の反響に頭上を見上げる。岩天井を蛇で貫いて、誠は頭上に居たようだ!

 紺青こんじょうの髪をたなびかせて、降り立つ直前……誠が新たに生じさせた滅紫の蛇達は金の鱗を照り返して、銀の鎖を照り返す深緋の大地を抑え込む!

 私は愕然と、深緋の炎の鎖を断ち切る滅紫の蛇達に瞬いた。

 

「私は愚かだったのですね……。兄さんに言われるまで、自ら自由を掴む手段を諦めていた事にすら気づかなかった。……だけど私や母様のような弱者だって、いつか強者に変わることが出来る! 兄さんだって始めから強かった訳じゃないでしょう。弱者を滅絶した世界からは、強者なんて生まれない! 強者だって、いつか弱者になる事があるはずだ! 」


 毒牙を向けて襲いかかろうとする滅紫の蛇達を、私は深緋の炎で疾走して回避する!

 咆哮した誠は、炎の残影を追うように赫赫かっかくたる光の蛇を放った!

 

「強者になれる弱者は、初めから強い意志を抱いている! 本当の強者は力を手放しても、強い意志は消失しない! 」


 私は深緋の炎の疾走で、赫赫かっかくたる光の蛇を振り払う。光の蛇は炎に追いつけず、岩壁を破壊した!

 

「強者の振りをした弱い意志を持つ者も、弱者のままで有ろうとする奴らも……滅絶しなければ、世界に寄生し貪り続けるだけだ」


 唸るように言葉を吐いた誠の前で、止まった私はゆるゆると首を横に振る。

 

「……やはり私には、兄さんの見つめる世界は理解出来ません。兄さんのように広い世界は見つめられない。私の抱く世界は、大切な人達で出来ているのだから。……私が知りたいのは、私の世界の一部である兄さんの事なんです」


 私は顔を上げて、誠に手を差し伸べる。

 こんな戦いは私にとって無益だ。

 兄さんが私を殺そうとしても、私には兄さんを殺せない。


 私が世界に取り戻したいのは、目の前の存在なのだから。


 だが……拒絶に顔を顰めた誠は、差し伸べた手を取る事無く振り払った!


 

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