第九十八話 燻る種火



「……それで、何もせず帰ってきた訳か! お前らしくも無い」


「五月蝿い、たまたまだ」


 私は己穂との出来事を目の前の男に伝えると、顔を顰めた。ぐびぐびと昼間から酒を呑むこの男も、もちろん妖だ。額に燃える角を二本顕現させ、細めた深緋こきひの双眸で小馬鹿にするのは、鬼の妖。原初の妖では無いものの、私とは腐れ縁という関係に落ち着いている。鬼の変わっているところは、格上である私を恐れもせず、友と呼べるところだ。通常の妖であれば、『原初様』と震え上がるだろうに。彼の、未来を感覚するという能力の特殊性もあるかもしれない。自身の未来は視えないなど、制限に縛られた能力ではあるが。


「中々、手強そうだ」


 私が苦し紛れに鬼へ言い訳すると、鬼はにやりと口の端を吊り上げる。


「落とすのが? 」


「……は? 」


 私は鬼を見つめ、瞠目する。この男は一体何を聞いていたのだろう。妖を討ち滅ぼす、現人神と言われる己穂をどう殺すか……そう言う話だったはずなのに。


「だって妖にして番にしてしまえば、人間との戦も終わるだろ? お前、原初の妖のくせに番が居ないし」


「……そう言うお前もだがな」


「俺はまだまだ若輩者ですから……先輩? 」


 鬼はこう言う時ばかり年下面をするのだ。無意識に漆黒の殺意が滲みかけるが、鬼は存じぬふりをして酒を飲む。


「でも、真面目な話……そいつが妖にならないのなら戦は続く。弱い妖は死んでいく。糧であるはずの人間によって、な。われらの世界は弱肉強食。そこに人間が介入するのは少々勝手が違うが……己穂という人間が強者であるならば犠牲は生まれ続けるだろうな。……まあ、俺は負けるつもりは毛頭無いが」


「今のまま、己穂が人間である事を望み続けるならば? 」


 鬼は深緋の双眸の瞳孔を細め、重い殺気を滲ませる。


「無論、殺すしか無いだろう。俺には理解できないが、人間と番になる奴もいる。だが、己穂は唯の人間じゃない。人間である事により、戦の渦の中心に立つ女だぞ? ……己穂が人間のまま番になろうだなんて、考えるなよ。その時は原初の妖とは言え、お前が殺される。不死だから、骨が折れるだろうが……原初の妖達が束になればれない事は無いだろう」


 私は鬼に何も返す事が出来なかった。死など怖くは無い。だが……そこまで波乱を連れた運命さだめを受け入れてまで、己穂を人間として番にする必要など無いだろう。……何方どちらにしても今の私には関係の無い話だが。鬼は、黙ったままの私にそれ以上言葉を継ぐ事無く、再び酒を呑んだ。


 鴉の姿で己穂の前に現れるのは、日課になっていた。彼女の傍は、人間だった頃の暖かな遠い記憶を思い出させる程に安寧を覚えたから。


「また来てくれたのね」


 己穂の傍に降り立つ。彼女は何時ものように金の瞳を細めて、綻ぶような微笑を向けてくれた。掌で翼を撫でられると、陽だまりの中で満ち足りた安寧に息をついた。私が己穂から受け取る物は……温もりだけでは無くなっていった。己穂は何時か、妖に殺される。私という妖に……。殺したくなければ、己穂を妖にするしかない。だが、己穂が人で在りたい、というのは、彼女を慕う人間達を見つめていればよく分かった。雪や他の人間に、己穂が返す美しい微笑は人で在るからこそ綻ぶのだ。

 

 私は己穂を殺したく無いのだ、と気が付いた時……。私は己穂が人と妖、何方で在り続けるかという問答自体を、投げ捨てたくなった。己穂に……妖との戦を放棄させられれば。私が妖である事を知られても構わないから、己穂に生きて欲しい。そう自覚した時、私は仮の姿を解いていた。


「貴方……妖、だったの 」


 私の本来の姿である、黒い翼を広げた男の姿を前にした時、己穂はやはり険しい顔をした。彼女が白い刀を手にする前に、告げた。


「妖との戦を放棄してくれないか。私は己穂に死んで欲しく無い」


 私の言葉に、己穂は寄せた眉を解いていく。


「貴方は妖であるのに、人との平和を望んでくれるの? 」


 金の瞳を大きく瞬いた己穂の言葉に、私は直ぐに答える事が出来なかった。本当は、妖と人……何方どちらにも興味など無い。ただ自分が妖であるから、妖を守っているだけだ。そう考えれば人である己穂が、同じ人を守ろうとするのは当然の事であったのだ。私が己穂に答えられたのは、結局無難な言葉にしか過ぎなかった。


「私は、人と妖が無闇に殺し合うのは無意味だと思っている」


「……妖は人を喰らう。貴方も、そうでしょ」


 己穂は虚ろに瞬いて、私を見上げた。妖が生きていく為には生力が必要だ。そして、妖が生力を得る為には、人の血肉が必要。己穂のように生力を操る人間であっても、妖に生力を与える為には血肉以外の手段など無いのだ。だから、妖を淘汰しない限り、人はどうしても犠牲になる。何も答えられない私に、己穂は諦めたように俯く。


「私は……妖が人を喰らい続ける限り、戦う。人を守るのが、私の務めだから」


「……己穂は、何時か自分がわたしたちと同じ存在になるかもしれない、という事を分かっているのか」


 己穂は、雷に打たれたように私を見上げた。極光を纏う金の双眸は、黒い翼を映して揺れていた。


「私が、妖になる……? 」


「生力を操る力のある人間は、身の内を焼き尽くすような憎しみをきっかけに原初の妖になる。……知らなかったようだな」


 己穂は私に答える代わりに、自らの金の髪を掴む。継ぐ言葉を奪われたように、桜色の唇は痙攣する。


「このまま妖との戦を続けるのであれば、己穂を殺すしか無くなってしまう。妖になれば、戦も終焉へ導ける。己穂は、このまま戦いを望むのか? 」


「例え私が妖になったとしても……私が戦いを止めてしまえば、再び人は、一方的に妖へ喰われてしまう。だけど本当は戦いなんて望む訳、無いじゃない……! 」


 己穂は耐えかねたように顔を歪ませ、金の双眸から月長石のような涙が白皙の頬に伝う。震える小さな背には、重すぎる多くの命が掛かっていた。己穂が望まずとも、人は彼女を『現人神あらひとがみ』と呼び、縛り付ける。かつて私を『からす』と呼んだように……。

 

 私は無意識に、己穂の頬に伝う、極光の輝きを帯びた月長石のような涙を指先に掬っていた。己穂は私を見上げたまま、潤む金色の双眸を見開き、桜色の唇から小さく息を吐いた。白皙の頬がほんのりと色づいていく。このまま時を止められれば、と私は叶わない願いを抱いた。


「己穂は、人を捨てられないのか」


「私は、人で在り続けたい。美しく儚い生命いのちを輝かせる『人』が好きだから。大切な人達が居るから、私は人として生きる意味を得られるの」


 朝露を弾いた一輪の花が綻ぶように、己穂は微笑した。金の双眸を細めた己穂に、私は切り裂かれたような灼熱の痛みとともに、鼓動を感じた。燻る種火は、羨望と嫉妬で出来ている。

 

 私は『烏』と呼ばれ、人であった時代……己穂のように、人を真っ直ぐに思えていただろうか。答えは否だ。疑心暗鬼が殺意に転じる恐怖に怯え、自らと比呂馬を守る為に『烏』になった。人は、自らから常に奪う存在だった。妖となった今も、私から己穂を奪おうとする。己穂の魂が美しく、人である事に固執するのは……結局、彼女が人に縛られているからだ。


「……そうか」


 私は胸の内に燻る種火を悟らせ無いように、己穂から指先を離すと、彼女は苦い物を交えた微笑を返す。


「ありがとう……私の事を心配してくれたのでしょう? 貴方は妖だけど、優しいのね」


「……己穂に死んで欲しくは無いから」


 私の内にある感情を知らない己穂は、愚かだが美しかった。彼女は嬉しそうに目を細める。偽善と真実を混ぜて、彼女が求める言葉を与える。


「私は戦いの終焉を、まだ諦められない。己穂の命も」


「人と妖が戦わなくても済む方法があるならば……私も模索したい」


「ならば……共に模索すればいい。己穂に再び会いに来る」


 己穂は躊躇いに長い睫毛を伏せる。


「……ここに来てはいけない。貴方が殺されてしまう」


「見つからなければいい。また姿を変えて訪れるから」


 己穂が頷けないのは、少しでも私の事を想ってくれているからだ、と胸が焼け付く。但しそれは希望の燈ではない。人を想う己穂が指先を伸ばしかけたのは、黒い瞋恚しんいの焔の心臓だ。憎悪から生まれた黒い焔はやがて、美しく輝く己穂の魂も同じ色に染めるだろう。


 己穂を人の世に縛り付けるくさびなど、焔にべてしまえばいい。


 心臓の鼓動が命ずるままに生じた一つの種火が、明確に形を成したのを感じた。






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