第九十九話 偽りのままで

 

 梅の花が咲く頃に出会ってから、妖と人の戦いを終焉へ導く為の対話という口実で、己穂に妖との戦いを放棄させようとして来たが、やはり妖が人を喰らうという一点が立ちはだかる。己穂が自らこちら側に来るのも、不可能だ。己穂を説得出来ないのであれば、周りの人間の首を全て断って、憎しみと共にこちら側へ堕とせばいい……。彼女が妖になってしまえば、もう人間は己穂を縛らないはずだから。

 そこで私は気がついた。己穂の大切な人を奪い、人で在りたいという彼女を妖にしてまで、己穂に生きて欲しいのは何故か。人にも妖にも興味を持てなかった私が、何故己穂だけに執着を覚えたのか。『烏』と呼ばれていた人の頃の私と、己穂を重ねているのだろうか。だが、己穂は人であった頃の私とすら異なる。同じ生力の視界を持つ存在だったというのに。


「同じ存在になるはずの己穂が、自分と異なる想いを抱くのが許せないのか……」


 私が生力の視界を持ってしても得られなかった、世界の美しさと人の慈愛を彼女は与えられた……。私と同じ闇の深淵まで堕ちてしまえば、己穂も人が醜い存在だと分かるはずだ。愛する人ならば、笑っていて欲しいと願うのが常だろうが、心臓が黒い瞋恚しんいの焔である私は、その逆しか願えない。


 朝露を弾いた一輪の花が綻ぶように、微笑した己穂の魂が欲しい。皮膚の下へと這いずるように魂を憎悪で犯し、安寧を与える体温を貪欲に喰らい、どろりとした虚無という器で自由を奪いたい。秋暁しゅうぎょうに輝く明星の様な瞳を、瞋恚しんいの焔が支配する夜に堕としたい……。だから、己穂に生きていて欲しいと願うのだろう。


 俯くと、和毛にこげくすぐる白の五弁花が、鋸歯の形をした若葉に守られるように咲いていた。鬼灯の花だ。朱赤に色付いた袋状の実が成れば、盆提灯に見立てられる。魂の仮家とされる為に、故人への手向けとなるだろう。 だが、今はまだ白い小さな花にしか過ぎない。隠れるように下を向く花に、私は腹の底から唸るような苛立ちを覚えて、乱暴に茎ごと握り潰す。


「その偽りごと、葬ってやる」


 己穂を人の世に縛り付ける、白銀の髪の少女。彼女は原初の妖、『猫』の眷属である事を己穂に隠している。雪を己穂の前から消し去る事が出来れば、己穂を『現人神』の呪縛から解き放ち、瞋恚しんいの焔が支配する夜に堕とせるはずだ。

 雪の命を奪うのは一番最後だ。先ずは、己穂を縛る人間達から首を断たねば。流れるはずの鮮血に酩酊し、背筋が痺れるような愉悦を思うと、疼いた牙を衝動的に小さく舐めた。やはり私も所詮……人の血肉を喰らう妖なのだと自嘲する。手の内を不快に湿らす鬼灯の花を、妖力の化身である黒い焔で一瞬で灰にして焼尽した。


 私は、漆黒の翼を広げ飛翔を開始した。牙の妖を筆頭に、意識の端で命ずる。


『現人神と狩人達を、屋敷から連れ出せ。現人神を傷つける事は許さないが、狩人達は殺して構わない。……白銀の髪の少女は私が殺す。屋敷に残しておけ』


『御意』


 私が己穂の屋敷に降り立った時……思惑通り、妖に拘束された白銀の髪の少女が庭に立たされていた。血の湿った香りが、風に乗って鼻先に届く。屋敷の外では、人の悲鳴と刀の金属音、妖の歓喜の咆哮が、殺戮の饗宴を極めていた。時々稲妻が落ちたように、激しい雷鳴が響くのは……己穂がそこに居るからだ。

 雪は舞い降りた私の本来の姿を見ても、暗い憎悪を宿す銀の瞳で、睨むのを止めない。白銀の耳と尾を生やし妖化しても、所詮人混じりの彼女の抵抗は無意味だった。


「……原初の妖」


「そうだ。そして、お前とは何度も会っている」


 雪の銀の瞳は大きく見開かれ、虚を付かれたように唇を痙攣させる。


「まさか……あの時の鴉、なの? 」


 私が答えなくても雪は俯き、暗い声音で唸る。


「己穂は、貴方を信じていたのに……。何故、こんな事を」


「己穂を人が生み出した『現人神』の呪縛から放つ。お前達は、己穂を妖にする為の憎悪の糧になればいい」


 雪は私の言葉に張り裂けそうな憤怒で歪めた顔を上げ、憎悪を、刃のように鋭い殺意に変えた! 銀の双眸は、己穂の金の双眸と对のような鋭い輝きを放ち、私は暗い羨望のまま唇を噛んだ。折れた針でじくじくと刺されるような苛立ちが募る。


「ふざけないで! 己穂が人で在りたい事を知っているくせに! 己穂がどんな思いで人間達を護っているのか理解しようともしないで、彼女を裏切るなんて! 」


「何度も己穂を説得した。だが、結局お前達が己穂の魂を捕らえているから、彼女は自由を選べない」


「貴方は……根本的な事を何も分かっていない。己穂は貴方の事だって、世界の一部として愛していたのに」


 私は項垂れた雪の言葉に刺された心臓は炎炎と激しく燃える鼓動で、言葉の刃ごと焔にべる! 燻っていた苛立ちは明確な憎悪に化した!


「自らが妖だと言うことを偽っておきながら、己穂の想いを語るのか! その傲慢な魂ごと焼尽して、己穂の前で偽りを暴いてやる!」


 私は怒号と共に、妖力を黒い焔の刀と化した。雪は痛みを負ったように銀の双眸を揺らがせる。


「貴方は己穂に自らの正体を伝えたの? 」


「そうだ、己穂は私が妖である事などうに知っている! 」


「そっか……己穂は、妖でも受け入れてくれたんだ……」


 雪は銀の双眸を潤ませ涙を堪えるように俯いて微笑すると、意を決したように私を見上げる。散った銀の涙は、彼女の化身のように煌めく。……雪は妖化を解いた。


「……これ以上、己穂を傷つける必要なんて無い。裏切り者は、貴方一人だけで十分よ」


「他に言い残す事は、無いようだな」


「有るとすれば、一つだけ。私は貴方の事を絶対に許さない。来世があるとすれば、必ず恨みを果たす」


 私は眉を顰める。所詮、追い込まれた弱者の、死に間際の戯言にしか過ぎない。私は黒い焔の刀を一閃させた!

 雪の首は名の通り軽く落ちる。白椿があかに染められていくのは一興である……はずなのに。待ち望んでいた愉悦は訪れない。

 私が雪や人間達を殺したと、己穂にこの口で叫ぶのだ! そうすれば己穂は私を憎悪する。望み通り、私と同じ妖になる。それなのに、私の身体は動かない。雪の言葉が刃となり、心臓を痛め続けているだけだ。刃は焔の中でも、灰になる事は無い。

 再び雷鳴が耳を割り、我に返る。私は己穂の元へ向かうどころか、妖達に命じていた。


『引き上げよ。宴は終いだ』


 私は意識を掠める返答を感じながら、漆黒の翼を広げて空へと飛翔する。遠い眼下で、金の輝きを放つ己穂が変わり果てた雪の姿を目にした瞬間……己穂の、身体を切り裂くような悲鳴が心臓を貫いた。それは痛み続けていた心臓の傷を更に抉るようだった。

 

 何故私は、己穂に雪を殺したと告げないのか。

 あれ程、己穂が私と同じ憎悪に染まるのを望んでいたはずなのに……。


 理解出来ない自らに代わって、鼓動は鳴り続ける。この痛みは、恐らくもう治らない。私はただ、広がる若葉色の眼下を茫洋と見つめ続ける事しか出来なかった。




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