第九十六話 淵源の黒



「比呂馬!! 」


 呼吸を滅茶苦茶に乱しながら屋敷に駆け込んだ私は、待つはずの比呂馬を探した。だが、囲炉裏に座って居るはずの比呂馬が居ない。暴れ回る心臓を抑え息を整える。


 そうだ、落ち着け。何もかもが真実とは限らない。私が見たのは、父と母を殺す比呂馬では無いのだから。


 その時、襖の隙間から誰かが居るのが見えた。比呂馬しか、いないだろう。


「比呂馬……! 」


 しかし、襖を開いて部屋に飛び込んだ私はそれ以上言葉を継ぐ事が出来なかった。比呂馬が刀を握っていたからだ。但し、それは私に対してでは無く……自身の腕に対して。

 呆然と立つ私に気がついた比呂馬は、血の気が引いていく。


「烏……」


 私は何故駆け込んで来たのかも忘れて、比呂馬から刀を奪った!


「何してるんだ、死ぬ気なのか……!」


「そんなつもりは無い」


「じゃあどうして……」


 私は比呂馬の腕の傷に、新しい傷が重ねられているのを見て愕然と眼を見開く。規則的な間隔で付けられている傷は、今思えば異常だった。血塗れた比呂馬の傷と、私が奪った刀についた鮮血が結びついた時……私の中で限界まで張っていた、糸が切れた。手にした刀が床に落ちて、不快な音を立てる。


「……今日、私の両親を知る人に会った」


 冷えた私の言葉に、比呂馬は僅かに瞼を痙攣させたが滅紫の瞳に動揺は浮かんでいなかった。比呂馬は何時かこんな日が来る事を知っていたように。私はそんな小さな動作にすら、火薬を擦ったように苛立ちが募る。


「比呂馬が、私の父と母を殺したのか」


 私は絶望と希望を織り交ぜた反物に縫い止められた、仕付け糸だった。切れた糸ごと、もうすぐ火にべられる。比呂馬の言葉が、私の予想通りなら。


 どうか嘘であって欲しい。今まで過ごしてきた時間を信じさせてくれ。


 比呂馬は焦点すら覚束無い私に対し、変わらない声音で真実を告げる。


「……そうだ。思い出したんだな」


 急速に視界が明瞭になるのに、身の内から黒い焔が私を焼き尽くそうと燃え広がる! あまりの激しさに心臓が悲鳴を上げて、鼓動を鳴らして警告する。皮肉にも、身の内を燃やす黒い焔は、両親が殺された時に感じた忘却の炎と似ていた。血の気が引いた比呂馬のかんばせすら、あの時と同じ。真っ直ぐに私を見つめる滅紫の瞳だけが、違う。


「何故殺した、どうして私を生かした! 自分を傷つければ、罪滅ぼしになるとでも思っているのか! 」


 怒り狂う私と反対に、比呂馬はあくまで冷静に瞬いた。


「お前の父、基明もとあきは元々同じあるじに使える侍だった。しかし基明は、ある日敵方へ裏切ったのだ。……味方を皆殺しにして。生き残った私は、姿を消した基明を追った。裏切りの理由が、敵方のある女だと知った時……私は彼らを殺す為だけに存在する憎悪の一閃となった。目的を果たした後は私も死ぬつもりだった。……お前が戸口に現れるまでは」


 私は蘇った記憶の中の比呂馬が、正気を取り戻したようにその瞳に閃光を瞬いたのを思い出した。


「衝動的にお前を燃え盛る炎の中から連れ出したが、私には気を失ったお前を殺せなかった。お前を誰かが救ってくれるはずだと、私はそのまま去ったが……案外無情な者しか居ないものだな」


 比呂馬が苦く口の端を引き攣らせると、私は衝動的に比呂馬の衿元を掴んでいた!


「それで我慢ならずに私を助けたのか! 記憶を失っていてさぞ都合が良かっただろう! 」


「どうだろうか。私はお前が何時か思い出すのを、望んでいたのかもしれない」


 私は比呂馬の滅紫の瞳に浮かぶ鈍い輝きに、時が止まった気がした。瞳に宿るのは、絶望からの解放を望む暗い希望だった。比呂馬は焔の中で立ち尽くしていた時のままなのだ。私と過ごした時は、比呂馬の心臓を変えてくれなかった。比呂馬は暗い感情を交えたまま、薄く笑う。


「あの日から一年が過ぎる事に、腕にしるしを付けてきた。お前が何時か私を殺す日を、私は数えて待っていた」


 比呂馬の暗い微笑が、身体の内を炎炎と焼き尽くそうとする黒い瞋恚しんいの焔にべられた時……私は信じていた愛情を裏切られ、憎しみと絶望に発狂した!


 衿元を掴んだままの比呂馬の滅紫の眼が、急速に色を無くしていく。私は衿元を離し、痙攣する手元に慣れた温かさを感じた。瞼を閉じると、倒れる比呂馬に一切の光は存在しなかった。代わりに私の両手は異常な程に、若葉色の生力しょうりょくで輝いていた。これは、比呂馬の命の輝きだ……。私が、奪った。

 その生力も輝きを無くし、漆黒に変わる。覚えのある感触だ。皮膚の下へと這いずるように、私の体温を貪欲に喰らおうとするくせに、どろりとした虚無という器に引き摺り込もうとする……闇の手触り。私を輝かせていた若葉色の光は流れ出て地に吸い込まれるように消失していくのに、私の内に残る若葉色の光は黒い深淵となって変質していく。これは、何だ。


 私は、肌を描き毟られたような違和感に瞼を開く。本当に焼き尽くそうとするように黒い焔は実体化していた! 黒い焔は比呂馬の亡骸すらも灰に変えようとする。私は強い意思で否定したが、黒い焔は代わりに私自身を喰らい尽くす! 私は身体の内と外を焼き尽くさんとする激痛に絶叫した。悲鳴を上げるように、鼓動を鳴らして警告していた心臓すら変質していく。激痛のあまり、のたうち回る私は痙攣する。理由の分からない涙も異常に吹き出る汗も、混ざる。逃げられない、何処にも。


 抵抗すら奪われた時……焔から生まれ出ずる魂があった。その色は黒。生力を奪い、新たな力と化す、半不死の存在。


――原初のあやかしだった。


 漆黒の翼を背に与えられ、人に死を与える象徴となった私は、牙を生やし、『烏』では無く『鴉』と呼ばれた。心臓は、黒い瞋恚しんいの焔である。


 鴉はかつて人間であった自分を妖に変えた男の亡骸を、細い瞳孔が覗く黒曜石の瞳で一瞥すると、漆黒の翼を翻す。黒い羽を残し、逢魔時の空へと飛び去った。


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